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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第一部・はじまりさえ唄えない 1990年
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11・(火)5月22日

          11(火)5月22日



 安らかな寝息を立てているのは、麗美だ。


 朝の五時に目が覚めてしまった僕は天井を見つめ、自分を傍観していた。彼女が寝返りを打つたびに絡めてくる足をそのままに、不思議なことに平静でいられた。高校を辞めてからというもの信じられる誰かに飢えていた僕は今、彼女にだけ心を開いている。それは間違いない事実だった。


 いつからか恋人の理恵にも話せないことが多くなり、それは彼女の助言なり希望が僕のそれと大きくかけ離れていることにあった。


 仕事を辞めると言えば、


 ――「もうちょっと頑張ってみたら」


 家に帰りたくないと言えば、


 ――「でも行くとこないでしょ」


 そうやって優等生の大人と同じ言葉を繰り返す彼女に軽く幻滅しているところがあったのも確かだ。


 彼女の言葉はその通りだった、現実的だった。にもかかわらず、僕は別の答えを求め過ぎていたのだ。帰りたくないと言えば「私も帰りたくない」と同じ気持ちを分け合いたかったし、それがたとえ叶わぬことだとして、同じ気持ちであることを口にして欲しかった。



 実際、彼女への思いが冷めてきているのは確かだ。彼女が僕にすべてを晒すのはセックスの最中だけになり、あとは大人しい、出来のいいお嬢さんの顔で僕の家族に会ったりもしていた。そして今回、知らないところで事は進んでいた。彼女の告げ口が原因なのかは分からないものの、僕は家出の中断に追い込まれてしまった。


 彼女には泣くだけでなく、僕の肩を持って欲しかったのだ。それなのに彼女はいつしか僕の家族を味方につけ、僕を糾弾する側に回っていた。そのことはかなり大きなショックだった。誰が可哀そうだと言って、それは僕自身以外にありえなかった。


 僕は、左隣の麗美の、小さな右手をそっと握ってみる。その温もりは安らかに心を満たし、いつまでもそうしていたいと思わせた。


 そこへ、


「そこから先がなかとよねえ」


 やけにはっきりした寝言かと思えば、彼女はどうやら起きていた。繋いでいた手を慌てて離すのも気まずく、


「ごめん、なんとなく」


 それはそれで失礼な言い訳を口にした。


「よかけどさ。あたしもこの方が何か落ち着くし」


 ふたりで同じ白い天井を見上げ、僕と彼女は言葉を交わし始めた、外は日が昇り、小鳥の声が忙しく聞こえていた。


「そういえば、高校って行っとらんと?」


「うん……一年で中退した」


「ふーん」


 彼女はその理由を訊かない。


「で、バイトしたり辞めたり」


「ギターは? いつか辞めると?」


「それは――」


 今は考えていない、というのが本当の答えだったが、なぜだかそれを言うのも躊躇われて、


「行けるとこまで行ってみようかなって、思っとる」


 すると彼女は握っていた右手に力を込め、


「プロとか?」


「どうかな」


「出来るよ、ナオミ君なら。あたしなんか何もないもん」


 朝の会話は不意に沈黙に変わり、その代わりに彼女が顔を寄せて来て、小さな口づけをした。


「あたしとナオミ君は住むとこが違うけんね。今はこれが精一杯」


 そう言うと彼女は手を解き、黒い下着姿のままでリビングへと向かった。


「朝ご飯、食べて行かんね。トーストと目玉焼きくらい出来るよ」


 キスの照れ臭さはあったものの、彼女の好意に甘えることにした。どうせ今日の昼間はあの板の間で昼寝だ。


 キッチンに立って甲斐甲斐しく動いている彼女を見るにつけ、また理恵のことを思い出して心苦しくなった。一度きちんと話はしたい。彼女は僕が思案橋で唄うことをどう思うだろう。


「はい、コーヒーブラックね」


「ああ、ありがと」


 麗美は目玉焼きはソースなのだと言い張って、潰した黄身にドバドバとソースをかけていた。


「今夜、何時に出る?」


「することないし、七時には出るよ」


「ホント? じゃあ聴きに行く」


 麗美は昼間、何をしているの――と訊ねたかったが、その質問は朝の会話に向いていない気がしてやめることにした。


 食事が終わり、洗い物をしていた彼女が、


「スーツどこやった? アイロンかけるよ」


 そう言うのでリュックから取り出した。狭いリュックの中で、スーツには大きな皺が出来ている。


「貸して」


 彼女はアイロン台を立てると、慣れた手つきでスーツの皺を伸ばしていった。襟元と袖口にもしっかりアイロン掛けされたスーツはまるで新品だ。


「それ、似合ってるけどシャツがいまいちかもよ」


「まあ、何も考えんで選んだだけやから」


 素直に白状すると、


「今度、一緒に探しに行こう」


「ストリート、頑張ったらね」


 着替えが終わり玄関へ出ると、彼女が言った。


「行ってらっしゃい」


「……行ってきます」


 まるで健全な生活の見本のように僕らは笑った。


 マルエイアパート――というらしいが、板の間だけの寮に向かうとオバさんが道路に水を撒いていた。


「おはようございます」


 しかし返事は返らず、僕は階段を軋ませて二階の0号室という不思議な部屋番号のドアを開けた。日に焼けた床の、例えば古い木造校舎の床の匂いがした。


(今日一日はここで我慢だ)


 我慢だなどと言うとそれこそオバさんに叩き出されそうで、ギターの次にひとり言も禁じた。


 荷物を置くと、とりあえずウォークマンを出して耳を塞いだ。ブルーハーツばかりでしばらく聴いていなかった尾崎を流すと心も新鮮になった。90分テープのAB面にフルで録音した曲は選りすぐりの十六曲で、思えば電気工事のバイト時代から聴いている。


 尾崎豊との出会いは高校を辞める寸前の三月、兄貴の悪友が聴かせてくれた三枚目のアルバム『壊れた扉から』だった。その中の『Freeze Moon』という曲が鮮烈で、夏に始めた仕事の給料で一枚目の『十七歳の地図』そして二枚目の『回帰線』と立て続けにアルバムを買った。僕自身は反体制でもないし反骨芯も持ち合わせていなかったが、あらゆる歌詞に共感した。ただ、親の反対を押し切って学校を辞めたことも、バイトを転々としたことも、それは尾崎の影響じゃない。それは僕自身の、ただの性格だ。


 B面にリバースしたカセットテープは、『OH MY LITTLE GIRL』を流し始める。冬場の路上に唄えたらいいだろうなと思えば、麗美の顔が浮かんで照れ臭くなった。僕は彼女を好きなんだろうかと自問すれば、嫌いではないと言えた。ただ、理恵との関係が続く中で彼女のことを考えるのは不謹慎だと思った。誰かに相談してみたかったが、高校中退の僕には適当な相手が見当らなかった。


 板の間にも慣れてしまうと楽なもので、僕は譜面台を取り出したリュックを枕にして昼寝を始めていた。今の状況を打破するにはストリートミュージシャンを続けるしかないと、壁際に立てかけたギターを見つめながら眠りについた。


 物音で目覚めたのはもう夕方で、最初はテレビの音だと思っていた。が、どうやら聞こえてくるのは壁一枚隣の部屋からで、しかも男と女の絡み合いだった。


 どうしていいものかと煙草をくわえていたが、不意に男の声で、


 ――イクイク!


 と聞こえたので、行ってらっしゃい、と呟いた。他人のセックスほど興味のないものはない。


 世にはAVが溢れているが、僕はそれを好んで見ようとしたことがない。中三の時に友人の家に集まって興味本位で見た映りの悪いAVのせいだと思う。女ひとりに男が五人、入れ代わり立ち代わり絡み続け、最後には女の身体へと順番に射精していた。ご丁寧に無修正だった。それ以来、僕はカプセルホテルの無料チャンネルさえ見なくなった。トラウマなのだ。


 煙草の吸殻をどこに捨てようか迷い、窓から投げたらオバさんが顔を出したので窓枠の外へ逃げ込んだ。


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