第四十九話 ザ・ネイキッド・マン
朝のルメンシス。
その市場はいつになく騒然としていた。
いつだってそこは悪く言えば煩くよく言えば賑やかな場所だが、今日はその毛並みが違った。
普段であれば、色男はそこを通る女を片端から口説こうとしてその大半にフられ、ある買い物客は値切ろうと交渉して本来の相場の半分で買い、それを売った商人は本来の相場の倍額以上のを騙して買わせてやったと影で笑うのだ。
しかし今日に限って言えば、その色男はそこを通る女に片端へ逃げろと叫びその大半は従って、買い物客は店主と相談して店の後ろへ隠れ、その商人は金なんてどうでもいいから誰かアレを何とかしてくれと影で震えるのだった。
アレ。
それは名状しがたい。
普段の生活であれば、まず目にはすまい。
少なくとも女性でそれを見慣れているとしたら、それは娼婦か売女というものだろう。
何故ならソレは「男の裸」だったからだ。
訂正。「裸の男」だからだ。
ただし、ただの裸ではない。
筋骨隆々。神話の英雄にも似た体格を誇り、それこそ神々のような髭を蓄え、一糸も纏わぬ――。
……訂正。そうは言っても下着は着ていた。
麗しき純白。
彼はそれしか着ないという強い意志をもってそうしていた。
が、その意識の高い露出狂が、何故この市場に?
それは実に簡単なことであった。
彼は『旧教典』――ルメンシス国教会の教典の内の一つ――に出てくる逸話のごとく人の海を掻き分け、一つの青果店の前で立ち止まった。
店主は恐れを隠しきれない表情で(そりゃそうだ、正気とはいえない姿で体格の良すぎる男が迫ってくるのだから)ゆっくりと表へ出てきた。
「あの……ウチは青果店でございますが……服屋ならそこの角で……」
「林檎」
男は端的に名詞だけを話した。
「は、はい?」
「この林檎はいくらだ」
なるほど、ぶっきらぼうで蛮族紛いの姿をしているが物を購入するという概念はあるらしい。ルメンシス語も相当上手い。
「は、はぁ、でも服を先にお求めになられた方がいいかと思いますが……」
「私は林檎を買うと言ったのだ」
「いえ、それはもちろんお渡しする次第ですが……しかしですね、物事には順序というものがありますもので……」
「いくらか、と聞いたのだが……面倒だな」
すると男はそのドデカい図体の後ろへ手をやると、一瞬しない内にそれを店主の前へやった。
「手を」
「……はい? ええ、どうぞ……?」
店主は片手を恐る恐るその下へ添えた。
まあ、お代だろう。
だが、またぞろちょろまかすためにこんなに鷹揚な仕草をしているに違いない。
支払われた金貨を数えている途中に時間を聞かれたことで騙された東方の商売人の話は海を越えたここでも有名だ。
要するにそれと似たようなことをしているに違いないのだ。
すると男はブンブンとその髭面を振った。
「違う、両手だ」
「りょ、両手ですかい? へ、へぇ」
変に下卑た喋り方になってしまったことに自分でも驚きながら、店主はそっと手を添えた。
パッと大男は手を開いた。
するとどうだろう、ザラザラザラザラという、商人という生物が最も求める爽やかな音で、聖職者という生物が(建前上)最も嫌う汚れた音が彼の耳朶を打った。
しかもそれは銀貨によって生じる音ではない。
得体の知れない外国の通貨でもない。
彼ほどのベテランの店主ともなれば、見るまでもない、音だけで分かる。
ルメンシスで使うことのできる金貨、信頼の高いノーミー金貨のそれだ。
それが音を立てられるほど大量に手の平に落ちてきているらしいことに、店主は手の感覚で気がついていた。
仮にそうでなくても目でも見えている。
なるほど片手では足るまい。
何故なら両手でも端からそれらはこぼれ落ちていくのだから。
「お、お、お、おぉぉぉぉ!?」
「これで足りるか」
神の次に金を拝む彼にとって、それは充分すぎた。
あまりに効果的すぎたので、彼は返事をすることすら忘れ、何を言われてもただ呆然と「おら、もう、死んでもええわ……」と故郷の方言で繰り返しているだけだった。
それをいいことに、今の内に、と、端にこぼれ落ちている金を、さっきまで市場の端に隠れていた老若男女有象無象が拾いに来たのに紛れて、チャアタイという男はそこを後にした。
金など、どうでもよかった。
どうせ、腐るほどあるのだ、この短い老い先ではどうせ使い尽くせないほどに。
それにどうせ自分は長生きできまい。
ならばこうして、使う誰かにバラまくのが筋というもの、だろう。
筋――と思いついて、チャアタイは頭を振った。
いやはや、あまりに東方的な考え方だ。
そうでなくても、捨てたはずの考え方だ。
世の中に筋など、正しさなどない。
大多数の幸せは、極少数の不幸せで成り立っている。
そうやって踏みつけて生きてきたのが、踏みつける側に立ってきたのが彼だった。
よってこれらは動きがたい実感として彼の中に鎮座していることだった。
それに、筋、などと言うのは言い訳じみている。ただの弱音だ。
誰も死の瞬間がいつかなど分かりはしないのを、それを分かったつもりになってこうしているのは、あまりに滑稽だ。
それに、「自分はこれから生まれ変わるのだ」。
だのに、その資金をこうしてバラまくのは、明らかに計算に合わない……まだ金はいくらでもあるとしても、だ。
チャアタイは自分の家にたどり着くと、吹き抜けの横の階段を上って二階に上がり、そこにたまたまあった適当な椅子に腰掛けて皮もむかずに林檎をかじり始めた。
これだけが、今日の朝飯だった。
林檎は旨くも不味くもなかった。
強いて言うなら、あれだけの金の価値は(当然のことながら)なかった、といったところか。
それにやや腐っている――確かに、腐りかけは旨いものだが。
チャアタイはそれをさっさと食べ終わると、下着の端(汚い)で果汁にまみれた手を拭いて、吹き抜けにある奇妙なオブジェを見た。
それは、この家特有のものらしかった。
どうも、ここの元々の主人は機装巨人乗りだったそうで、この家にガレージとしての役割も持たせていたらしかった。
その遺産がこれなのだった。
それは、柱ではない。
どちらかと言えば彫刻に属するものだ。
柱という「建物を支える」という実用面重視のデザインよりは、美しさそのものこそを重視するそれのようにも見えなくはない。
というよりも、建物とは独立してそれは存在していた。
白い流麗な表面色はなだらかで細いライン取りによって強化され、その鋭さは一羽の燕のようですらあった。
しかしチャアタイはそれを見る度に、その美しさを認めているにも関わらず、どうしても不快な気持ちになるのだった。その理由を、彼はもう知っている。
「彼の教え子が、コロシアムで死んだから」だ。
この精巧な切削加工物は、その戦いを思い出させるのに足る。
あの「オスカー」とかいう機体にどことなく似ているせいだろう。この流麗さの方向性は、まさしくそちら側だ。
「クソっ」
チャアタイは意味もなく悪態をついた。本当に何の意味もない。
全て終わったことだ。本当に何もかも手遅れで、しかも自分は「その原因に加担していた」。
後悔先に立たず。
だから人は、前に進まなければならない。
「ケジメをつけなければならない」のだ。
そのとき、ドアの呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。これはおかしなことだった。
というのもここ最近は、それがどんな時間でも、彼を訪ねてくる人物は一人もいないのが常であったからだ。
だからチャアタイはそれなりの警戒心を持ちながら一階に降りてドアノブに手をかけ、開けた。
「服を着ろ――」
そのドアの先にいた来訪者の第一声は、当然のことながらそれであった。
……そりゃあ、誰もがそう思う。
だが、それはまだ声だからよかった。
ナイフや魔導拳銃の音でなくてよかったという意味である。
チャアタイの元職業である「傭兵」という立場を思えば、恨みを持った人間が殺しに来たとしてもおかしくないのだ。
だが、来たのは丸腰の男だった。
しかも、その手には武器の代わりに貨幣が常に握られているような種の男だ。笑顔のようでいて目の色の違う表情からして商人だと言うのは見れば分かった。
その後ろには一応用心棒らしき精悍な顔立ちの男で体つきのよいのがいたが、こちらも見る限り武器は持っていないようである。
ちなみにこちらは貨幣も持っていない。
「――いや、俺はこう言いたかったのではない。全く違う。もっと真面目なことを言おうとしていたはずだ――例えば、『久しぶりだな、チャアタイ』とかな」
「――ミヤシタ」
その商人然とした男は、実のところミヤシタ・サンキその人であった。
そりゃあ、商人と一目で分かったのは当然である。
しかし、それでも一瞬、他人のような気がしたのは――最後に出会ってから流れた二週間という時のなせる技であった。




