2人の超越種
その日、リィンの上空には澄み切った青空が広がっていた。
穏やかなはずの気候、麗らかな日差……だが、そこには違和感がある。
初めに異変に気付いたのは誰だろうか。
いつも上空で風を切り飛んでいる鳥の鳴き声も、合唱を繰り広げている小さな虫の音色も……何1つ聞こえはしない。
路地裏で昼寝をしている猫も、草を食んでいる家畜も怯えた様に固まって震えている。
風が……消えた。
梢も草も花も、時間が止まったかのように動かない。
感じるのは澱んだ空気だけ。
不安がさざ波のように王都全体に広がる。
時を同じくして大通りに設置してある魔導テレビが一斉にサイレンを鳴らし、各家庭にあるラジオに電源が入った。緊急連絡だ。
――汚染獣の大侵攻
その報せはリーンハルト全域に届いた。
魔導テレビとは国にとって重要な事柄を国民に伝える装置である。
普段は大通りにある広場に一種の芸術作品のように加工された魔石が並んでいるだけだが、その装置が起動すればホログラフィーのように映像を映し出すのだ。
これは各都市に複数箇所配備されており、光星城にある本体で録画した映像を一斉送信できるようになっている。
とは言っても、魔導テレビが実用化されている国は未だ少なく、ドラグニルに技術提供された国だけだと言える。故に今に至るまで全て国が管理しており、一般家庭には普及していない。
庶民が主に情報媒体として利用しているのはラジオとなる。
これらの情報媒体により北部の都市に緊急避難指示が出され、転移陣による移動が開始された。強い外壁を持たない閑静な農村も最寄りの街へ避難となった。
不思議と食料の買い占めに走る者はいない。
無駄だからだ。
嵐のようにいずれ去って行くのなら、人々は食料を買いに走っただろう。
だが……汚染獣は違う。来たら最期、生き残る道などありはしないのだから。汚染獣を倒すことだけが、死を回避する唯一の方法。
人々は走る、神獣神殿へ。
祈りを捧げ、滅びを回避するために。
人々は走る、大通りへ。
情報をいち早く入手し、生き残るために。
人々は走る、冒険者ギルドへ。
戦いにその身を捧げ、大切な誰かを守るために。
重苦しい空気の中、再び王都の魔導テレビが起動した。
そこに映るは宰相マイモン・シェラーソン。
【緊急避難命令を発動する。光星城周辺にいる者に告ぐ。直ちに誘導する兵に従いそこから離れるのだ。城から距離を取るように。繰り返す……】
魔導テレビから程近い場所にある冒険者ギルドは多くの冒険者で溢れかえっていた。
現在、冒険者は待機中なのである。彼らは対魔物のエキスパートであり、汚染獣は管轄外だからだ。
兵の人数が少ないならいざ知らず、リーンハルトは十分な数の兵を抱えているのだから。
仮に冒険者に緊急依頼が出された場合、それは汚染獣を止めるための策が尽きた、ということだ。市民の避難、そして汚染獣の足止めが主な依頼となるだろう。
幸いにも未だ緊急依頼は出されておらず、かと言って家で休む気にもなれない彼らの多くがギルドでたむろしているという訳だ。
そんな冒険者に混ざって、ギルドマスターであるバライは怪訝な表情で魔導テレビを見ていた。
「一体何がどうなってんだ?光星城から汚染獣が来るってぇのか?」
「いえ、それならば王都全域に避難命令が出るでしょう」
ギルドマスターのアホな質問にも補佐官であるルピシアは真面目にコメントする。その声音に呆れが多く含まれているのは気のせいではないだろう。
瘴気の所為で転移陣が使えないというのに、瘴気の塊である汚染獣が転移陣を利用してやって来る……不可能を通り越して実にシュールである。
そんな2人の周りでは冒険者たちが好奇の眼差しを光星城へ向けていた。
「どうやら城内にいる者も全員避難しているようですよ」
通信の魔道具で友人と連絡を取り合っていた職員の言葉に、無精ひげを擦りつつバライが予想を口にする。
「大規模魔法を起動させるとか?」
「ここでですか?」
「……だよな」
汚染獣がいるのは荒野である。リィンで発動させてどうするというのだろうか。
ルピシアの視線が冷たい気がして、バライは静かに目を閉じた……ただの逃避だが。
口々に予想を言い合う冒険者に、光星城を不安そうに眺める市民たち、彼らの間を縫うように兵が忙しなく行き来する、そんな中……
――世界が歪む。
バライは気付けば床の上に転がっていた。
いや、バライだけではない。ルピシアも冒険者も見渡す限り全員が地に伏して震えている。
“恐怖”――それが彼らを支配する。
仮にも戦闘に身を置く冒険者たちが、完全なる絶望に囚われる。どんなに強大な敵であろうと、どんなに絶望的な状況であろうと、諦めること無き戦士の心が砕け散る。
ひゅ~ひゅ~
それが自分の呼吸音なのか他者のそれなのか分からない。
ただただ恐ろしい。ただただ逃げ出したい。
子供のように泣き叫び、恥も外聞もなく全てを捨てて。
「ガアアアアアアア!!」
額に青筋を浮かべ、全身の筋肉を膨張させたバライが剣を杖に立ち上がった。その身体は未だに震え、まるで生まれたての小鹿のようだ。
滝のように流れる汗が、彼の心に刻まれた恐怖がどれ程のものかを物語っていた。
バライに続き高位冒険者が恐怖の楔を断ち切り、その目は自然と発生源へと向けられる。
彼らが見つめるその先で……光星城が消えた。
文字通りの消滅。
何の前触れもなくただ消えた。轟音も瓦礫も何もない突然の消滅だ。
余りに現実離れした光景に全員が動くことすら出来ずにいた。
これは夢か幻か。それとも正気と狂気の狭間なのか。
――そして現れる“伝説”
紅い、紅い竜だ。
黒い鬣を靡かせ、白い雷を纏う金色の角が太陽より尚激しく燃え上がる。角と同色の目は激しい怒りを孕み、真っ直ぐに荒野へと向けられていた。
――竜王ヴィルヘルム
世界の転換期に現れる守護竜にして世界に徒為す者を裁く断罪の竜。
「竜王、様……」
喘ぐように呟かれた声が空気を震わせ、彼らが見つめる中で紅水晶を思わせる優美な翼が空を覆う。
バサリ
羽ばたき1つで、その巨躯が空高く舞い上がる。同時に渦巻く圧倒的なまでの魔力。
その魔力を目にした瞬間、バライは叫んだ。
「結界だ!結界を張れ!!」
竜は魔力で飛ぶ。バライはドラグニルで竜種が飛ぶ姿を見たことがあった。魔力を纏い、高速で飛翔する竜種たちを。
遥か上空にありながら突風が地上を駆け抜けるその様は、ドラグニルの風物詩の1つだ。
バライは周りを見渡す。
溢れ出す魔力だけで人々を地面に縛り付け、高まりゆく魔力で先程から絶え間なく耳鳴りがする現状を。
竜王が飛べばどうなるのか……。バライは震える足を叱咤してギルドの結界を作動させ、結界の魔道具を持っている者もそれに倣った。
ガアアアアアアアアアアアアアン!!!
爆発音とともに一瞬でその巨体が消え失せる。
だが、バライの予想に反して衝撃波が彼らを襲う事はなかった。
ヴィルヘルムは竜ノ神。
彼は遍く自然を司る。彼が傷つける意図を持たぬ限り、自然が人に害為すことなど有りはしないのだから。
ヴィルヘルムが去った空を呆然と眺めていた人々の口から歓声が漏れる。それはやがて王都全域に広がり、瀑布となって駆け巡った。
畏敬の念と共に彼らは確信した――物語の結末を。
◇◇◇◇◇◇
ガッシュは荒野を駆ける。
既に汚染獣は目と鼻の先。接敵するのは時間の問題だろう。
ガッシュは眼帯の上からそっと右目を撫でた。それは呪われた魔眼であり、彼を勝利へと導いた力でもある。いや、彼にとっては呪いなのだろう。そうでなければ態々眼帯で隠しはすまい。
ガッシュはここに来て躊躇う自分に自嘲する。この魔眼で何万、何十万と屠ってきたというのに。
この眼帯とて実際は何の意味も無いものだ。超越魔法を封じる魔法など有りはしないのだから。
彼は眼帯越しにものを見ることすら可能なのだ。
ただ嫌いなだけ。ソレを見るのも見られるのも苦痛を感じる。
だが嫌いだから使わないというのは、単なる子供の我儘だ。何であろうとあれば使う。それは手段に過ぎないのだから。重要なのは自分が何を為すか為さないか、だ。
ガッシュの意を汲んだ魔眼が発動する。
眼帯が一瞬のうちに消え去り、そこから現れたのは蒼穹の青。
歓喜と嫌悪、相反する感情がガッシュを襲う。だがそれも一瞬。直ぐに戦闘への高揚が全てを覆いつくした。
蒼眼が煌めき、高まる戦意とは裏腹に静かなる力が牙を剥く。
超越魔法:虚空ノ神
ガッシュの眼に捉えられた汚染獣が跡形もなく消え失せる。
否、その表現は正しくない。汚染獣は喰われたのだ――その空間ごと。そこには何もない。大地も微生物も空気も時間の概念ですら――何も。
これこそが彼の力。
〈虚空消滅〉
彼は無くす、全てを無に帰す。〈虚空ノ眼〉に捉えられしモノは、何1つそに存在することは許されない。
そこは彼の領域――虚無なのだから。
彼こそが虚空の神。虚無を従えし絶対者なり。
だが……彼は未だに半端者。完全なる超越種には至っていない。
本来なら喰らった力は完全に彼へと還元される、その筈であった。だが不完全故に、取り込んだ瘴気が彼の身体を徐々に徐々に蝕んでいく。
彼は無感動に己の手を見る――黒く染まったその手を。
斬っ!!
何の迷いもなく、眉1つ動かさずにガッシュは己が腕を切り落とした。ソレは不要なものだ。彼の意思に応じて新たな腕が形成される。
それは魔法ですらない、純然たる“力”の為せる業。
幾度も!幾度も!幾度も!幾度も!
ガッシュは汚染獣を喰らい自分の腕を切り落とす。
汚染獣は彼を喰らうこと叶わず、その数を急激に減らしつつある。戦況は圧倒的にガッシュが有利に見えた……が、彼の口から一筋の血が流れ落ちる。黒い血だ。
例え腕を切り落とそうと完全に瘴気を防ぐことは出来はしない。超越種といえど彼には肉体があるのだから。流れる血が瘴気を運び、臓器がそれに侵されたのだ。
徐々に動かなくなる身体にガッシュは舌打ちした。彼の眼前には未だに数えきれぬほどの汚染獣が立ちはだかっているというのに。
だがここで立ち止まるなどあり得ない。
「上等だ」
ペッと黒い血を吐き出したガッシュは獰猛に笑う。
彼は幾度となく失ってきた。家族を!友を!戦友を!
彼が守りたかったものは、何時も手の平から零れ落ちる。まるでそれが宿命だと言わんばかりに!
認めるものか、奪い取るだけの運命など!
許すものか、家族を傷つける存在など!
徐々に冷たくなる身体とは裏腹に、ガッシュの魂は熱く燃え上がる。
蒼き眼が一際強い輝きを放ち、その目が遂に……漆黒の汚染獣を捉えた。




