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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
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33・(木)3月7日

          33(木)3月7日



 ファンレターが届いてますよと事務所に向かったのはNOAライブの翌々日だった。


「一通届いてます。R・Kさんです」


 それだけで十分相手は分かった。

 事務所で見るのも何なので、部屋に持ち帰った。丁寧に宛名の書かれた封筒をハサミで開封すると、きれいな文字が並んでいた。


 ――前略 先日はありがとうございました。また手紙を出せるとは思ってもいなかったです。ナオミ君の『リンダリンダ』ではつい思い出がよみがえって、みっともないところを見せてしまいすみませんでした。でも嬉しかったです。あの頃と同じようにブルハを唄ってみせるナオミ君が嬉しかったんです。今はただ、この偶然に感謝します。これから暖かい季節になりますが体調にお気をつけて音楽を続けてください。自由な時間がないため、乱筆乱文お許しを。 早々 香坂麗美


 遠い人からのメッセージを読んだ気分になり、それはあながち間違ってもいなかった。彼女はもう、遠い人間なのだ。


 コーヒーを淹れると、部屋の窓を開け放った。今日は気温十二度。ささやかに春の恩恵が降り注いでいる。


 布団をベランダに干し、床に座ってコーヒーを啜った。新しい曲の構想がないでもなかったが、今は手をつけたくない。無理やり作った歌はすぐにボロが出る。


 那由多の言う通りにことが運んだとして、新しい部屋はどこになるのだろうと思えば、それが目下の気がかりだ。


 それでもノートを出してYAMAHAのギターを手にいくつかフレーズを考えていた。次のライブは五月だ。そこまでに一曲は仕上げてみたい。季節ものになるのか、それとも別ものか。それは自分次第だ。


 毎日の演奏はもちろん続けていた。最近多いリクエストはやはり長渕の『とんぼ』と季節ものでイルカの『なごり雪』だ。上がりは平均で三千円。五千円を超えた日はてる子さんのところで飲んだ。今のところ中州でいちばん落ち着く店だ。きっとこれからもそうだろう。


 定刻の七時に中州へ出ると、風はなく、昼の陽気が残っていた。


「お兄さん今から?」


「こないだのライブよかったよ」


 最近は御出勤のお姉さま方からそういう言葉も聞けるようになった。岡崎さんのところの従業員で間違いないだろう。


 そういった雑念をポケットウイスキーで胃に流し込み、今日一発目は尾崎の『LOVE WAY』だ。すさまじく音の取りにくい歌だったが、唄えるようになると気持ちいい。


 尾崎ナンバーは続き、『COLD WIND』を唄っていると本日最初の小銭が入った。


「ありがとうございます!」


 そこからは歌謡全集を開き、知ってはいるがまだチャレンジしたことのない歌をメインに練習した。中学生時代には聞いていたはずの、中村あゆみの『翼の折れたエンジェル』やハウンドドッグの「フォルテッシモ」など、CMで聴き覚えのある歌ばかりが揃った。そこへ、


「お兄ちゃん。『私だけの十字架』って唄えるね」


 見ると年齢不詳のオジさんが立っていた。ニコニコしている。


 まったく聞き覚えがないので、


「いやあ、レパートリーにはありません」


「じゃあ『聖母たちのララバイ』は」


 それならあった気がする。今日の「知ってるが唄わない歌」のテーマにピッタリなので、唄ってみることにした。


 なんとかワンコーラス唄い終えるとオジさんは嬉しそうに手を叩き、


「へったくそやなあ」


 そう言って立ち去ろうとした。


「また覚えますんで、せめて小銭でもお願いします」


 と食い下がると、


「ないない」


 と手を振って去って行った。躾けの出来ていないオヤジだ。


 まあそれも路上かとオリジナルナンバーに路線を戻して唄っていると、CLUB NOAの方で女の子と一緒にお客さんを見送りしている岡崎さんの姿が見えた。帰り際に目が合ったので頭を下げた。


 十時を回ってぐんと気温が下がった気がする。そうなるとレパートリーは冬バージョンに舞い戻る。尾崎の『街路樹』を尾崎になりきって唄っていると、隣りに人影が見えた。人影は煙草を吹かし、それ以外に動く気配がない。僕はそこへ唄うつもりで声を張った。


 この歌を唄うと、長崎でのアパートを思い出す。毎日のように訊ねてきた那由多のことを。


 二番辺りの歌詞になると難解で、僕には理解が追い付かない。それでも僕は唄う。


 右隣の影が煙草を投げ捨てた。そして長いエンディングが叫びと共に終わると、影は僕の前に姿を現した。岡崎さんだった。


「今の歌はどなたの?」


「尾崎豊です。岡崎さんには苦手かなとは思いますが」


「そうでもありませんでした。よかったです。それは杉内さんが唄うからなのかも知れません」


 僕はポケットのウイスキーを煽り、照れをごまかす。


「飲みながら唄って喉は大丈夫ですか」


「そうですね。逆に喉が開く感じで声は出ますけど」


「声楽ではそう言った理屈はあり得ませんね。あなたは本当に面白い人だ」


「僕は歌もギターも我流なんで。それで岡崎さんは今何を?」


「何もかも嫌になって、仕事をほったらかしで出てきました。そういう気分の時もあります」


 やけに人間臭いことを言うなと思っていると、


「杉内さん、私が奢りますんでどこかいい飲み屋でも知りませんか」


「岡崎さんが行けるようなお店は存じませんが」


 僕はギターのストラップをかけ直しながら答える。


「いいんです。場末の、知り合いに会いそうもない店を、紹介してくれませんか。これでも私、今日は相当酔ってるんです。しかし飲み足りない。店にある酒を値の張る順に飲んでいっても全然酔えないんです」


 何やら切実な事情でもあるのかと、何よりこの数日お世話になってばかりなので断りようがなかった。


「じゃあ僕も今日は閉めます。その代わり、連れてったお店でびっくりしないでくださいね」


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