第五十五話 ザ・フュー、ザ・プラウド
「そりゃおかしな話じゃないか」
ミヤシタは口を挟んだ。
「そうか? オッデン王ならありそうなことであるが」
「いや、だってよ、お前の口振りによれば、確かにオッデン王は相当な冷血漢だろうぜ? それは分かる。王が何があったのか理解してなかったってのはこっちとしても理解可能だ。だが、だとするならば『怒った』ってのはおかしいだろ。打ち首にするにしたっておかしい――そんなの、まるで」
まるで、怒りを持つ「普通の」人間のようじゃないか。
まるで、ムニジョウの母の復讐が成功したようじゃないか。
しかし、ムニジョウ本人はそれに対して首を横に振った。
「いや、そうではない――何もおかしい点はない。そなたらしくもない、こんなことも分からないのであるか?」
「分からないから分からないと言ってるんだ、お前はそんなことも分からないのかよ」
「我輩は、それを分かった上で、分からないというのが不自然だから分からないと言ったのであるが……つまり、やはりこれはどちらかといえばそなたの領分の話であろう、ということである」
「俺の領分?」
「政治劇――」
そこまで言って、ミヤシタは、あ、と声を出した。
そう、そもそも、オッデン王と正妻との結婚は、政略結婚である。
政略結婚――つまり、直接やり合うには危険な相手、あるいは勝っても負けても確実に深手を負うことになる近隣国と折り合いをつけるための一手段ということ。
事実、正妻の出身国は、オッデン領の背後に位置していて、国力も同等であった。
お互い、別方向へ領地を増やす腹積もりであったから、政略結婚で手を打ったのである。
そして、その相手国の代表ともいえる人物の不義――そしてその原因がオッデン王の扱いにあるとなれば、結果は一つ。
寡兵の国の戦争において、最も避けるべき状況。
戦闘においてなら、大軍といえども陥るべきではない状況。
戦争の天才らしからぬ失敗。
外交の奇才らしからぬ失策。
挟撃の危機、である。
オッデン王は理想家である――全国統一などという途方もないことをやろうと思う人間がそうでないはずがなかろう。
その理想家が、理想を阻まれたとしたら?
その理想を解さないものが足を引っ張りに来たとしたら?
その答えが、冷血漢らしからぬ激怒なのである。
「なるほどな、それならば納得もできる……が、そうなると余計に不思議だ、お前もそのとき殺されていないとおかしいのではないか?」
「それが我輩の名字と絡んでくるのである――ムニジョウの姓と」
ムニジョウ家。
何代も前からオッデン王家に仕える臣下であり、オッデン語表記では「二つの城は無し」という意味を持つ。
「二つの城は無し、ね……詩的表現というか、抽象的でよく分からんな」
そうミヤシタはボヤいた。
「意訳すれば……そうであるな、『二つの城は踏まない』という意味の方が近かろうと思う」
「踏まない? どういうことだ」
「決死の覚悟、不退転の決意――ということなのだろうよ」
二つの城は踏まない。
城に攻め込むからには必ずその城を落とし、元の城には帰らない――元の城を踏まない。
仮にその攻めた城を落とせぬのなら、文字通り死ぬまで戦い、生きては帰らない。
それは、つまりそういうことなのである。
その勇猛果敢のムニジョウ家は、事実、実績も上げていた。
オッデン王が戦略や戦術に長けているのは今まで記してきた通りだが、その作戦の最も要の部分を担っていたのが彼らムニジョウ家であった。
敵陣突破の先端、戦略的撤退の殿、敵を誘い出す囮……あらゆる危険任務を課されており、それを彼ら自身も誇りとしていた。
しかし、その輝かしい戦果がありながら、彼らは寡兵なオッデン王家の中にあっても輪をかけて寡兵であった。
寡兵――つまり、この場合は精鋭である。
「ということは、そのムニジョウ家の当主様がお前を救った……そういうことなんだろ?」
ムニジョウは頷いた。
まだ何も分からない年齢のムニジョウもまた、確かに殺される寸前にはあった。
不義の子という、両家共に引き取り手になりたがらない立ち位置から――相手方もそのはず、孫だとはいえ、娘の不道徳の象徴であり自らの躾の不手際の証拠であるのだ、外聞が悪すぎる――言うまでもなく養うわけにはいかなかった。
しかし、赤子を殺したとなれば、それはそれで世間体がよくない。
誰だって、赤子でも簡単に殺せるような男の支配下には入りたくなかろう。
主戦線の裏手の家との関係が急速に悪くなる中、一揆でも起こされたら収拾がつかない。
オッデン王は、自分に心がないながらも、政治的な目からそれを見抜いた。
元正妻の家と講和するとしたら、生かしておくわけにはいかない。
向こうの弱みの生き証人なのだ。同時に、こちらの不手際の生き証人でもある。外交上よくない。
かといって殺したら殺したでそれも外交上よくない――そんなダブルバインドは、オッデン王が戦闘で経験したあらゆる苦境よりも危険で悩ましいものだったとされる。
しかし、戦闘のそれと同様に、渡りに船、ムニジョウ家当主が引き取ると申し出たのだ。
その名は、ムニジョウ・アテゴロウ。
ムニジョウ家きっての戦士であり、政治家であり、野心家であった。
アテゴロウはオッデン王にこう言ったとされる。
『南蛮出身のものは体が大きくなりやすいと聞きます。我らムニジョウ家に任せていただければ、必ずや最強の兵士になりましょう』
対してオッデン王はこう切り返した。
『しかし、我らの弱みにして彼らの弱みである忌み子をこうして生かしておくことになるのだぞ、それはいずれ必ず災厄をもたらすに違いなかろうが、どうか』
アテゴロウはそれに対してこう返した。
『正にそのことでございます。そうは仰いますが、しかし王自ら、王家自ら手を下せば必ず対外的にも対内的にも批判が高まりましょう。それは王とて理解なされているはず。そこであえて生かし、戦の最前線に出すことで、討ち死にを誘い、名誉の死とする、というのが私めの提案にございます』
オッデン王は、なるほど、と、その献策を受け入れ、かくして、ムニジョウ・エイロクはようやくムニジョウ・エイロクとしての生を受け、姓を受けることとなった。
それと同時に、オッデン王は世継ぎ誕生の知らせは誤報であるとして、情報統制を敷き、お互い「事件」について明かしても不利なことしかない点を上手いこと利用して、元正妻家と「事件」についての情報統制と以前同様の領土不可侵を取り決めた。
これに関してはオッデン王が外交の天才であったからできたことである。
しかし、一見名案のように見えるアテゴロウのこの策だが、実のところ、大きな穴がある。
「我輩がこうして生きてしまっていること――それが、最大の穴であるよ」
言うまでもないことだが、戦場では多く人が死ぬ。
まだ魔導銃の普及率が低い中、多くの矢が飛び交い、刀が首を飛ばし、虎の子の機装巨人の魔砲で手足がバラバラになって宙を舞う。
が、その逆もまた然り――戦場では多く人が生き残る。
それが必ず生き残るわけではないにしろ、矢で敵を射止め、刀で胴をかっさばき、躍り出た機装巨人の応射が敵機の胴体を内側から分解する――その結果として助かる味方がいるのも確かだろう。
その上、最前線に長くいることの多いムニジョウ家の軍団は、それにもかかわらず生還率が高かった。
これは、各一個単位当たりの単純な戦闘力が高いが故というのもあるが、彼らはこの時代らしく討ち死にを誉とする一方で、それに対抗するように生きて帰ることをも誇りとして戦っていたからだ。
つまり、戦場に出す、という約束は、「密かにかつ公然と殺す」という複雑な意味を確実には持たない。
そして、最後まで持たなかったのである、とムニジョウは言う。生き残った彼は。
「だからこれは父上の――この場合は育ての、ということだが――その策略なのだよ」
ムニジョウ・アテゴロウは、その家柄が代々戦闘的で、つまり政治力に欠けていたのに対して、実務家であり野心家であった、というのは前述の通りである。
野心家。
つまり、何かしらの向上心を持ち、頂点に立とうとする男だということだ。
当時のオッデンにおいて、頂点というのはただ一つのことを意味する。
オッデン列島全土を占領し、統治し、世界に負けぬ大国にすること、そしてその国の王になることである。
これには二つの手がある。
一つは自らの足で野を駆け山を越え、自らの手で敵を打ち倒し斬り捨て、それらの領地を統一する方法。
オッデン王の手段はこちらだ。
もう一つは――頂点に迫らんとするその背中について回り、その直前で後ろから刺し殺し、成り変わる方法。
わざわざ二項対立で並列させてるのだから、最早言うまでもないことだろうが……アテゴロウの手段は、後者であった。
ただ、成り変わる、と一口に言ったが、言うまでもなく、実際には難しい。
歴史上――この場合は「礼一少年のいた世界」でも「こちらの世界」でもという意味だが――そういう簒奪するだとか、禅譲「させる」ようなやり方というのは中々成功しはしないし、したところで長続きした試しは、そう多くはない。
これは、「礼一少年のいた世界」の豊臣氏が、秀吉の亡き後徐々に衰えていったことを思えばよく分かることだ。
しかし、必ず成功しないというわけではない。必敗が運命づけられているわけではない。
条件がいくつかあるだけのことで、それを満たしさえすれば、不可能ではないのだ。
条件その一。
その実行者が王家の血筋のものであること。
これは、王の血統が断絶したときによく用いられる手段として親戚筋の家の当主が据えられることがあるが、それを別角度から見たものである。
条件そのニ。
その実行者を支持する多数の民衆がいること。
最悪、この支持者の条件に関しては、その位置を優秀な政治家にしてもよいのだが、それだけでは基盤が弱い。
政治において恐れるべきは、力さえあればいくらでも避けられていくらでも排除しうる外患ではなく、力があってもおいそれと攻撃することはできない内憂である。
民衆とは国の骨であり、血であり、肉である。
それを味方にするか敵とするかということだ。




