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はじまりさえ唄えない  作者: 空芯菜
第二部・Forget-me-not 1991年
105/272

28・(日)3月3日

          28(日)3月3日



 全五曲を終えてステージ袖に引っ込むと、会場からはアンコールの声がかかっていた。仕掛け人はスタッフだろうが、その声は僕をもう一度ステージに引っ張り出す。バンドメンバーが笑顔で親指を立てていた。


 ギターを構えてステージへ戻ると、大きな拍手が迎えてくれた。


「拙い僕の歌にアンコールをありがとうございます。これは博多に来て作った歌です。すごくパーソナルな歌だったのでお蔵入りにしようとも思った曲ですが、聴いてください。『置き去りの夏』」


 D‐Cメジャー7 D‐Cメジャー7 そんな簡単なイントロから曲は始まる。


 ――転がり始めればいつも 辿れぬ振り返る道を

 ――二人で選んだ花の種 色付くまで待てなかった

 ――時の流れにも 夢のもろさにも 僕らは勝てずにいたけど

 ――つまらないウソを笑い飛ばせれば いつまでもただ僕たちは夏を歩いてた


 何を隠すこともない、香坂麗美のために作った歌だ。彼女のために出来た歌だ。出来れば彼女の前以外で唄いたくなかった。しかし、ミュージシャンというのはそういうものなのだ。自分のプライバシーも思い出も切り売りして、金に換えてゆくのだ。ならばいっそすべて出し切ればいい。隠すものなどないと開き直ればいい。僕は彼女の優しさを裏切った。そして今でも愛している。それが僕の真実だった。


 ――時の流れにも 夢のもろさにも 僕らは勝てずにいたけど

 ――つまらないウソを 笑い飛ばせれば いつまでもただ僕たちは夏を歩いてた

 ――いつまでもただ 僕たちは 夏を歩いてた


 短い後奏が終わる。会場は静けさに包まれる。そして一歩下がり深くお辞儀ををすると拍手に包まれた僕のデビューライブは終わりだ。


 楽屋に戻ると、


「ナオミちゃーんお疲れー!」


「ナオミ君、よかったよ!」


「杉内君、ようやった」


 先輩たちから祝福の声が飛んだ。熱を持った会場の客が一気に外へ流れ出る。ライブ後の一抹の寂しさだ。夢の中から現実へ引き戻される瞬間だ。


「さて、感慨に浸るのはここまで。皆、撤収するぞ!」


 関さんはどうやらバンド以外でもまとめ役のようだ。


ステージ上を元に戻す作業は黙々と進められる。肝心なのは私物と会場の物を分けることだ。慣れない僕と那由多はもっぱらシールド巻きに勤しんでいた。と、そこへ、


「杉内さん! 日向さん! すぐに楽屋の方へお願いします!」


 菅原さんが呼びに来た。僕と那由多は顔を見合わせ、とりあえず楽屋へ動いた。


『控室2』と書かれた戸をノックして開けると、


「ああ、ふたりともお疲れ」


 落合さんが言う中、僕と那由多は目を見張った。思わずドアを閉めるのも忘れていた。


「こちら、岡崎さん。杉内君はもちろん知っとるね」


「はい……」


「今日は奥さんと来とらしたとけど、ふたりの演奏が素晴らしかったということで、ぜひ挨拶をしたいと言うてくれてね。岡崎さん、どうぞ」


「日向那由多さんですか。あなたは素晴らしい才能と声をお持ちです。私は五月から東京で活動しますが、音楽系の事務所も持つつもりです。御縁があればどうぞ」


「はあ……」


「それから杉内さん。期待通りのお歌、素晴らしかったです。家内が非常に気にいったそうです。CDを作る機会が――ぜひ作って欲しいですが、その時はぜひ系列店でお披露目させてください。おい」


 彼は、隣りに立っていた赤いドレスの女性に言葉を促した。大きなつばの帽子を被った女性はうつむきがちだった顔を上げて、女神のような笑顔で口を開いた。


「初めまして。香坂麗美と申します。おふたりの歌、心に染みました。今後のご活躍を心からご期待申し上げます」


「では、我々はこれで」


 出口へ向かおうとするふたりに、


「麗……香坂さん、きれいな花をありがとうございました」


 彼女は背中の大きく開いたドレスで振り向いた姿勢で何も答えず、笑顔のまま去って行った。


 すると最初に椅子に座り込んだのは意外にも菅原さんだった。


「あんな大物、よく呼べましたね」


 落合専務も、


「今後はどうやら繋がりが出来ていく感じやね。それにしても美人の奥さんたい。歳なんか杉内君と変わらんやろう」


 つい、「はい」と返事しそうになった。須藤さんだけが無口に窓側を向いていた。


「じゃあ、僕らはこれで」


「ああ、呼び出してすまんかったね」


 ふたりでステージへ上がると、すっかり機材は片付いていた。


「ナオミさん。気を確かに持ってくださいね」


 那由多が言った。


「大丈夫だよ」



 二次会はすぐ隣のビジネスホテルの宴会場だった。


「えー、まずは本日のライブのために鋭意努力を続けてきた皆さんに感謝します。今日は我がナスティに二つの宝が生まれた日でありますが、先輩諸君は彼らの若い芽を潰さぬよう、公私共に気にかけ、何かあればいちばんの相談相手になっていただきたい。まあ、そういう話は逐一報告するようにして、今は何よりライブの成功を祝いたい。では皆さん、乾杯!」


「うおおおっ!」


 と怒号が響くとあちこちでグラスがぶつかった。Salty Cannonのメンバーも客でいたらしく、最年少の僕はすべてを回るのに二十分かかった。最後に、


「落合専務、菅原さん、それから須藤さん。このたびは本当にお世話になりました」


 専務はどうやらご機嫌で、


「君はライブ映えするよ。その衣装もなかなかのもんやった。最近の若手はバラードばっかりやけど、君の歌には未来がある。今後もナスティの全力を傾けてプロモートしていくから。まあ、今日は充分に食べて飲みなさい」


 それから那由多が専務席へ伺いにきた。


「日向さん、パーフェクトやったよ。一曲目の演出を頼まれた時はどうかと思ったよ。でもナイスアイデアやったね。ストリートシンガーがライブシンガーへと脱皮するその瞬間を、見事に表しとった。一曲目はあれ、なんて歌ね」


「はい……『翼なき者』です」


「歌詞が深かったねえ。その歳でああいう歌を唄い上げられる人間はそうそうおらんよ」


「歌詞は、杉内さんからもらいました」


 するとあからさまに驚き、


「そうか。ふたりの共作ねえ。いや、みごと。これは俺も一本取られた」


 そんな訳で打ち明け話を終わり、自然と小川さんのいる丸テーブルへ向かった。会場にはテーブルが五つあり、明らかに事務所関係者じゃない人もいたが、落合専務の客なのだろう。


「お! 来たな立役者!」


 小川さんは隣の席を空け、座るように無言で命じた。


「おう、こけしもそっちに座れ」


「こけしって言わないでください」


「なんでんよかやっか。そいでふたりはさっき金一封でももろうたね」


 呼び出しのことだ。


「いえ。例の岡崎さんが見えられたんで挨拶に行ったんです」


「なんや、それだけか。それより飲もうで。今日は朝まで付き合え」


「はあ……」


 その後、座もグルグルと回転し、那由多は専務席に行って僕はテーブルにひとり残っていた。そこへ近付いて来たのは須藤さんだった。


「よ、だいぶ成長したごたるね」


「いえ、まだまだです」


「そうか? あのライブからまだ半年経たずにあれだけのステージパフォーマンスが出来るって、大きかよ」


「バックバンドの先輩たちのお蔭が大きいです。ちょっと間違えても大目に見てくれる懐が頼もしいんです」


「うん。TIMESはよかバンドよ。でもあいつら、ああ見えて結構好き嫌い激しかけんね。好かれたとも運の内さ」


 そうなのか、と僕は遠くではしゃいでいる小川さんを見ていた。


「で、びっくりしたけど――」


 須藤さんは煙草に火をつけた。


「何がなんやら分からんかったよ。あれ、麗美ちゃんやったろ? 例の許嫁って彼のことやったとね」


「みたいですね」


「じゃあ、知らずに接近したと」


「そういうことになります」


「うーん。ちょっと残酷な運命やね。最後のアコースティックの曲は彼女のために唄ったとじゃなかと」


「そうでもないです。ただ、彼女の名前で花が届いてたんでもしかして、と思って。楽屋で会うまで来てるのは知りませんでした」


「そうか……。優秀なミュージシャンならその運命さえ歌にするけど、杉内君はどうかな」


「彼女のための歌は二曲書きましたから。それで充分です。あんな形で再会出来たことさえ、幸運だと思ってますから」

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