第八十八話 霧雨の中で
数時間後。
日は、もう遥か遠くになったルメンシス半島方面に沈み、艦橋では僅かな魔導ランプの灯りが最小限付けられているだけだった。海図を確認するためや最低限手元を照らすためのものである。
しかし――今、「艦橋」と記したが、この船は、実際には、神聖帝国海軍においては軍艦と分類されていないので、これはあくまで便宜上の表記である。
というのも、この船は、軍事作戦に使用されることを想定して設計されたものではないのだ。元々は神聖帝国国籍の民間船である。
それを、外見が民間船ならば、潜伏中怪しまれずに、作戦当日の港にいることができるだろうという見通しで軍が接収したのである。
もちろん、ただずっと港に停泊していては不自然だろうが、それに関しては何も問題はなかった。
彼らには、貿易品に見せかけて、作戦に必要な武器弾薬や機装巨人をルメンシスにいる実戦部隊へ送るという重要な役目があった。そのため、度々出航して、本国からの補給艦(こちらも民間船改造)と落ち合う必要があったのだ。
その他、乗員の涙ぐましい努力などもあったからか――あるいは、ルメンシス教国の持病である役人の腐敗のためか――出航するその瞬間まで、この船は怪しまれてはいなかった。
しかし、出自がどうあれ、こうして作戦を終え、その騒動の首班たちを乗せて出航してしまえば、結局は攻撃対象となる。どこの国の海軍だって、この状況ならば血眼になって探すはずだ。
だからこそ、海戦の勝利により制海権が確保されている、ということは、今彼らを包んでいる霧雨のような役割を果たすはずだった。
闇の中で薄明るいというよりは、闇の中ですら薄暗いと思えるブリッジにガランドルは上がると、自分を呼び出した艦長に向かって敬礼した。彼は中佐である。所属する軍が違うとはいえ、階級は階級であった。
「お呼びでしょうか、中佐殿」
艦長は、そのでっぷりとした腹をぶるんと揺するようにガランドルへ向くと、ゆったりと揺れるような声で答えた。
「少佐。いいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたいかね?」
「その訊き方は、大抵いいニュースとやらが悪いニュースに転じた場合に使われるものでしょう」
「で、あるな」
ふう、と言いながら、彼は如何にも重そうに体を引きずると、艦長席へ座った。
「では、まずはいいニュースからだ――ルメンシス内海方面艦隊から、予定通り、駆逐艦を主軸とした護衛艦隊が出動した」
「ほう、護衛が見えないところを見ると、我々は見捨てられたのかと思っていましたが――それで、いつ頃合流する予定なのです?」
そのガランドルの言葉に中佐は露骨に顔をしかめた。それを見てガランドルは、自分の言った冗談が地雷を踏み抜いたことを理解した。
「……それが悪いニュースだ。その護衛艦隊だがな、小規模の敵駆逐艦部隊に足止めを食らったという連絡があった。合流は少なくとも明朝以降だ――最悪、昼までは孤立無援のままかもしれん」
「『敵駆逐艦部隊』? 取り逃がしがあったということですか?」
「そう苛めてくれるな。足の速い駆逐艦は当然逃げ足も速い。その上、追撃するにも数に余裕がなかった」
ガランドルは中佐に分からないように歯噛みした。神聖帝国の限界を思い知らされたような気になったからだ。
――やはり、かの国は強すぎる。ただの新興国家では勝ち目がないのだ。
少なくとも、ただ一国では。
「……何にせよ、この霧雨が我々を隠してくれることを願うしかありませんな」
ガランドルはその内に秘めた心理を隠すようにそう言った。しかし、中佐はそれに返事をすることができなかった。伝声管の一つが呼び出し音を立てたのだ。
それが、艦橋よりも高い位置にある急造の見張り台からのものであることを、彼は知っていた――そして、そこからのコールが何を意味するかを。
「敵襲のようだな――総員戦闘配置!」




