第九十八話 二つの論戦
「食べないのかね? 余の自慢のシェフの意欲作であるぞ――味は保証するが」
静謐な大部屋。皇帝がナイフとフォークを使って料理を一口大に切る小さな音がそこにある長いテーブルの片方から聞こえる一方で、もう片方からは何も聞こえなかった。
「食べられるわけないでしょ――僕からすれば何が入っているかも分からないんです」
しばらくの静寂の後に、無音の側からようやく絞り出された音は、言葉であり、そのように聞き取れたはずだ。
当然のことながら、その言葉に皇帝は満足な顔をしなかった。
「レイイチ少年、君はどうしてそのように言うのか? 余はただ君に食事を楽しんでほしいだけだ。毒など入れるはずがなかろう」
そう言って皇帝はまるで疑われるところは何もないかのようにまた食事を一口食べた。
しかし、それは寧ろ逆効果でしかない。礼一少年は席から思わず立ち上がりながら皇帝に向かって言った。
「じゃあ、言葉だけで信用できると思いますか? 僕は人殺しなんか何とも思ってない。貴方の国の兵士を二人も殺したんですよ、僕からすれば、そこのハートマンとかいう人のやることの方が僕は信頼できる」
今しがた、言った、と完了形で表現したが、実際には彼はこの台詞を全うできなかった。
何故なら、礼一少年は、ハートマンの名前を出したときに彼を指差したと同時に、その腕を掴まれると同時に極められ、未だ手付かずの料理に顔を押し付けられたからだった。
「ウワっ……」
ハートマンは勝利を収めるや否や礼一少年のその小さな悲鳴も怒鳴り声でかき消してしまった。
それが何と言っているのか礼一少年には分からなかった。それどころか、同じ言語ではないとすら思っていた。
「――ハートマン!」
しかし、その勝ち鬨とも恫喝とも取れぬ何かしらの言語も、長続きはしなかった。まさしく鶴の一声、皇帝が名前を呼ばれれば、臣下である彼は止まらざるを得なかった。
「余は、貴公にも貴公なりの理屈というものがあることを理解しているつもりだ。確かに、レイイチ少年は少々礼を欠いたことを言った、何しろ死んだのは貴公の部下なのだからな――余が貴公でも憤らずにいることは難しかろう。
しかし、だとして彼に分かる言語で言わないことは卑怯ではなかろうか? 無論、余の前でそれ以上を言うことは許さぬがな」
苦渋の決断、という言葉があるが、それはまさしく今ハートマンがした行動を表すのだろう。彼は礼一少年の腕から手を離すと、先ほどまでいた位置へと戻った。
「失礼致しました、陛下。どうかお許しを」
「何、分かってくれればよい。下がりたまえ」
「はっ」
礼一少年は自分の腕の具合を気にかけていたから、音でしか判断できなかったが、命令の解釈を変えることはあっても破ることはないハートマンは敬礼をしてからドアから出たらしかった。
「すまなかったな、怪我はないかね?」
「知りませんよ」
「食事は下げさせよう。お互い、そういう気分でないようだし――余としても、積もる話もある」
「僕にはありませんよ――ヨハナさんに会いたい」
とりつく島もないような対応の最後の方は、絞り出すような声であった。
礼一少年は、行儀が悪いことを承知で椅子の上に足を載せ、それを膝から抱えるようにして、そこに顔を埋めることで涙を隠していた。
その言葉は礼一少年の本心だった。歪んでいると言われようが何と言われようが、彼が抱いていたのは愛なのだったし、こうして彼の想像力の範疇を超えたことが何度も起きれば、全てを投げ捨てて誰かに寄っかかりたくもなるものだろう。
何より、彼女が無事なのか気になっていたというのもある。彼女が喀血したという事実はそう簡単に頭から消し去れるものではない。
すると、その礼一少年の吐露を聞き逃さず、皇帝は残酷なセリフを浴びせた。
「そのヨハナ嬢の話なのだよ」
「……は?」
そう言われては礼一少年は、顔を上げざるを得なかった。ある種、挑発に乗ってしまった形である。
ならば当然、挑発した側はそれに乗じる。戦いの常道である――そして、これは一つの論「戦」であった。
あるいは、言い争い。
「今更明かすのもおかしな話かもしれないが――君は、不思議に思わなかったかね? 一介の市民に過ぎない君とヨハナ嬢が、何故我が国の軍隊に、しかもその精鋭に拉致されることとなったのか……」
皇帝は、ナイフとフォークを皿の右端に揃えて置くと、まるで悩んでいるふりをするように顎に手を置いた。
「実のところ、非常に入り組んだ話でな、故にどこから話すべきかという問題は常に付きまとう。
だが、余としては、これから君と付き合っていく上で、このことだけは絶対明かさなければならないと――けじめとしても、また論理としても――思っている。
包み隠さず悪い言い方をすれば、この事実を以て君からの信用を買おうというわけだ」
「これから付き合う?」
礼一少年の反復に、皇帝は頷く。
「そう――結論から言えば、余は君とヨハナ嬢を私の後継者にするために、ここに拉致したのだ」
「閣下――ウデット中将閣下ッ!」
参謀本部の一室のドアを開けて中に飛び込むや否や、ガランドルはそう叫んだ。
「ふむ? ガランドル、貴様、帰ってきていたのか――大儀であった」
そのとき丁度、窓の外を眺めていたその部屋の主――ウデット――は自らの飛び出た腹を振るうような緩慢さで振り向きながらそう言って、言葉と共に殺気すら放っているガランドルの勢いをいなそうと試みた。
そうして、ある程度場を整えてから、彼は持ち前のゆったりとした、しかしよく整備された要塞のような堅実さのある喋りを以てガランドルに応じた。
「それで、貴様どうしてここにいる? 昨日の今日で用事ができたわけでもあるまい――ついに実戦部隊ではなく、参謀本部付きになったのか?」
「そのようなことがあるはずがないでしょう。閣下、私はあなたに聞くべきことがあって参ったのです――閣下とて、察しているでしょう」
ガランドルはこの肥満体の男と全く面識がないわけではなかった。
しかし、このようにどこか人を馬鹿にしたような態度というか、わざととぼけた態度はどうしたって好きになれそうもなかったし、今このときの彼の神経にはただ悪影響を及ぼすばかりだった。
「やれやれ……貴様はいつも元気そうだが、一週間だけだったとはいえ、それこそ貴様のおかげでようやく『終戦』なのだぞ? もう少し落ち着いてもバチは当たらんと思うがね」
ウデットはそう言いながら軍帽を脱ぐと、机の上に置き、余裕綽々を装って、自分はその席に座った。
「閣下、恐れながら訂正申し上げますと、『終戦』ではありません。あくまでも『停戦』であります。それに――」
「同じようなものだろう。ルメンシス教国が如何なる大国だったとて、あれだけ大敗すればもう地方の統制が取れまいし、兵站も厳しいだろう。だとすれば終戦も致し方あるまい。」
「しかし、だとしても、一週間でというのは奇妙でありましょう。仮に地方の反乱を警戒していたとしても見切りが良すぎる。それこそ、事実上の敗北による不満で寧ろ反乱を招きかねない、違いますか」
そう詰め寄られたウデットは困っているかのような仕草を大袈裟にやった。
「……貴様な、それを私に聞いたところでどうするのだ。私は閣下は閣下でも宰相閣下ではない。兵站に携わっている一介の将軍に過ぎん」
「だからこそであります。前線で指揮を執る将軍とは違う。閣下はより宮廷に近かったはずであります。それだけではない、『イグルンランド』との折衝役も務めておられた。なれば、閣下であれば何かご存知であると、私は愚考いたしました」
イグルンランド――その、隣国の島国の名前が出て来た瞬間に、ウデットの表情は固まった。それから、精強な部隊を率いている自分よりも若い敵将を見るときのような目をして、ガランドルを見た。
「ふん……貴様は、勘がいい。やはり侮りがたい……」
「閣下?」
ウデットは今から自分がすることに、そして、言う内容そのものに恐怖しながら、その勢いに任せた。
「いいかガランドル。休戦を申し込んだのはルメンシスではない――我々、神聖帝国からである」




