第九十三話 脱獄
しかし、時を少し差し戻す。
「出せーッ! このーッ!」
礼一少年は自らを閉じこめているドアを乱暴に叩きながらそのようなことを叫んでいた。
部屋は簡素な割に、それは頑丈だったので当然破れるはずもなく、ただ彼の手が傷んでいくだけであった。
当然といえば、彼が焦るのもそうであった。というのも、先ほどから発砲音が聞こえている上、揺れが激しくなってきたのだ。
すると、彼の戦士としての勘は、何としてもここからの脱出を遂行しなければならない、と結論していた。それらの異常を戦闘によるものと断定したのである。
……というか、まあ、その、このような閉塞的環境の中に長時間閉じ込められた上で外が騒がしいとなれば、たとえ彼でなくても我慢できないだろう。
しかし、彼の拳が、いい加減振り上げることすら厳しくなるほどジンジン痛み出しても、扉の外にいるはずの男は何も答えなかった。以前のように厳しい視線を返すことも煩わしいかのように、スリットは固く閉じられたままであった。
すると、礼一少年はその無駄な試みを繰り返す度に、フツフツと自分の胸の中で熱い血か何かが滾っていくことに気がついた。
叫ぶ彼と対照的に静かなそれは、扉を叩くことで焦燥感を消費している上半身から下半身に苛立ちを伝え、彼をいても立ってもいられないよう更に煽り立てた。
「――ッ!」
更に五度ほど叩いてもなお反応がなしのつぶてだったとき、よくあるレトリックのようなプツンという音は聞こえなかった。
だから現象としては、不意に、処理しきれなくなった感情が彼を部屋の端まで弾くと、すぐに元の位置へと引き戻そうとしたのである。
それに従って、足に積もり積もったエネルギーは貧乏揺すりのような微振動を経てから、彼をその衝動に委ねさせた。
だが、それは完遂されなかった。
「――うわッ!?」
それのみならず、彼は自分自身のその声を聞くことすらできなかった。
何か鈍い音が聞こえたと気づいたときには、彼は倒れ込んでいた――正確には、それを認識した。
彼の視界を先程まで埋めていたものがドアだとすれば、今は天井であった。約九十度の姿勢転換である。
強襲してきた辻褄の合わなさから徐々に体の支配を奪還していくと、酷い耳鳴りと全身の痛みが殿軍として彼の前に立ちふさがった。
暫時、何が起こったのかは分からなかったが、どうにも体が部屋の端から端へ――つまるところ、ドアとは反対側までテレポーテーションでもしたかのように体が飛ばされていたことは、彼の倒れた視界からでも察することができた。
すると、彼はすぐに立ち上がろうとした。本能がそうさせた。床が激しく揺れ、それで倒れたのだという真実を彼は理解していたのだ。
とするならば、そうなるほどの戦況の変化が何かしらあったに違いない――というところまで、だ。
しかし、そうして彼は立ち上がろうとして、失敗し、床にもう一度顔を付けることとなった。
すると彼はすぐに、自分の三半規管に何かトラブルがあったのかと危惧した。
耳鳴りは、時折そういう病魔の尖兵であることもあり、ならば怪我の場合にもそれはあり得るかもしれないという考えであった。
答えは、すぐに明らかとなる。彼は自分の頬が濡れていることに気がついた。無論、涙ではない。
先程まで何もなかったはずの床が、濡れている。
そして、その水が、段々と部屋の一角へ溜まっていく――浸水!
彼が転んだのは、艦が傾斜したからであった!
「――! 浸水だ! 水が染みてきている! 誰か!」
その四文字を聞けば、船に乗っている誰でも反応せざるを得ないだろう。それを言ったのがわざわざ誘拐してきたほどの重要人物であるのならば、尚更だ。
だから、礼一少年の叫びに応えるように無情だったスリットは一瞬反応を見せたかと思うと、その向こうの視線はすぐにスリットの大元であるドアを開いた。
そして、殴られた。投げられた。
身の丈一メートル九十センチもあろうかという黒服の兵士は、礼一少年に呼ばれ部屋に入った途端、自らの頭部に何か白い色をした重いものが当たったと感じると同時に、すぐさま意識を失って、部屋の外へ戻っていった。
それから一瞬間があって、その白いものは音を立てて床に落ちて、ガラガラと艦の片一方へと流れていき、彼の視界から消える。
その特徴的な形を誰かが見たのなら――きっと、それは、「陶器製の便器」の欠片に見えたことだろう。
部屋に「最初から」備え付けてあったそれが、礼一少年の後頭部がぶつかることで叩き割られ、更に、便器に通っていた下水が艦の損傷により逆流し、浸水の如き様相を生み出したのだ。
すると、彼はこれを脱出の方便と方策として採用することを咄嗟に思いつき、実行したのである。
だから、狭い部屋に充満していた変な臭いというのは、実は「アンモニア臭」のことであった。
いかなる場においても清潔を是とする現代ではなかなか嗅ぐことのないものであったから、しかも彼はその傾向の強い都会に暮らしていたから、最初は気づかなかったのだ。
――これが、礼一少年の「脱獄」の真相である。だが、ガランドルと彼の兵士たちがそれを敵に因るもの間違えたのも無理はない。彼らは現実主義者であるから、このようなミラクルCはまず前提から排除するのだ。
しかも、実際には、礼一少年が今ここでしたことではないことまで彼らは知っていたのだから。
「まさに、『糞食らえ』……ってところだな」
……もちろん、下水を一番被ったのは他ならぬ礼一少年であり、便器そのものは未使用だったことを考えると、「食った」のは彼自身なのだが、それはあえて明記するほどの事実でもあるまい。
しかし礼一少年は、実際にはこの文章ほどの無駄をも作っていない。ヨハナの救出に行くのに最早一刻の猶予もないことは彼にも分かっていたからだ。
彼はその兵士が気絶しているかどうかの確認をするよりも早く動き、兵士のベルトを失敬すると、それで兵士の手足を縛り上げてしまった。
すると、次に彼は兵士が武装していたことに気がついた。兵士は魔導小銃を肩にスリングでかけていて、その腰には魔導拳銃もある。
彼にすら警備がついていたのだから、ヨハナについては言うまでもなかろう。ならば、少なくとも丸腰で行くことはあまりに無謀だと彼には思えた。
(…………これは、使わない)
しかし、逡巡した末、彼は結局それらを手に取りはしなかった。その頭の中には、孤児院でのヨハナの顔が浮かんでいた。その声と、姿もだ。
もう、あのようなことは、繰り返してはならない。
その思いで彼の心は満たされていた。
だから彼はその代わりに、小銃の先につけられていた銃剣をくすねた。彼の部屋の鍵とヨハナの部屋の鍵が同じものである保証はない以上は、違った場合にそれをこじ開けるのに必要だと思ったからだ。
そして、彼は走り出す。ただがむしゃらに、目的地も知らずに。
トレンチガンの叫び声。それは拘束されていた兵士が殺害されたことを示していた。
黒服ではなく、カーキ色の軍服を着た兵士の集団の先頭が、一分の隙も見せずに、それをやったのだ。だから、未だ気絶していた黒服の兵士は、目を覚ますことなく首から上を喪失して、死んだ。
それを見届けた後続の兵士は、その亡骸の近くにあった開け放たれたドアの中に入るや否や、先頭の兵士にただ首を横に振って見せた。それは、彼らが更に敵陣深くまで進まねばならないということを意味していた。
(自力で脱出した? 『あの男』に狂犬と言わしめるだけのことはあるか……)
トレンチガンを持った兵士はそう心の中で言った。しかし、彼はそれ以上の思考を断ち切らなければならなかった。
そのとき訪れた後ろからの発砲音は、要するに敵兵の襲来を意味していたからだ。
応戦数射。首尾よく背後を押さえた敵兵は、瞬く間にカーキ色の兵士たちを退却に追い込んだ。しかし、勝者たる彼らは、彼らが受けた損害により、残念ながら追撃態勢に移ることはできなかった。
それは、一つは戦術的な損害であり、一つは戦略的な損害である。
つまり、前者は負傷兵とその場にいた戦死者であり――後者は、ナカジマ・レイイチの消失、である。




