第四十八話 バイツァ・ダスト
「服を着ろ」
その三日月型の傷を持つ男は厳かにそう言った。
「いや、こうではないな――本当はこう言うつもりではなかった。
俺はもっと真面目なことを言うつもりだったんだ。
それを、筋骨隆々のアンタがその彫刻じみたブットいモノを見せびらかすもんだから、ついついそう言ってしまった――で、アンタ、何でここにいるんだ?
俺は俺で気が変わったんでウキウキとレイイチの糞野郎を殺しにきたところだったが……だがお前さん、まさかそんな格好で、散歩ということでもあるまい」
そう言いながら、ニッキーは鷹揚に構えて見せた。
しかしそれはあくまで見せかけ。
それにかこつけて、僅かに立ち位置をズラす。
月明かりが目の前の大男を逆光で隠してしまわないようにするためだった。
ニッキーという男の、熟練の戦士としての本能がそうさせた。
「もちろん、散歩ではないよ」
対するチャアタイは直立不動の仁王立ちでそれに答えた――応えた。
「へぇ、じゃあ露出のシュミでもあったのか?」
「…………そういうのは街中でやるものだ、こういう辺鄙なところでやることではない」
「随分詳しいねー! 俺全然そんなの知らなかったよ。まあでも、それも年の功ってやつか? ん?」
「………………。」
閉口するチャアタイを見てニッキーは人を更にいらだたせるような笑い声を出した。
……そこで殴りに行かなかったのは、チャアタイの忍耐力のなせる技、ということなのだろうか。
「ふん、まあ、もうどうでもよい。私は露出狂ではないが、よしんばそうであったとしても、別段関係はない。どうしてもおかしいというのならそんな関係のないことでいつまでも笑っているといい――私はレイイチを守るだけだ」
「ホッ? 何だって俺がここに来るって分かったんだ?」
「いや、今日はただの散歩だ。偶然近くを通ったら、お前がいたのだ」
「『偶然』近くを通ったときに、『偶然』俺がいたのか、それはそれは奇遇でございますことで」
「……そんなの、どうでもいいことだ。それに、お前の方こそ一つ奇妙なことを言ったぞ」
その夜の闇がそうであるように、チャアタイは静かに、しかし低く響き、遠くまで通る声でそう言った。
「ああ? 何だ? 俺が何か変なことを言ったか?」
「ああそうだ。変な言い回しだ――何故なら、私たちは初対面のはずだろう?
それなのに『アナタは何故ここにいるのか』というのを第一声とするのは、明らかに奇妙だ。本来ならば、『お前は誰だ』と言うべきだろう」
チャアタイの指摘は正しい。
そう――確かに彼らは戦場で出会った。
あの礼一少年が敗北した平原で、チャアタイは確かにトレーラーを運転するという作戦上の使命を負わされていた。
それを実行しなかったまでも、ニッキーとの接点であることには間違いない。
だが、それは出会っただけである。
いや、下手すればそれ以下、町ですれ違ったのを、少し暴力的にしただけのような関係である、はずだ。
しかし、ニッキーはニヤリと顔の傷跡を歪ませた。
すると口は、傷跡がそうであったのを横倒したように、三日月。
それでは飽き足らない。彼の口からは、初めに息が漏れ出て、その次に声が漏れ出た。
最後に彼は体中を打ち振るわせて――笑った。
堪えきれなかったからこそなのか、その声は先程の彼のそれよりも大きかった。
大気は草葉を巻き込んで揺れて、それに拍車をかけた。
しかし、耳の良いものなら、ひょっとするとそこに怒りの色があることを聞き分けたかもしれない。
あるいは怒りを通り越した呆れを。
そして、チャアタイは耳があまり良くないにも関わらず、どういうわけかそれを感じ取っていた。
肌がピリついていた。
それは、兵士の勘。
生物の基本的本能。
あるいはそれ以外のエトセトラ。
「いやはや、笑わせてくれる。全く以て傑作だ。喜劇か悲劇か知らないが……」
ニッキーは、顔を抑えて天を仰いで、そう言った。三日月の例えをまだ引きずるのなら、それに暗雲を被せたようであった。
「それだけ笑っていられるのなら、喜劇なのではないか? だって、面白いのだろう?」
「いいや、悲劇だよ。これは悲劇だ。哀れな一人の男の物語だ――獣と言ってもいいだろうがな」
ニッキーは突然にナイフを抜いて右手に握った。チャアタイは思わず身構えたが、それを見てニッキーはニヤリと笑っただけだった。
それから、それを手の中で泳がせながら、静かに呟いた。
「――似てるんだよ、アンタ。
俺の『恩師』ってやつにな。
まあ、実のところああいう奴は『糞親父』と呼ぶのが適切だ、人を裏切って勝手に死にやがったはずの糞野郎は――だが、それはいい。
さっき馴れ馴れしかったのを、ひょっとするとアンタは不快に思ったのかもしれないが、まあその、許してほしい。
だがそれほどまでアンタはそっくりなんだよ――まるで、同一人物なんじゃないかってほどにな。」
そのときチャアタイは肩を押されたような気がした。
不意をつかれたかと思って、ニッキーの方を見たが、彼は一歩も動いてはいない。
さっきの位置からただ見ているだけだ。
が、その目は違った。
炎のような目。憎しみの目。戦士の目。
それが真っ直ぐにチャアタイに向けられている。
だが刃は、相変わらず右手の指の間を何も切ることなく回り、進み、戻っている。
何故、ニッキーはそんな目で彼を見るのか。
僅かに震えながら、チャアタイは小さく口を開いた。声までは震えなかったのは奇跡だっただろう。
「そんなに想っている人ならば、いつかきっと会えるだろうな。だが、私は関係ない。ただの人違いだ。以前聞いたことだが、世界には三人、同じ顔の人がいるらしいが――」
「黙れよ」
チャアタイはそこで口をつぐんだ。つぐんでしまった。
別に、ニッキーの言葉は、チャアタイの言葉を押し消すような大声でもなかったのに、そうしてしまった。
それを見て、ニッキーは優勢を確信したように、ニヤリと――いや、最早これはそんな生っちょろいものではない――ギラリと笑った。
「――なあ、正直に答えてくれや。
……ああ、『正直』ってのは、『嘘偽りなく』『間違いのない事実を』『神様に誓ってもいいぐらい正しく言う』ことだぜ。
これから質問するつもりではいるからよ、しっかり聞いて、『正直に』答えてくれ」
「……断る、と言ったら?」
「『神様の元へ』『自分のした間違いを背負って』『こんなの嘘だと思いながら行く』だけのことだ……分かりにくいか?
『死ぬ』ってことだ。
言い換えるなら、『血が噴き出し』『膓をこぼして』『糞にまみれる』ってことだぜ――だが、アンタは幸い、『まだ』それを選べる立場にいる。
素敵なことじゃないか。
人生、選べないことの方が多いものな。例えば、『生まれ』だとか――な!」
「――――ッ!」
彼が「生まれ」と言った瞬間、チャアタイは思わず踏み出していた。
自分でも何故かは分からなかった。
「チャアタイ・サーマニ」の人生において、生まれの不自由を感じたことはなかったし、選べないことの方が少なかったのだが。
しかし、彼は攻撃に移ってしまった。
感情的に走ってしまった。
明らかな失策である、いや、策がないのだからこの表現は正しくない。
とにかく、計画的攻撃でなかった以上、その攻撃はあまりに大振りだった。
そうは言っても、それは彼の鍛え上がった右腕の筋肉を総動員した図太い一撃。
常人ではそれですら充分すぎたはずだ。
「アンタは断るって言ったなッ、そういうことでいいんだなッ!?」
しかし、高速で迫るそれを簡単にニッキーはかわした。
それどころか反対に足払いをかけてチャアタイを転ばせようとした。
チャアタイは無様に転びはしなかった。流石に前に受け身をとって、回転を利用し距離を取る。
「どうしたんだ、『チャアタイ・サーマニ』君? 急に大振りな一撃を出すなんて」
「貴様ッ……!」
チャアタイは再度飛びかかった。己の敵めがけて手を伸ばす。敵をつかみ投げ飛ばすためだ。
が、月明かりを背にした敵はフッとその影を消した。
「!?」
「――後ろだァッ!」
その暴虐的な声にチャアタイが振り返ると同時に、銀色の一閃が走る。手首を取るのは間に合わない。
ならば、サイドステップ――しかし、彼はそれの開始時点で既にかなり前のめりだったので、またも姿勢を崩し地面を転がる。
「――ハァッ!」
回転を終え片膝立ちの彼に、ニッキーの右足が横から鋭く決まる。それは早く重い一撃だった。
チャアタイ自身の足に比べれば幾分か細かったので、何とか丸太のような彼の腕はそれを受け止めはしたが、ビリビリとした痺れがビィーンと響いた。
チャアタイが立ち上がるより先にニッキーは距離を取った。
蹴り倒せなかった時点で、戦略として崩れたということなのだろう。
ナイフという武器は基本的に、相手が同じ姿勢でいないとかなり使いづらいのだ。
下から睨むチャアタイにニッキーは挑発的に手招きをした。チャアタイの血圧がグイイと上がり、こめかみに血管が浮き上がる。
「どうした? 足には何もしてないぜ? 早く立ち上がれよ、でないとナイフが使いづらいんだよなァ。それとも歳かい、爺さん?」
訳も分からぬ怒りに燃えるチャアタイは僅かにふらつきながら立ち上がった。
そうしようとした。
「!?」
そうしようとして、姿勢が維持できずに、倒れた。
「ようやく効いたか――何ていう技だったかなぁ、ちょうど例の『糞親父』に習った……というよりパクった技だから覚えちゃいねぇが、東の方の格闘技術だったかな、コレ」
ニッキーは地面に這いつくばったチャアタイを見下ろしながら、右足を上げてブラブラさせた。
「まあ記憶にある範囲だと、確かコレは、防御を突き抜ける技なんだそうだぜ。
アンタみたいな分厚い筋肉バカに攻撃を通すのは骨が折れる――文字通りそうだが、力の伝え方を工夫することで、ただの打撃ではない『何か』へ変化させる、らしい。」
つまり、腕でチャアタイは防いだが、それを超えて――乗り越えて衝撃が頭を揺さぶった、ということだった。
防御していなくても、同じ。
それは、そういう攻撃だったらしい。
痺れたのは腕ではなく、頭!
だから、ニッキーが追撃しなかったのは、そうしにくかったからでもなく、そうしようと思わなかったからでもなく、単にその必要がなかったからだった。
「ぐっ……」
砂がチャアタイの口の中でジャリジャリと音を立てていた。倒れたときに入ったらしい。
金属の車輪は石畳を削ってしまうから、そういう砂はいくらでもある。
対して、ニッキーは遥か高みから見下ろしている。その上どこからか小さな酒瓶を取り出してグイイとやっていた。
が、むせて、チャアタイの顔に吹きかけた。ひどく強い匂いが顔を覆い尽くして、チャアタイもまたむせた。幸いそれで砂もどこかへ飛んだ。
「……うっげ、やっぱ火ィつけるための酒はキツいなッ……オッエ」
「……私を、どうするつもりだ」
「あ? 何だよ? 俺は今酔っていい気持ちなんだよ。頼むから気分アゲアゲで頼むぜ?」
「答えろ……!」
チャアタイは精一杯睨んだつもりだったが、視界がボヤケてよく見えない。
酒が目に入ったせいか、あるいは――。
ニッキーは一つ欠伸をして、しゃがんでから話し始めた。
「まあ、殺すつもりではあったぜ? 目撃された時点で誰であろうとそうするつもりだった。誰だって、人を殺しに行くところを見られたくはねぇだろうさ。
でも、すまなかったなぁ、どうも人違いだったらしい。」
「人……違い?」
「そうさ、人違いだ。
そもそも俺は、アンタをただ目撃者だからってだけで殺そうとしたんじゃあない。
あんまりにもそっくりなアンタが、もしも本当に『糞親父』だというのなら、積年の恨みがある、ぶん殴ってやりたかった――ぶっ殺してやりたかったから、というのもあった。
だが、アンタは弱い。俺がアンタを本気で殺しに行くつもりだったのなら、二百七十二回は殺せたぜ」
「………………。」
いや。
いくら何でもそんなには死なない。
と、チャアタイでも思った。
「クックックッ……傑作だぜ、その顔。ああ、もちろんジョークだ。俺は酔ってるからな。だがな、本当のでも――十七回」
十七回。
言うまでもないが、人は一度しか死ねない。
「殴りかかってきたときに一回。
足をかけた直後に一回。
起きあがる前に一回。
起きあがる瞬間に一回。
立ち上がるときに一回。
立ち上がった後に一回。
突っかけてきたときに一回。
後ろに回り込む代わりに一回。
回った後に一回。
転ぶところで一回。
蹴りの代わりに一回。
蹴りの直後に一回。
挑発の代わりに一回。
倒れた瞬間に一回。
酒を飲む代わりに一回。
酒を吹きかける代わりに一回。
こうしてくっちゃべっている間に一回。
東方だと何度死んでも生き返る『リンネテンセー』とかいうのがあるらしいが、まあ、これは違うよなぁ?」
ニッキーは、ドボドボと、ロクに呑んでもいなかった酒瓶をチャアタイの頭へこぼした。
「『糞親父』は、確かに糞野郎だったが、だが弱い奴ではなかった。
俺なんかに殺されるタマではなかった――よってアンタは偽者、というわけさ。
まあ偽者なら偽者で、殺したっていいわけだ。何にせよ目撃者なのだからな。
だが、俺は今! 酒に酔ってしまった。
これでは奴を殺しに行くのは無理なのだし、このまま家に帰りたい気分なのだし、アンタは赤の他人の、いわゆる空似なのだし――というわけだ。
よかったなァ、命拾いってやつだ。
命を運んでくると書いて、運命ッ!
愉快な愉快なチャアタイおじさんよ。お前さんのおかげで、アイツは救われたのさ。
アンタは勝ったんだよ、俺に。
おめでとう――おめでとう!
それじゃあさようなら、二度と姿を見せんなよクソッタレ」
「待てッ……」
「嫌だね、砂でも噛んでろ」
ニッキーはチャアタイの顔に唾を吐きかけてから道を戻っていった。
それでもチャアタイは立ち上がろうとしたが、やはり無理だった。かけられた酒で、少し酔いが回っているせいもあった。
そうこうする内に、ニッキーはグングンと小さくなり、月明かりでは追いきれないほどになり――闇に消えた。
後には、情けない男が一人取り残されていた。




