第七十三話 開戦前夜
もう朝はひどく冷え込む時期なのだと起きた瞬間礼一少年は思った。
布団を剥いだときに吹き込む空気は非常に、あるいは非情に冷たかった。
しかし雪は降らぬらしい。まだ日も出切ってはおらず、まるで寝起きの意識のように薄ぼんやりとした紫色と朱色の中間が世界を染める唯一の絵の具であった。
彼は空とお揃いの寝ぼけ眼を擦って、欠伸を一つした。
日本にいたときでもそうだったが、この時期は布団がとても恋しい。
「起きます……」
誰に言うわけでもなく、ただ独りでにそう宣言すると、彼は朝靄の名残のような冷気に下半身もつけた。
毎日この時間に起きることはたとえ季節が巡ったとしても体が覚えているので抜けない習慣になっているらしい。
だから、彼は毎日マーブル模様の具合を変える空を眺めてから目覚めるのだった――というと詩的だが、実際には大して見てなどいない。
その変化に気がついた初めの頃こそ涙を流さんばかりに感動したものだが、今となっては世の中に数多と存在するそうあるはずのものの一つでしかなかった。
言い方は悪いが、美人は三日で飽きるが、というやつだ。
丁度そのとき、ドアがノックされた。その音によって礼一少年はまだハッキリとしない目と意識が否が応でも瞬時に研ぎ澄まされる。
空模様と同様、こちらも毎日のことであり、しかも美人であった。
ただし、飽きない方の。
「レイイチさん……起きてますか? おはようございます」
こちらを伺うようにドアをゆっくりと開けた彼女は、礼一少年の予想通りヨハナ・フェーゲラインであった。
豊満な身体のラインを隠すという点で大いに失敗している寝間着姿で、麗しく腰まである長い金髪を揺らしながら、雲一つない青空のような瞳で彼女は彼を見つめた。
朝だというのに眠りから覚めた直後特有の嫌気めいたもののない、まるで太陽のような笑みもそこにはある。
「おはよう……ございます」
しかし、礼一少年はどうしてもその顔を直視することができなかった。そうする度、自分の心の中に、ある種の後ろめたさが生じることに気がついたからだ。
いや、そもそもこれに後ろめたさなどという表現が、果たしてそぐうだろうかという問題は注記しておく必要があるだろう。
後ろめたさ――「後ろ」という点。
「back」。
背中――という意味もある英単語である。英単語など、文字体系そのものが違うこの異世界においては最早何の意味も為さないが、礼一少年とヨハナの間にとって「背中」は特別な意味を持つ。
ヨハナの背中にある翼。
彼女の目には見えない、醜く焼けただれた翼。
その光景は、毎日移り変わり美しくあり続ける朝焼けよりも強烈に焼き付いてしまい、礼一少年にとってはヨハナとイコールで結びつけられてしまったのだった。
だから、彼女のどのような笑顔を見ても、彼にとってそれはあの翼に、文字通り背を向けた上での行動としてしか受け取ることができなかった。
そこにあるのは虚無。
あるいは静かなる狂気。
もしくは、その両方を課せられている――背負わされているのだ、彼女は。
それが、どうしようもなく、礼一少年を曇らせる。
「どうしたんですか、レイイチさん。どこか痛いんですか? それとも、寒くなってきたから、体調を崩された……?」
もちろん、そんな葛藤などを、彼女自身の翼のことを認識できないように、ヨハナが知るはずもない。礼一少年のどこか余所余所しい態度は、彼女の目にはただの不自然としてしか映らない。
だから、彼が彼女から離れようとすればするほど、彼女はむしろその距離を詰めてくる。今、彼女が彼へ顔(正確には額)を近づけて、熱を計ろうとしているように。
「――別に、何でもないですよ」
そう言って、礼一少年は彼女から逃れるように立ち上がる。言い方がややぶっきらぼうになってしまったのは、朝の不機嫌故か、それとも彼女への恐怖感故か――その答えは、分かりそうもなかった。
ただ、そう扱われてヨハナが少し寂しげな、感情をこらえた表情をしたことは、彼自身の心に深く罪悪感を刻みつけた。するとそこに次いでわき上がるのは自責の念だ。
その一念は、彼女の心がそうしたように彼の表情を少なからず歪める。彼が朝の廊下を彼女に先んじる形で歩いていくのは、それを隠す意味合いもあったに違いない。
(全く、僕は何をやっているんだ?)
自分は、彼女を愛しているはずだ。
愛などという言葉がもしも大袈裟ならば、恋しているでもいい。
これを表すのに最も便利なのは――恋愛している、という表現だろうか。
何にせよ――この感情は幸せのそれであるべきはずだ。
だが、今はどうだ?
今持っている、胸の中を渦巻くそれは、快いものだろうか?
彼女の顔を見て、目と目を合わせたときに起こる、あの感情を、自分は味わっただろうか?
残念なことに、答えはノーであった。
彼女は何も変わっていないのに、だ。
いや、むしろ、変わっていないからだ。
変わっていない、あの聖女の微笑みも、蠱惑の瞳も、魔性の肢体も――だから。
だから何だというのか。
その結論が浮かび上がったとき、彼は身震いさえした。それを見たヨハナが手をさしのべたのは言うまでもない。
が、それさえも、ただ、「気味が悪かった」。
そう、あのヨハナを、気味悪く感じているのだ――それが怖くて、礼一少年は震えたのだ。
彼は頭を振るう。そうして、そんな考えを振り落とす。それから、心配そうに両の瞳でこちらを見つめるヨハナを見つめ返す。
「……? どうしたんですか」
ヨハナが、そう、不思議そうな顔をして言った。何の変哲もない顔だ。強いて言うならば病み上がりなので、以前に比べて見れば少しはやつれているが――それは、もう、いつものことだ。
「何でもありません――何も変わらないな、と思っただけです」
そうだ、彼女は何も変わっていないのだ――変わっていない。
落ち着け。
それなのに、自分が勝手に怖がるなんて、文字通り自分勝手というものだ。
僕は彼女を愛している。
僕は彼女に恋している。
僕は彼女と恋愛している。
そうなのだ。そうだっただろう。そうである。
なら、彼女の背中だけでなく、背中からも守ってやらなくてはならない。
その義務が、自分にはある。
礼一少年は半ば無理矢理に顔を上げた。廊下にはまだ先がある。だから、彼は進む。それだけのことだった。
――守らなくちゃ、いけないんだ。
でも、できるのか?




