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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
114/272

37・(土・日)3月9日~10日

          37(土・日)3月9日~10日



「いやあ、疲れました」


 てる子さんのとこへ行くと、カウンターはギュウギュウだった。


「忙しかったですか」


 にこやかに笑うてる子さんから熱いおしぼりをもらうと顔を拭いた。


「タカりにくる赤髭のオッチャンがいるんです。ボロボロの自転車に乗ってきて『儲けたか! 酒奢れ!』 ていう」


 するとカウンターの端から、


「松本のオヤジやな。ロクなもんじゃなかぞアイツ」


 すると今度はカウンターの中央で、


「アレが言うヤクザは実家の漬物屋やけん。お兄ちゃんは気にせんでよかよ」


 赤髭の謎と呪いが一気に解けた気がした。


「それよりお兄ちゃん、毎晩唄いよると? 学生さん?」


 カウンター端からの声には、てる子さんが答えた。


「ナオミちゃんはプロやけんねえ。私もこないだコンサートに行ったとよ」


「へえ、大したもんたい」


 中央の客が言う。


 僕はいつもの煮込みを頼み、熱燗をひとりでつまんでいた。


 すると隣のオバちゃんが、


「あんたさっきそこで唄いよったろ。プロの歌手いうて、レコードは出しとるとね」


 興味深そうに訊ねてきた。するとその隣のオジさんが、


「今はCDていうとばい。CD」


「ふーん。それでご飯食べられると? 食べられんけん道端で乞食のごと唄いよるとじゃなかね。お母さんは心配しとらんと」


 返す言葉はなかったが、そこはてる子さんが優しくフォローしてくれる。


「ナオミちゃんなまだ一年生やけんがさ。それでも五百人の前で唄えるとやけん。大したもんばい。ねえナオミちゃん」


 五百人は言い過ぎだったが、隣りのオバちゃんはそれで納得したのか、オジさんとの歓談に戻った。


 乞食か、と思えば長崎くんちの時に大波止で帽子を置いて、軍服を着て、ずっと下手なハーモニカを吹いていた片脚のオジさんを思い出す。母はいつもそれを見て「乞食やけんかまわんと」と言っていた。今の僕と何が違うのだろうかと思えば、僕は不幸を売りにはしない。いつもだれかの幸せを願って唄っている。中州の街で気持ちのいい酒を誰もが飲めるため、そのために唄っている。


 カウンターが空き始めたのは十二時を回ってからだ。


「お兄ちゃん、唄うてみんね。人もおらんけん」


 オバちゃんが言うと、てる子さんが笑顔で、


「こん人に唄うてもらうにゃお金がいるばい、ねえ」


 と僕を見た。そんなこともないので、


「いえ、唄いますよ。知ってる歌であれば」


 するとオバちゃんは、


「あたしゃ、『居酒屋』の聞きたかねえ。絵~もない~歌もない~ちゅうて」


 僕はすでに準備に入っている。ギターを出すとさすがにオバちゃんも構えたようで、


「ほんなこつ唄えるとね」


「ええ、その代わりデュエットなんで一緒にお願いしますが」


「あたしが? きゃあ恥ずかしか」


 そんなことはお構いなしに、僕はカウンターに開いた歌謡全集をギターでなぞる。


「えー、あたしゃ唄い切れんよ。きゃー」


 言いつつ唄う。


「居酒屋で~。ひゃあ、唄うてしもうたばい! お兄ちゃん、上手かたいね。応援するよ」


 面倒臭いことを言うより唄ってしまえば分かってもらえる。そんな音楽の世界が僕は好きだ。


「お兄ちゃん、なんば飲むね。一杯おごるけん」


「そうですか。じゃあ生ビールを」


「てるちゃん! 生ね!」


 そうして僕は今夜もただ酒を飲むのだった。



 部屋に戻るとポケットで皺だらけになった千円札をテーブルに並べた。千円札七枚と、小銭が千八百円ほど。それが今夜の上がりだ。いつもより念入りに皺を伸ばして、積立の封筒に三千円入れる。明日は天神の中古レコード屋だったと思い出す。


 それから僕はカセットテープを入れ替え、彼女の声を聞く。


『ナオミ君へ、手紙を書こうと思ったけど、なんか長くなりそうなんでこんな形になりました。ナオミ君が私と出会ってくれてから、私の人生は大きく変わりました。真っ暗な世界に眩しい光がいきなり差してきた感じでした』


 懐かしい麗美の声が聞こえる。那由多には決して知られたくない秘密だ。僕はいまだにこのテープを聴かなければ眠れない。


『私はあれから、ナオミ君の好きな尾崎豊のCDを全部揃えました。大好きなのは『Forget me not』という歌です。初めて君と出会った日、忘れな草はおろか花も咲いてないアーケードだったけれど、私の夢はその歌に詰まってました。朝の光の中で一緒に目を覚まして、口づけて、一緒にご飯を食べて、そしてナオミ君とベッドに寝転んで。いつまでもいつまでもそんなことが続けばいいなと、何も考えずに思ってました』


 そう考えていたのは彼女だけではない。僕もまた、そう思っていた。


『もしポケットの中に行き先も忘れたチケットがあるとして――それがあたしの名前だったらいいなと思います』


 僕のポケットには今、チケットはない。それでもどこかで失くした片道切符はあったはずだ。それがどこへ繋がるのか、僕には分からない。



 翌日は予定通り天神の中古レコード屋へ向かった。昭和歌謡を覚えるのにも一役買った恩義ある店だ。

 洋楽のSの棚を物色していると、思った以上にサイモン&ガーファンクルのCDは並んでいた。せっかくなのでベスト盤を九百八十円で買い、ついでに変えの弦も楽器屋で二セット買い、早速部屋に戻って聴いてみた。


 感想は、難しかった。


 苦手なアルペジオから始まる曲は次第に盛り上がりを見せて着地するのだが、どうやら六フレットのハイカポで弾いているらしく、その位置に慣れるのに時間がかかった。僕の場合ギターは半音落としになるので七カポだ。


 ということで歌詞起こしから始めた。なるべく読みやすいよう、間違えないよう、文字は大きく見開きで譜面を使った。


 CDにはライナーノーツがついてあり、ダスティン・ホフマンの映画『卒業』のテーマソングだと書いていた。花嫁を奪ってバスで逃げるという結末は僕にとって面白いものでもなく、そんなものはフィクションだと小バカにしていたのを覚えている。昔の恋人とビデオで見た感想だ。


 それはそうと、ギターが覚束ない。ワンコーラス終わればあとはストロークですむのだ。何とかイントロ部だけ二週間練すれば大丈夫だ。一度覚えた歌は財産になるのだし。


 午後一杯を使って練習を重ねると、なんとかCD通りに弾けるようになった。あとは歌詞を乗せてみる。と、そこへ、ドン――と壁を叩く音がする。仲井間さんの部屋だ。僕は挫けてなるかと練習を続ける。しかし二回目のドン、が来るとギターを投げた。これは面倒臭いと思い、午後三時の事務所へ向かうことにした。


「あれ、杉内さん何か御用でした?」


 菅原さんに経緯を説明すると、


「難しい人ですからね……。ここでよければ使ってください」


「ああ、あと二十三日の土曜日に夜からCLUB NOAで営業入りました。それと翌月曜の二十五日にラジャマンダラでオープンマイクです」


「土曜と、月曜ですね。了解しました。ところで――」


 菅原さんが表情を曇らせる。


「ダイナソーでの杉内さんのギターの件なんですが、誰に訊いても『仲井間さんだ』という答えしか返りませんで。何かトラブルでもありましたか」


「一度路上の場所取りで揉めたことはありましたけど」


「そうですか。今後、彼の処遇は考えておきますので。まあ、今日はこちらで練習に励んでください」


 ソファーに座って持ってきた譜面を開き、ギターを爪弾いていると静かな時間が流れた。ひと段落したところで思い立ち、事務所隅のAriaのギターの弦を変えてみることにした。埃だらけのボディを拭き、一弦ずつ取り替えてゆくと、なかなか鳴りのいいギターに変身した。そこへ事務所のドアが開く。牛丼の包みを持っているのは小川さんと関さんだ。


「おう、どうしたナオミン」


「ああ、おはようございます」


 僕は席を立つ。


「座っとってよかよ。なんや、弦変えよるとね。偉かな。ちょっと貸して」


 関さんがAriaを手にすると、


「おう!鳴る鳴る! 現役でいけるぞこれ」


 ギターを弾いている時の彼は少年の目になる。


「杉内君、ちょっとE‐A‐B7でブルース弾いてみて。短めのストロークでいいけん」


 僕は言われるままそのコードを弾く。すると滑らかな指先の関さんがリードを入れ始める。


「ああ、これでハープのあればねえ。小川、お前ちょっとハープ覚えろ」


 五分ほど続いたセッションは終わり、関さんがギターを事務所の隅に戻すと、食事が始まった。僕も今夜は牛丼にしようかと思う。


「ほお。そいでサイモン&ガーファンクルば覚えよると」


「ええ。お好きな方がいらっしゃるようで」


 ギターを仕舞った僕は立ったまま事務机で煙草を吹かし、それを消すと事務所をあとにした。


「じゃな、ナオミン」


「はい、お疲れ様です」


 外へ出ると、真っ赤な空が燃え落ちそうだった。今夜は日曜だが、練習がてら路上に出るのもいい。採算度外視で座りで唄おう。

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