第五十一話 ヌーディー
「どうして、服を着ないんだ?」
チャアタイは、極々瞬間的に力が抜けた。視覚的には、ガクンとコケたのを想像してもらえれば幸いである。
それから、ハア、とため息をついて、呆れたような仕草を見せた。
全く、そんな分かり切ったことを今更言うのか? という態度である。
「そりゃあ、もちろん、民族的な風習だ。私はそういうのを大切にしているんだ――しかし、お前には言わなかったか? レイイチにも伝えたのだから、お前にもとっくの昔に伝えたことのように思うが――」
「嘘を言うな」
ミヤシタは途中で遮った。
その目は、敵意に満ちてすらいる。
声にもそれは満足すぎるほどに含まれており、誤魔化しは効かないぞ、という彼の意志の現れであった。
そして、チャアタイはそれを見た瞬間、突然、人間サイズの化け物と対峙させられたような気持ちがした。
目の前の彼があの夜のニッキーと同じように肥大化したように感じられたのだ。
その影はチャアタイの足元まで届き、くるぶしとそこから上を完全に固めてしまう。
「キッカケは、お前とあのクソッタレのレイイチとの、最初の訓練の様子を俺の兵隊から聞かされたときだ。
お前の、そのときの決まり手――何と呼ぶのかは忘れたが、アレはオッデン伝統の技だ。
おっと、傭兵時代に自然と身につけた、なんて言い訳はなしだぜ? あんな背中を見せるリスキーな技は、習わなきゃできない。
それで俺はな、お前が隠れてから改めて来歴を漁ってみてはっきりと気がついたんだよ。
東方の、例の係争地帯で生まれ、地方豪族に雇われて戦い方を覚え、成人してからはあらゆる戦地を転々として、数年前に現役を引退。そしてルメンシス教国に入って、今に至る。
なるほど確かに、一見する限り矛盾はそれほどないようだ。だがな、一つだけ大きな問題点がある――それは、係争地の辺りに、そんな風習はないってことなんだよ。
裸同然で過ごすなんてのはな。
何しろあそこは山奥だ。そんな格好してたら風邪引くぜ?
俺はそれをこの目で見てきた。
一時的にとはいえ東方にいたのだから、確実だ。
当然のことながら、お前は嘘をついている――この一点においても、表裏一体の関係であれば、確実ということになるな?
まァ、傭兵に偽名は珍しいことでもないし、偽装経歴も『つきもの』だ。だが――『つきもの』であるからと言って、それが不都合になっても黙っていられるほど、俺は甘かァないんだ」
ミヤシタは椅子から立ち上がると、それをひっつかみ、チャアタイに投げつけた。
チャアタイは突然のことで避けることもできず、それを腕で払って受けた。
すると、元々チャアタイはもちろんミヤシタの体重でも悲鳴を上げていた椅子は、跳ね返って一階の床にぶつかりボキボキと断末魔を挙げて、ただの一塊の木材になった。
その一瞬の隙をついて、ミヤシタは距離を詰め、上等な革靴の底でチャアタイの胸を蹴りつけた。
ヤクザキックである。
チャアタイの下半身はベッドに吸いつけられていたから、その運動エネルギーを後退してやり過ごすことはできず、上半身もそこに貼り付くような姿勢になってしまった。
「ぐっ……」
「安心しろ、だからといってお前をどうこうしようって訳じゃない。ただ返答にはこれからは気をつけてもらいたいというだけのことだ。
だが俺は見ての通り冷静ではない。
頭に血が上っている。
勘違いする余地もないがあえてハッキリと言うぜ、俺はお前にムカついている。
俺は商人だがある程度の拷問のやり方ぐらいは知っているし、外の奴を連れてきて命令してもいい。
もちろんこれは脅しだ。
今すぐしようとしていることを、そして今からしようということをお前に言ったわけではない。
だが、脅しだということをここで俺が言い、お前が理解してくれたのなら、どうしたらいいか分かってくれるよな?」
ミヤシタは蹴りの後から踏みつけた足をグリグリと動かした。
靴の裏に何かしらの細工がしてあるのか、切り裂かれるような痛みがチャアタイの胸に走った。
「どうだ、痛いか? この靴はな、底に刃がある珍しい品でな。今日はコイツの気分だから履いてきたが……こんな使い方があるとは『まるで知らなかったよ』。チャアタイ・サーマニ、お前が『ムニジョウ・エイロクについてそう言ったように』、だ」
「……皮肉を言うことが、今からしようということなのか? 随分と贅沢な、権利の使い方だな」
「――口を慎めよ、下種が」
ミヤシタとて、体重の軽い方ではない。
その重みが刃という道具を得て、それを使う靴底という場を手に入れることで、チャアタイの胸からは血がダラダラと流れていた。
それは肋の辺りを伝ってベッドを赤く染めていく。それをミヤシタはグリグリとねじり上げ、その鮮やかな華を広げた。
「商人が嫌うものは、まず第一に金を払わず盗みを働く奴だ。だが第二には嘘をつく奴だ。そしてお前は今、『その二つを満たしている』。この重大さが分かるか?」
「後者はともかく、前者は何のことだ? 私には心当たりがない」
ミヤシタはそこで顔を覆い、体を逸らして、深く深く、海より空より深くため息をついた。
そして、次の瞬間、その手を握って振り下ろし、チャアタイの顔面に叩きつける。
彼の鼻骨が想定外の力を受けて、ミシリと、踏まれた小枝のような音を立てた。続いて血の臭いがプン、と脳髄まで感覚として突き抜ける。
「俺は『トボけるな』と言ったんだッ、このクソ爺ッ! 何だって俺が同じことを二回も、二回もだぞッ! 二回も同じことを言わせやがってッ! 俺を何度失望させたら気が済むんだこのチンピラ崩れがッ!」
ミヤシタは、そこで感極まったのか、もう一撃加えんと再び振りかぶった。
しかしそれは失策である。
チャアタイ・サーマニという戦士の勘は、その鉄の香りによって瞬間的かつ一時的に覚醒していたのだ。
彼は重みのかかっている――つまり、重心をかけられているミヤシタの足を逆手に取り、自らの圧倒的なフィジカルで押し返した。
その胸に突き立った刃の壮烈な痛みは、まるで右半身全てを切り裂くようであったが、何、大したことではない。
「おっ、おッ、オォッ!?」
チャアタイは、慌てふためくミヤシタを追い立てるように前進。
対するミヤシタは、残った片足を何度も後ろにパンパンと踏み替えることで倒れないように抵抗する。
だが、本気でチャアタイが倒すつもりなら、最初から後ろの足を使って引き倒している!
ミヤシタは「それ」の一瞬前にそのことに気がついた。ハッとして後ろを振り返る。
そこには、吹き抜け――二階からあの白い彫像を見ることのできるそれが、ある。
つまり、落差が、ある!
「――おおおおおッ!」
「ガアッ」
チャアタイはこの瞬間にこそ相手の残りの足を払った。最後の支えをなくしたミヤシタは柵を乗り越え転げ落ち、一瞬にして見えなくなる。
息もつかせぬ応酬を潜り抜けたチャアタイは、柵から乗り出して戦果を確認しようとした。
いや、戦果を確認しようとしたのか?
彼はまたも動揺していた。しまった、とすら思っていた。胸の傷は痕になりそうなほどだったのに、そんなことはどうでもよかった。
ひょっとして自分は、今、ミヤシタ・サンキという男を、親しい友人を「殺してしまったのではないか」。
故に、きっと昔ならば、傭兵時代ならばそうはしなかったように、彼は恐れながら下を見る。
その瞬間に――「カチリ」。
その音は目の前から聞こえ、かつ命の危険に直結する音だった。
「――ヘッ、服っていうのは案外重要だよなぁ? 何しろ、こうやって武器を隠せる……!」
こちらに向けられた魔導拳銃。
こちらに向けるのはミヤシタ。
どちらから向けるかと言えば、あの「白い彫像の上から」であった。
二階から突き落とされた彼は、丁度、それの背がもつ突起の上に運良く落ちたのだ。
二階からそこまでは、精々、人の胴の長さ程しかない。
つまり、故に彼は、生きている!




