1・(土)5月12日
二千枚ほどの書き溜めを、少しずつ投稿してゆく予定です。
よろしくお願いします。
1(土)5月12日
二十歳の誕生日の一週間後。長崎駅前のシティホテルの一室、広過ぎるベッドの上で時間を持て余していた。
サイドテーブルの上には作ったばかりの消費者金融のカードがある。
高校中退の二十歳になったばかり、無職の身で借りられたのは五万円きりだった。それでもまだバブル景気中ということもあり、そんな身の上でも金を借りられたのは僕にとって僥倖だった。ただ「家に帰りたくない」という子供じみた欲求を満たすのに金は必要だったからだ。
十六の頃から吸っている煙草に火をつけると、僕はサイドテーブルの固い椅子に腰かけて彼女の家へ電話を入れる。母親が出るか、父親が出るか、それとも彼女が出てくれるか、それは一種の賭けだった。そういう時代だった。
『もしもし?』
運よく電話に出たのは二つ年上の彼女だった。
「今ね、駅前におるとやけど。会えんかな」
時計を見ると夕方六時だった。今年大学を卒業したばかりのお嬢さんには難問だったに違いない。けれども彼女は一瞬の間を置き、
『友達に会うってことにすれば出れるよ』
軽く言ってのけた。
「じゃあ駅前の高架広場におるけん」
『うん、分かった』
僕はハンガーにかけていた麻のジャケットを羽織り、黄昏の街へと足を向けた。
この街の夕暮れは長い。九州の西端にあり、日没が遅いこともあるが、周囲を囲う小高い山々のせいで夕陽はいつまでもその辺に転がって見える。
ウォークマンを耳に繋げ、長崎駅前のだだっ広い高架広場のベンチに座っていると、彼女より先に不審な男がベンチの右隣に座った。
「これから一緒にドライブしない?」
その時は社会経験もないただの青年だったので相手の意図が分からず、
「いえ……今から人と待ち合わせしてるんで」
と答えると、いいタイミングで彼女が現れ、男はベンチを立つとどこかへ行ってしまった。
「どうしたと?」
僕の姿を認めるなりそう訊ねてきた彼女に、
「理恵に会いたかっただけやけん……」
そう、聞いた方も困るような本心を晒した。
「八時くらいまでなら大丈夫よ。きちんと言うてきたけん」
滲んだオレンジの空を背景に、長い黒髪の彼女が薄いピンク色のワンピースで小首をかしげる。
僕は消費者金融の話は隠して、あとは率直に今の居場所を伝えた。すると彼女は重い二重の目を見開き、
「高級ホテルじゃなかたい……」
黙り込んでしまった。
「そげん、気にするほどのとこじゃなかけん。たまたまパチンコで稼いだけんさ、そういうところも見ておきたくなって」
「じゃあ……今日は家に帰らんと?」
「ケンカしとるけん……」
それは嘘ではなかった。高校中退以来、バイトを辞めてばかりの僕に両親はうるさかった。口論の挙句、家を飛び出した僕には行き場が必要だったのだ。
それから彼女は僕の泊まるホテルが気になったらしく、フロントを素通りして一緒に部屋へと入ってくれた。
「うわあ……広かねえ……」
そんな彼女を僕は背中から抱きしめる。首から振り向いたその唇に、僕の唇を重ねた。
いつも使う安っぽいラブホテルと違うその空気に負けるようにして、彼女は軽く押された背中をベッドへ横たえる。
「何か、夢のごたる」
あらためて純白の室内を見回すその目は、夢見る少女といったところだった。実際、まだまだそういう歳だった。
僕はいったん中止された口づけを再開する。彼女はいつもの恥じらいを捨て、ブラジャーを外そうとする僕の指先に背中を反り返らせて応える。ワンピースの裾をまくり上げる僕は、すでに身体の芯に血液を集中させていた。
彼女は僕の、そして僕は彼女の初めての相手だった。セックスは僕らにとって甘いデザートで、すぐに溶けてなくなる綿あめのようでもあった。
彼女の絶頂を確信したのは三回目の行為中だったと思う。不意に喘ぎ声が消え、身体をぐったりとさせ、腹部を痙攣させる姿に、当初は戸惑ったものだ。
何にせよ、二十歳の僕も、そして二十二歳の彼女も、セックスに夢中だった。今になって思えば、携帯もスマホもない時代にあり、お互いをお互いとして確かめ合う行為はセックス意外になかった。許される時間も限られており、ふたりはいつも貪欲にお互いを求めていた。
脱ぎ散らかしたワンピースの上で彼女と身体を寄せ合い、僕は世界一不幸な恋人たちを思い浮かべる。八時になれば彼女はここを去り、そして僕はひとりの寂しさに再び身を置くのだ。何のための家出か分からないというのが、二十歳の僕の家出だった。
「じゃあ、行くけんね。明日はちゃんと帰るとよ」
背中を向けて身繕いを終えた彼女が不安そうな顔を見せる。そしてまた、言葉もなく口づけた。与えられた時間を精一杯引き延ばすように、彼女の長い髪を撫でた。
彼女を家へ帰すと、僕はそのまま街中へと足を向ける。どこからともなく湧いて出る寂しさの埋め方にばかり気を取られ、家族の不安はまったく頭になかった。僕など、いてもいなくても同じだと思っていた。
通っていた高校を一年で辞めた僕の生活は荒れていた。父親が知り合いづてに持ってきた仕事を嫌々ながら続け、漁船の電気系統の修理屋というハードワークに一時期は在職していたものの、月の出る間は漁船は休漁で、身体を休める暇もないほどに忙しく、十六歳の身で朝八時から夜十時まで働き通しだった。夕方に菓子パンの類を段ボールで差し入れられたが、それさえ口に出来ない程に疲弊していた。結局、二カ月で職場は辞めた。その後も父の紹介する職場をことごとく一か月で辞めていた。父が知り合いづてに持ってくる仕事は体力勝負の重労働が多く、細身で非力だった僕にはひとつも向いていなかった。
彼女と出会ったのは十七歳の時、自分で見つけてきたバーガーショップのバイト先だった。漁船の電気屋とは違い、大学生がメインのバイト連中は皆温厚で、そして若さに溢れた職場だった。そこで三年はバイトを続けたが、当時大学生だった彼女が卒業するとなると急にやる気が失せた。告白などという面倒臭い真似の出来なかった僕は、ある日のバイト終わりに彼女を誘って、遠くに造船所の見える海へと向かった。
――「竹下さん、バイト辞めると?」
直球しか投げられない僕へ、彼女は不意に戸惑いを見せ、
――「ナオミ君が辞めるなって言うたら辞めんかも」
冷たい風に髪を押さえながら答えた。
そんな台詞の意味も汲み取れず、僕は煙草に火をつけた。三月の油臭い海風に吹かれて、このまま知らないどこかに消え去ってしまいたいという思いが初めて生まれた。
県立美術館近くの彼女の家へ向かう細い坂道で、
――「また会えるかな」
僕の言葉に、彼女はうつむきがちに答える。
――「多分……」
そんな彼女が急に愛しくなった僕は、告白の言葉も何も口にせず、いきなり彼女の髪を掻き上げて口づけた。彼女は階段の上に立ち、僕は下にいた。真っ直ぐな彼女の目は驚きに満ちていたが、抵抗はなく、やがて静かに瞼を閉じた。時間にして三秒の、しかし気の遠くなる時間だった。
――「じゃあね」
坂道を駆け上がる彼女を目で追いながら、自分の胸の鼓動の大きさに戸惑っていた。ファーストキスなら高校の時に経験していたが、背伸びしたかっただけの不器用なキスとは何もかもが違った。
それから間もなくバイトはやめたが、彼女とは当然のことながら親密さを増していった。女子高、女子大と進んできた彼女にとっては一生に一度の記念すべきファーストキスだったろうし、それを無下にすることは出来なかった。僕は今までにない真っ直ぐな姿勢で彼女と向かい合った。意固地さと背中合わせの真っ直ぐさだった。