第131話 滅び
ハートマンは体全体を引きずるようにして何とか階段で上へ上へと行く。
さっきすれ違った負傷兵を担いだ衛生兵から包帯を引ったくるように拝借して手当てをしたので、多少痛みも意識も地下道のときよりは回復していた。
だがそこからハートマンは、彼が戦っている間に衛生兵が負傷兵に対応するために城内を走り回らなければならないほど戦線が後退したということを理解していた。
恐らく、彼の予期したように実際には存在しない後方の脅威が前線の士気を完全に破壊し、秩序のない後退が敗走へ変わり、逃げ遅れた一部が城内に留まるしかなく――こうして包囲されているのだろう。
すると彼は一つの予感をその脳裏で走らせて、一直線にヨハナの部屋に行く代わりにわざと司令部となっていた食堂の前を通ることにした。
だが、それがある階に到着した瞬間、もう中を見るまでもないだろうと彼は理解した。
無数の銃声や砲声が室内であるにもかかわらず空気を震わせているのに、そこにあるべき将校と伝令の喧騒がなかったのである。
代わりに伝令らしい兵士が何人か、伝えるべき先を失ったのか互いに相談していたが、それだけであった。
その様子からして、あの将校たちは全員戦死を恐れてわずかな手勢と逃げ出したに違いない――そうハートマンは考え、彼ら将軍を軽蔑した。無論、彼も人のことを言えた立場ではないわけだから、自嘲気味に。
だがその彼の推測は、実際には間違っていた。次々に戦線が突破される中、彼らは後方に実は敵がほとんどいなかったことをようやく悟った。ハートマンと大体同じ結論に至っていたわけだ。
しかし、だからといって一度陥った敗勢を覆せるというわけではない。彼らは残酷な次善策を取らざるを得なかった。
それは、連絡が付かず取り残された部隊を囮に、まだ救うことができるがこのままでは孤立し殲滅される部隊を次々後退させ、司令部自らも城を出たのだった。
そうして、正攻法の戦い方はできないまでもそれなりの戦力として残ってしまった革命軍は、その後の内乱の中において更に名を――主に悪い意味で――残すことになるが、無論、そのようなことを彼が知るはずもない。
だからすぐにそれを妄想だと断じて階段を上ろうとする――。
「――ヨハナさんは返してもらうッ!」
だがその声が背後から彼を呼び止めた。最早振り返るまでもない、ヤツだ――まさか追いつくとは! ハートマンは舌打ちをする。
「しつこい――食い止めろ!」
しかし、彼は落城寸前といえども城主であり、そうでなくともそこにいた伝令兵より遥かに上位の少尉であった。
そう命じるや否や彼らはハートマンの不自由になった手足の代わりとなって、階段の上で戦陣を張った。すぐさま上下に射撃音が響く。それを背にしてハートマンが去っていくのを、反射的に踊場の手すりまで下がって隠れた礼一少年は見た。
「――! 逃げるなァッ!」
その瞬間、礼一少年が飛び出したのは、その敵を驚かせた。数の上で有利で地の利を得ている敵に真正面から突進するなど、狂気の沙汰でしかなかった。
「何で来るゥ!?」
だが問題は、彼らの士気の低さだった。司令部がとっくに逃げ出したと判断していた彼らはどうやって敵をやり過ごしつつ逃げ延びるかを考えていたのだ。
階級を見て思わず従ってしまったが、即座に敵を倒してバレない内に逃げたいというのが彼らの本音だったのに、その闘争心ならぬ「逃走」心は、彼らと対照的に恐れを知らない敵と向かい合うことで一層煽られた。
「――ッ! 手榴弾を投げる!」
「馬鹿、よせ!」
するとそれは当然行動に現れる。彼らの内の一人が不用意に手榴弾を投げたのだ。そこには焦りがあった。だから若干距離は近かったが、上を占めているという有利を考えれば問題ないはずだった。
しかも、幸運は彼らに味方した。足を負傷していたらしい敵が、投擲の瞬間に急に転んだのである。これでは、仮に爆発まで猶予があったとしても、姿勢が乱れているので、彼らまで投げ返すことはできない。
間違いない、死んだ。殺した――彼らは、そう思った。
思ってしまった。
だから彼らは、近すぎる爆心地から少しでも安全にしようとその場に伏せて、射撃をやめてしまった。
だから彼らは、自分達から離れたはずの手榴弾が何故かこちらへ返ってきていることに気がついたのに、何もできなかった。
「え」
爆発は空中で起きた。彼らの頭上を人を殺すのに充分すぎる魔力が通り抜けていき、それから炎と煙を残して視界を遮る。何も見えなきゃ耳も聞こえない。それは轟音のせいか、恐怖のせいか?
「何で……何が起きッ」
そう言った誰かは、自分の喉が銃剣で誰かに切り裂かれたと気づけないまま死んでしまった。それは他の彼らにとって二つ目の不条理だった。手榴弾は予想外の形とはいえ、もう爆発したのである――死ぬはずがないのだ!
そうして見上げた彼らの前へと階段を上ってくるのは、仁王だった。血を前髪の間から垂らしながらも、その目は瞬き一つせず、晴れていく視界の中、何かを探しているのだった。
そしてその手には小銃と銃剣。それは血を纏っている――あるいは赤色の死だ!
「……ウワァアアッッ!」
その重圧感に耐えきれず、彼らの一人が立ち上がってしまった。しかし、這いつくばっている彼らと既に同じ階に立っている礼一少年とでは、条件があまりに後者に有利すぎる。飛びかかった瞬間に、彼は死んだ。
そこから連鎖的に、恐慌的に攻撃は始まった。銃剣、拳銃、あるいは小銃を鈍器に使ったり。
彼らにできる限りの全ての近接攻撃が行われ――全て同じように、彼らの死で賄われた。喉、腹、あるいは心臓を貫かれて、死んだ。
煙が完全に晴れたとき、そこには彼らの人数分の死体に囲まれて一人の鬼が立っていた。ただ、それは実際には人間で――だから、その直後、礼一少年は崩れ落ちる。
礼一少年が爆発の寸前何をしたのかと言うと、確かに彼らの予想通り、投げ返しはしなかった、できなかったのだ。そうするには姿勢が崩れすぎていて、低すぎた。
とはいえ、別に、手で投げ返すだけが唯一の手段というわけではあるまい。彼は階段スレスレで、銃床をラケットに見立てて、打ち返したのだ。
しかし、それが間に合ったとは、実のところ言えない。余りに近い空中で爆発したそれは、咄嗟に伏せたとしても彼にとっては目くらまし程度のものでは済まなかったのだ。
腕で庇うのが間に合った頭には複数の切り傷。間に合わなかった背中には大火傷。腕は両方ともどこに傷があってどこにないのかも判然としなかった。
しかも今まで無理をし続けてきた意識は朦朧として遂に限界を迎えていた。猛烈な眠気があった。どうにも、熱があるらしい。
(風邪を引いたな、ヨハナさんに怒られる……でもヨハナさんのところまで、行かないと……帰れない……)
それでも彼は一度だけ立ち上がった。だがその瞬間、目が眩んで、血の中に沈む。開いていた目が、閉じる。




