第114話 Die Ehefrau
「フランメ……ここで何をしている。君が侍女の真似をするとは珍しいこともあるものだ」
フランメ・ハートマン。炎のように朱い長髪とルビーのように紅い瞳を持ち、ワインのように赤いドレスを身に纏ったこの女性は、名前の通り彼の妻である。
旧姓はフォン・ルーベンシュタットといい、これは神聖帝国北方のハンス同盟の一都市を治める一家の名である。
彼女はその三女でこそあるものの、家柄もよく、先述のように見目麗しい――ハートマンが(というよりその一家が)彼女との婚姻を望んだのも当然のことだろう。
しかし、彼女には大きな難点があった。
「主様こそ、既に皇帝と宰相であるかのように二人きりになりそこで滔々と将来を語るとは、珍しいことではありませんこと――妻であるわたくしにもしてくださらないのに」
減らず口(事実はどうあれ、ハートマン自身はそう考えていた)――彼女の魅力を減殺して余りあるそれのことである。
フランメはことある毎にハートマンのやること為すことほぼ全てに水を差すようなこと、悪意を以て表現すれば足を引っ張ることを言うことを趣味としているようだった。
お互いを深くまで知るに足るほど付き合いが長くはないということを差し引いたとして、領地の運営にしても「計画」に関しても、彼女は自分の見解を彼のそれと戦わせていた。
厄介なのは後者に関して言えば、彼女の家柄がものを言うということだった。何しろ彼女の実家のあるハンス同盟は、軍港も多くあり、海軍の協力者代表のような立場だったからだ。
「あまりそう僻むな――たとえ傀儡といえども、割り切るなり諦めるなりして、少しはやる気を見せてもらわねば偶像としての価値がなくなってしまうのだから」
ただ、今回の場合、彼女の辛辣な言葉は、恐らく妻であるが故の僻みだろうと彼には思えた。
あくまでそのような形を装っているだけという可能性もないわけではないとはいえ、夫が、身分立場はどうあれ、連れ帰ってきた女と二人で部屋にいたというのは、ただでさえ長く留守番させられていた妻には耐え難いものであろう、というのが彼の考えであった。
「ほう、偶像ですか――まるでイグルンランド人のようなことを仰るのですね?」
すると、その仮定に基づくならば奇妙な、まるで妻だ何だという立場論とは関係のない返答が彼女から返ってきた。
奇妙な点はもう一つある。彼女は「計画」に関しても首を突っ込んでいるのだから、当然ヨハナを傀儡とすることぐらい知っているはずなのだ。彼は首を傾げる。
「言われてみれば確かに、かの国が言うところの『王は君臨すれども統治せず』と似てはいるが――それがどうしたというのか? 今までとて、カール帝が口を出さなければ全て宰相や我々臣下が仕切っていたのだ。それと何も変わらない。それとも、そのあり方を続けるのは不健全だとでも言いたいのか、今更?」
ハートマンがそう言うと、口元とその中で彼女は笑って、どこか挑戦的な色をした目を自らの夫のそれに向けた。
「違いますわ――わたくしが言いたいのは、そもそもその偶像とやらが必要なのか、ということなのです。」
「お前は政治を知らんからそういうことを言う。もしこの国を統一したのならば、皇帝派の残党ともやっていかなければならなくなる。そうなったとき帝室出身者がいなければ懐柔のしようもないだろう」
フランメの広角が上がる。よくない兆候だった。
「それは妙ですわね――わたくしたちは当初、皇帝を暗殺することによりその一派をこの闘争から排除する予定だったのですが」
ハートマンは眉を顰めた。彼女の狙いが読めなくなってきたからだ。
「それは、あくまで一時的なものだ。私は平定したあとのことを言っている。」
「もちろん、わたくしとてそのつもりでございますわ。ですからわたくしが言いたいのは――帝室そのものをこの機に廃してみては、ということなのです」
「――廃する、というのは?」
「当然、根絶やしにする、ということでございます――圧政の象徴として」
馬鹿な、とハートマンは心をざわめかせた。それは静かな湖面に石を投じるようなものであっただろう。
すると如何に彼が精神と身体を切り離すことに長けていたとしても、彼の心理はその表情に波紋を及ぼさなかったとは思えない。精々そこから回復するのを速めるぐらいが関の山だろう。
そして彼女はその一瞬ですら見逃さないのだ。
「皇帝派などというのは、結局のところ一つの柱によって形作られているに過ぎません。その一種の重心を粉砕することに成功すれば、むしろ変心をも誘えましょう。何故、そうなさらないのですか?」
鋭い指摘。それにもまして鋭利な視線。戦場で砲兵隊の集中砲火を浴びているかのような圧力がそこにはあった。だが、その火力の中に抜け道がないのかといえば、当然そういうわけではない。ハートマンは戦線のその薄い部分に全てをつぎ込んだ。
「それは詭弁だ――権力には説得力というのがある。先は皇帝派について言ったがそれと同じだ。権力というものは、今までのものから引き継ぐことによってどの派閥にとっても最も効率よい統治をもたらす――そういうものだろう」
彼はこう反論をした。彼の言い分としては、あくまで代替わりという穏便な形を取るということが自らの統治――形式上は皇帝の、だが――を安定化させると言いたいのだった。それは確かにその通りなのだろう。
だが、詭弁だ、という言葉は、実のところ彼自身にこそ向けられているように彼は感じていた。
これは彼自身も理解している通り、結局皇帝派を向いた意見の焼き直しに過ぎなかったし、この件に関して他の派閥について言うなら、ある派閥を無視している――国内に少なからずいる共和・民主制支持者だ。
それだけではない。この言い訳は、「統治するのが実質的にハートマンだとするならば、形式などいくら拘って他者に考慮を与えたところで軋轢や摩擦は免れない」という、彼女の指摘に対しては何一つ反論できていないのだ。
となれば、彼は言わば砲火を恐れるあまり川岸まで追い詰められたものであり、そこに逃げ場はもうなかった。背水の陣――最早渡河するしかないが、この場合その先にも敵兵がいるのだった。
すると彼は覚悟を決めなければならなかった。だがこれは戦いでもなく演習でもない。では彼は一体何に対し、どのような覚悟を決めればよいのだろうか?
「そういうものなのでしょうね――きっと」
しかしそのとき不思議なことが起きた。敗走に追い込んだ勝利者たるフランメはそう言って、退却の姿勢を見せたのである。
「わたくしは、主様を信頼いたします。それが主様の選択なのでしたら、甘んじて受け入れ申し上げましょう――それが、妻というものでしょうから」
その一言は決定的だったし、その後の一挙はこの論争を無理矢理決着させた。彼女は自らの夫に一礼すると、侍女を食事を下げさせるために一人残してどこかへ引き返していったのだった。鮮やかな退却である。彼はそれを見ているしかできなかった。
そして残されたその侍女が料理を下げて廊下の隅に消えるまで、彼は妻の行動に言い知れぬ不自然さと不自然な不愉快さを感じながら、そうしていたのだった。




