第六十一話 精神の螺旋
ヨハナ・フェーゲラインが倒れたのはレイイチとニッキー・リッヂウェルとの戦いの数日後のことであった。
前兆自体はその前からあった――ニッキーに礼一少年が敗北した草原の戦いの夜のことである。
ただそのときは、少し咳が出ているだけだと本人も思っていたし、礼一少年もそう考えていて、普通の生活をさせていた。
というより、止めたところで彼女は勝手に起き上がってやろうとしてしまうだろうと礼一少年は考えたのだが。
だが、それが裏目に出たようで、ある日の朝、礼一少年は目覚めると、ヨハナが廊下で倒れているのを発見した。
当然孤児院にキチンとした体温計はなかったが、高めの熱が出ているというのはすぐに分かった。
それ以来、ヨハナは寝込み、当然彼女の仕事も礼一少年はやらねばならず、それでミヤシタ商会には行っていられなかったのだ。
しかし、礼一少年は少しばかりそのときのミヤシタの対応を不思議に思わなくもなかったのだ。
不思議というか、不自然というか。
当然休みを取るからには、あの傍若無人を代名詞とするミヤシタ・サンキへ礼一少年は連絡を取ることになるわけだが、それが、案外にすんなりと話が通ってしまったのだ。
「ほーん、大変だなぁ。まあ今まで働かせすぎてたような気もするし、別に用があるわけでもない。休んでくれていいぞ。何なら東方の、咳によく効く薬も贈ってやろうか?」
……何というか、分かるだろうか、この違和感。
言うなれば、口喧しかった母親が自分の部屋の掃除をした途端によそよそしくなったながらもどこか優しくなったような感覚。
言うなれば、ずっと仲よく過ごしていたはずの明るい感じの女子が、週が明けたら急にどこか疎遠な感じに振る舞いだしたときのような感覚。
自分の預かり知らぬところで何かが起きているのかもしれない――と礼一少年が思うのもそう不思議なことではあるまい。
だが、その真実を礼一少年が知るのはこのときではなかった。
どうせあの様な手合いがいかなることを考えていようと、行動に移したときにしか自分にはどうしようもないことだ、と彼が考えたためだ。
それよりはもっと卑近なこと――例えばヨハナの病状について考えることにしたのだ。
咳、と一口に言うが、こう何日も何日も続いているとなると、流石にただの風邪ではなかろう。
そもそも礼一少年は、彼女が熱で倒れた辺りでもっと他の病気だろうと考えてはいた。
だが、実のところ、彼の思考はその先には一歩として進んでいない。
否、進みようがなかった。医者でない以上、彼の知識でできる判断はせいぜい異常か正常か程度のものである。そしてその判断の時期はもう済んだ。
礼一少年はその事実が目の前に現れる度、朝でも昼でも、当然夜でも、何も見えぬ闇の中に立たされたような気分になるのだった。
礼一少年はその暗澹たる気分のまま孤児院の子供たちに食事を与え終わると、食器を片付けて、一人余った分をお盆に乗せてヨハナの部屋へ向かった。
ドアをノックすると、体に堪えるのかやや小さな声で、どうぞ、との返答があった。いつもも鈴の音のように小さな声だが、寝込んでからはそれが顕著であった。
「食べれそうですか」
ヨハナは礼一少年が持つお盆を一瞥してから、何とか、と鈴の音で答えた。
「すみません、レイイチさんに全てお任せしてしまって……」
「いえ、今までこれをさせていたのは僕ですから。それよりも、今は休んでいてください。休まないと治るものも治りませんから……ね」
と、礼一少年は、今ヨハナが食事に使っているベッドの上の小さな机から、奥の方にある机の方へ目を移す。そこにはいくつかの書物が力尽きたように開いたままおかれていた。
あ、とヨハナはばつの悪そうな声を挙げて、バレましたか、と言った。
「どうしても気になった一節があって……寝なければいけないのは分かっているんですけど……」
礼一少年はため息をついた。彼女は『聖典』――『元の世界』のキリスト教でいうところの聖書に当たるらしい書物を隙あらば読もうとするのだ。信心深さの現れなのだろう。
そういえば、確か『元の世界』のヨーロッパにおいては、聖書はラテン語で書かれていて、後の世になるにつれて口語と違っていったために限られた人しか読むことができなかったらしい。
だが、『こちらの世界』ではまだその誕生からそれほど時間が経っていないのか、でなければ早い時期で口語訳されたようで、礼一少年も何回かチラチラ読んだことがあった。
「気になった、と言いますけど、でも何度も読んでいるんじゃないんですか? それこそもう覚えてしまうぐらいに」
ヨハナはそれにやや食い気味に反論した。彼女にしては珍しい反応だったが、それは聖典に関しての話だったからかもしれない。
「だからこそです。『覚えて』いるのか、それとも『朧気』なのかって、口で言う分には案外響きが似ていますけど、全然意味が違うでしょう? これほどじゃなくても、違う意味なのに似ている単語ってどうしてもありますし、ほら、言葉って響きで覚えるものですから」
「それは分かりますけど……それでも時期ってものがあるでしょう。お願いですから……」
話が堂々巡りになる気配を感じ取ったのか、ヨハナは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「レイイチさんの意地悪」
「………………。」
……彼女の可愛らしさすらある理不尽に対する怒りと、女神めいた美しさの彼女が少女みたいに頬を膨らませるというギャップとの相殺・相乗効果で起きる無限大の精神エネルギーの螺旋により礼一少年は思わずうなり声を挙げそうになった。
「れ、レイイチさん!? どうしたんですか急に顔を抑えてうずくまって!」
「いえ……何でもありません、何でもありませんから……」
それでも不意打ちを食らった礼一少年は赤くなった顔を抑える羽目になったのだが。
「えっと、本当に大丈夫で……?」
「はい、大丈夫ですよ、『先生』」
「全然大丈夫そうじゃないんですけど!?」
呼び名が例の事件以前に戻っている!
「――大したことじゃないんです。何もないんです。すぐに治ります。すぐによくなります。僕が何とかします。だから何もしないでください。放っておいてください。お願いします、お願いします……」
「これが放っておけますか! 明らかに記憶が混濁しているでしょう!」
呼び名はともかく、今度は例の事件真っ盛りのセリフだ!
「いえ混濁してはいません。僕は正気です。これはオマージュという表現技法です。まァさかヨハナさんともあろうお方が、よォもや知らないなんてことはないですよねェ?」
「オマージュというより、セリフに対しては『お前、呪殺してやる!』って感じですけど!?」
…………。
いや?
流石にそれはそれほど返しとして上手くないのでは?
さっきのヨハナさんの話でいうところの、似ている響きの言葉というにはちょっと遠すぎる気がする。
それに、『呪殺』なんて物騒な言葉を使っている時点で彼女も彼女で相当様子がおかしい。
と、思えるほどには礼一少年は正気を取り戻した。
それから五分後。
「……あの、えっと、落ち着きましたか……?」
と、ヨハナは恐る恐る聞いた。
「はい、大丈夫です」
と、礼一少年は淡々と答えた。
…………ただし恥ずかしいので目を合わさないようそらしながら。
………………。
というか、冷静に考えて、五分も沈黙して顔を押さえていたら何かしらの病気を疑ってもいい。
その上、目をそらしていたらなおのこと何かしら疑うべきだ。
だが、そのとき、礼一少年は目をそらしていたが故に、それに気がついた。




