別たれた運命
『嘘!嘘!嘘!嘘!フェン!やだっ!やだあああああああああああ!!』
フェンの元へ戻ろうとするルーファをガッシュはその手で掴み、漆黒の汚染獣に目を向ける。
迷いは一瞬。
ガッシュは反転し全速力でその場を離脱した。
『フェン!フェンを助けて!お願いガッシュ!』
泣きじゃくるルーファの悲痛な叫びにもガッシュが応じることはない。彼は最善を選択した。否、全ての者が最善の選択をしたのだ。
ガッシュは微かな鳴動を感じ、即座に地を蹴り飛翔する。
ガチン!
ガッシュを追って、地面から現れた漆黒の汚染獣の牙が空を噛む。
身体の大半を失い20メートルにまで縮まっていたソレは、フェンを喰らうことにより50メートルにまで膨れ上がっていた。
ガッシュの蒼眼が輝き、漆黒の汚染獣を削る削る削る……。
彼は気付いているのだろうか。彼が喰らう度に腕が、足が黒く染まるというその意味を。それ即ち……彼の身体が汚染獣へ変わろうとしているという事。
ギチギチと音を立てて歯が伸びる。否、それは牙だ。
ガッシュの口から獣の様な唸り声が漏れ、飢餓に塗れた目がルーファへ向けられる。
(……喰いたい)
ガッシュは短剣を抜き躊躇うことなく己の足へ突き刺した。そこから流れるのは……黒い血だ。
これ以上力を使うのは不味い。微かに残った人としての理性がガッシュを押しとどめる……が、その迷いが徒となった。漆黒の汚染獣が遂にガッシュを捉えたのだ。
バキイイイイイ!!!
尾で弾き飛ばされたガッシュは地面に叩き付けられた。
その時、彼が感じたのは激しい歓喜。強い獲物を引き裂き、喰らい、モノにしたい……。彼は舌なめずりをしながら嗤う。
彼は気付かない。あれほど大切に思っていた家族がその手にいないことに。
『フェンを返せえええええ!!』
ガッシュの腕から飛び出したルーファは真っ直ぐに漆黒の汚染獣へ向かう。ルーファを喰らおうと大きく開かれた口。そこに迷うことなく飛び込んだ。
吐き気を催す臭気、絡み付く黒い液体。
一片の光もない暗闇をルーファは奥へ奥へと進む。
『フェン、フェン、返事して……お願い……』
ズルリと足が滑り、ルーファは一気に奥へと流された。
ザブン!
ドロドロの液体の中へ沈んだルーファは、そこから逃れようともがく。懸命に手足を動かすルーファを嘲笑うかの如く、その耳から口から液体が内部へと浸食する。
上も下も分からない。
出口も未来への道も見失った。
最早、力を振るうことさえ叶わない。
(……寒い、暗い)
…………。
深い森の中、青灰色の狼が振り返った。いつもと変わらぬ金の目がルーファを映す。
――フェン!フェン!良かった!
――馬鹿。お前まで来てどうすんだよ。
呆れた様子でため息をついたフェンはルーファを咥え、歩き始める。
――どこ行くの?
ルーファの問いに答えることなく黙々と歩くフェンの足が止まったのは、森の出口だ。いや、そこは本当に出口なのか。
木々が途切れたその先には何もない。ただただ黒い闇だけが広がっていた。ルーファは泣きそうな顔でフェンを仰ぎ見る。
――行け。ルーファ
――フェンも一緒に行こう
――悪いな。オレ様はもう行けねぇ。
フェンは自分の足を示す。黒く蠢く何かがフェンの足を覆い、刻一刻とフェンの身体を浸食していく。フェンの魂が喰われているのだ。
ルーファは悟る。
今の自分の力ではフェンを助けることが出来ぬのだと。もしルーファが〈輪廻操作〉と〈万物創造〉を使いこなせていたのなら結果は違っていたことだろう。
声を殺して泣き出したルーファをフェンは優しく舐めた。
――泣くな。オレ様が今こうしていられんのはルーファのお蔭だ。分かるか?お前の神樹がオレ様の魂を守ってんだ
本来なら、喰われた瞬間がフェンの最期だったのだ。今ルーファと話していること事態が奇跡。
――生きろ。それがオレ様の望みよ
――フェンと一緒にいたい。ずっと一緒にいたいよぉ
――悪ぃな。その願いは叶えてやれねぇ。だがよ、これだけは忘れんな。お前と出会えて良かった。オレ様は後悔なんかしてねぇ。お前を守れたことがオレ様の誇りよ
そう言ってフェンは誇らしげに笑い、ルーファを見つめる。
――行け。オレ様の願いを叶えてくれ。ここで死ぬなんざぁ許さねぇ
言葉なく俯き泣いていたルーファは、涙でグショグショに濡れた顔をあげた。だが、その目に浮かぶのは悲しみだけではない。
それは決意。強い願いがルーファを突き動かす。
――嫌。まだ行かない。オレはフェンを解放する!
フェンの命は助けられない。ならばせめ魂だけでも取り戻すのだ!!汚染獣に絶対に渡すものか!!!
ルーファの身体から光が迸る。
先程まであった森は消え失せ、そこには白い空間が広がっていた。
そこに浮かぶは2つの影。
白銀色の少女と、青灰色の男。
フェンは今にも泣きだしそうなルーファを見つめた。鋭い金の目は優しく細められており、隠し切れぬ愛情がその目に浮かんでいる。
不意にフェンの目に苦痛の色が過った。
フェンは魂を喰われ続けているのだ。想像を絶する苦しみが、今も尚フェンを苛んでいる。
ルーファは辛そうに目を瞑った。その小さな拳は強く握りしめられ、微かに震えている。
閉じていた目がゆっくりと開かれ、悲しみ、怒り、苦痛……様々な感情が通り過ぎる。最後にその目に浮かんだのは……覚悟。
ルーファはフェンへと一歩踏み出す。それは別れの一歩。
ルーファの手がそっとフェンの頬に触れ、薄紫と金の目が交わる。
その温かな手に自分のそれを重ねたフェンは、嬉しそうに笑った。ルーファもそれに応えるように笑う……が、直ぐに顔が歪みポロポロと涙が零れ落ちる。
触れた箇所から光が漏れだし、その光はやがてフェンの全身へと広がり弾けた――黒い影と共に。
『ルーファ、ありがとうな』
『ご、ごめん、なさ、い』
フェンは泣きじゃくるルーファに顔を近づけ、涙を掬うように舐めとった。
『謝るな。これはオレ様の意思でやったことよ。お前の所為じゃねぇ』
『でも……』
『でもじゃねぇ!いつまでも辛気臭い顔してんじゃねぇよ』
フェンはルーファの頭を小突く……以前と同じように。だがその姿はいつもの力強い姿ではなく、徐々徐々に薄らいでいた。時間がないのだ。彼に残された時間はあと僅か。
『それによ。助けてもらった時は謝るもんじゃねぇ。笑ってくれルーファ。お前の笑顔が見たい』
俯き目を閉じたルーファは顔を上げ、真っ直ぐにフェンの目を見る。花が綻ぶように笑ったルーファの目からは、それでも止めどなく涙が流れていた。
『あ、ありが、と。フェンと会えて、一緒にいられて嬉し、かった』
『オレ様もだ。お前との旅は楽しかったぜ』
そう言ってルーファを抱きしめるフェンの身体は透け、抱きしめられる感触の代わりに温かな空気がルーファを包み込んだ。フェンはそっとルーファの耳元で囁く。
『……じゃあな、お別れだ。生きろよルーファ』
消えていくフェンにルーファは叫ぶ。
『フェン!フェン!忘れないから!ずっと忘れないから!フェンみたいに立派になるから!だからっ!見てて!!ずっと見守ってて……!』
わんわん泣きだしたルーファの頭をクシャクシャっと風が揺らす。
ルーファはその風にフェンの大きな手を感じた。
『ゴホッゴホッゴホッ!』
浮かび上がった子狐の口から黒い液体が溢れる。ルーファは動かぬ身体を叱咤して〈飛翔〉を使う……が、上手く力が使えない。
それでもルーファは我武者羅に手足を動かした。ここで諦める訳には、死ぬわけにはいかない。生きなくては!フェンと約束したのだから!
だが……ルーファの小さな身体は強い決意とは裏腹に、冷たく強張っていく。
生きようともがくルーファの動きが緩慢になり、徐々に身体が沈んでいく。
諦めたらどんなに楽だろう。このまま眠ってしまえば苦しみなどあっという間に過ぎるに違いない。そう考えた自分が可笑しくてルーファは笑う。そんな選択肢など端から有りはしないというのに。
身体が動かないのなら、ルーファに出来ることは1つ。
『ガッシュ!ヴィー!助けて!!』
ルーファは叫ぶ。只ひたすらに。
薄れゆく意識を懸命に繋ぎ止めながら、それでも叫び続けた。
どれだけの時間が経ったのか……自分が死んでいるのか生きているのかすら分からなくなったころ、ルーファの目に微かな光が映った。
暗い暗い闇の中に輝く一筋の光。
同時に、ルーファの身体が乱暴に引っ張られた。
乾いた風がルーファの頬を叩き、見慣れた赤茶けた大地が眼前に広がる。
『ガッシュ……?』
戸惑いながらルーファが見つめるその先には1人の男の姿がある。いや、果たしてソレは本当に人なのか。開いた口からは鋭い牙が並び、黒い液体がそこから滴り落ちていた。
血の如き紅い光がルーファの目に飛び込む。
それは……眼。
黒い筈の左目は白目の部分まで真っ赤に染まり、隠し切れぬ殺戮への欲望が渦巻いていた。
咄嗟に左目を隠したガッシュはルーファを地面に下ろす。
「イケ。ココは、オレがヤル」
そう言ってガッシュはルーファに背を向けて歩き出した。
その後ろ姿にルーファが感じたのは、悲しみでも感謝でもない――憤怒だ。
自分を置いて死地へ向かうガッシュへ、そして何よりそれを見送ることしか出来ない自分に対する激しい怒り。
(もう嫌だ!何もできないのは嫌!!)
〈豊穣ノ化身〉をその身に纏い、光の塊となったルーファは漆黒の汚染獣へと突進する。
「ルーファ!!」
ガッシュの焦った声を背にルーファは翔ける。
ボンっ!!
捕えようと伸ばされた漆黒の腕が弾け飛び、その勢いのままルーファは突き進む……が、そこが限界。渦巻く瘴気の塊がルーファの力を一気に引き剥がした。
『ギャンっ!!』
漆黒の汚染獣の尾に弾き飛ばされたルーファの身体が砕け散り、再生する。
(……喰らいたい、助けたい)
本能と感情の赴くまま、ガッシュは走る。
アレは自分の獲物。
アレは自分の家族。
どちらが本当なのか……既に彼自身にも分からない。
ただ手を伸ばす。
ソレを手に入れるために。
触れた瞬間に流れ込む温かな力。
ガッシュは何かに突き動かされるかの如くソレを抱きしめた。
僅かに顔を覗かせた理性が、彼に囁く。
これ以上喰らってはいけない……その先には破滅しかないのだから、と。
ソレが、その決断が彼の明暗を別けた。
彼は動かない、動けない。
黒き死の咢が眼前に迫っているというのに――




