狂気からの帰還
その日、竜王宮に激震が走った。
それは……希望と絶望。
彼らは大いなる希望と果て無き絶望を知る。
1つの報せ、それが全ての事の始まり。
「セルギオス様!リーンハルトから緊急通信です!」
その報せにセルギオスは書類に走らせていた手を止めた。緊急と聞いて彼が脳裏に思い浮かべるのは……知恵ある汚染獣。
「直ぐに繋げ!」
只ならぬ剣幕で命じるセルギオスにアンドリューは躊躇いを見せる。
「何じゃ?何かあるのか?」
常とは違うアンドリューの反応にセルギオスは訝し気に問うた。
「それが……相手はガッシュ王本人ではなく、宰相のシェラーソン殿です」
竜人族は強き者を尊敬する傾向がある。
ガッシュはヴィルヘルムに認められた上、竜種が束になっても叶わぬ強さを誇っている。竜人族は総じてガッシュを尊敬していると言っても過言ではない。
その飾らない人柄も彼らにとっては高ポイントだ。
皮肉なことにガッシュの強さを正確に理解しているのは、リーンハルトでもベリアノスでもなくドラグニルであるといえよう。
だが、竜人族が認めているのはガッシュ個人であってリーンハルトではない。
ガッシュから直接連絡があったのであれば、即座にセルギオスに繋げるのだが……相手は宰相。果たしてセルギオスが相手をするに相応しいのか。こちらも宰相を出すべきではないか、という思いが拭いきれないのだ。
「構わぬ。繋げ」
ガッシュ本人ではないと聞いてセルギオスは事態の深刻さを理解した。ガッシュがいない……それ即ち、すでに戦いが始まっているということ。
【竜公閣下、急な連絡をお許しください】
常に毅然としたマイモン・シェラーソンの声に濃い疲労が感じられる。
宰相という立場上、彼は自分の感情をコントロールすることに長けている。感情が時には“弱み”となるからだ。
セルギオスはそんなマイモンの様子に、非常事態の発生を確信した。
「構わぬ。何ぞあったか?ガッシュはどうした」
【汚染獣の大部隊がカサンドラに向けて進行しています。その数、推定50万以上】
想定以上の規模に僅かに驚きを表すが、セルギオスは至って冷静である。それは想定の範囲内であったためだ。ただ……1箇所、疑問に思う点がある。
「カサンドラに?リーンハルトではないのか?」
【今のところ一体たりともこちらには向かって来ておりません。陛下の予想では知恵ある汚染獣が率いているのではないかと】
セルギオスの背後で息を飲む音が聞こえ、彼自身も〈大災厄〉の再来に……愚かな人種の行いに、怒りでこぶしを握り締めた。
よりにもよって、我らが神が正気ではないこの時に!
深呼吸をし、気を落ち着ける彼の心に疑念が生まれる。
「……何故、汚染獣共はカサンドラへ向かっておるのだ。その理由を知っておるのか?」
【数か月前にカサンドラに神獣様が到来されたのです。恐らくは……】
「何じゃと!!!今何と申した!?」
(……まさか!まさか!!)
セルギオスは逸る心を抑え尋ねる。
【し、神獣様が到来されたと、そう伺っております】
セルギオスは思わず両手で顔を覆った。
「その神獣様の御姿は?御名を聞いておるか……?」
どこか縋るような口調のセルギオスにマイモンが息を飲む音がかすかに聞こえる。
【小さな子狐のお姿で、御名を……】
マイモンはその名を口にする事をためらった。彼は神獣に名を呼ぶ栄誉を賜ってはいないのだから。だが……叱責を覚悟で彼はその名を口にした。
【ルーファスセレミィ様と】
安堵の余り身体の力が抜けたセルギオスが椅子ごと倒れそうになるのを、アンドリューが慌てて支える。
「おぉ……生きて、生きておられた。感謝するぞマイモン・シェラーソン」
セルギオスの震える声はまるで泣いているかのようだ……いや、彼は実際、滂沱の涙と鼻水を流している最中である。その横ではアンドリューの鼻をかむ豪快な音が聞こえる。
【……あの、続けてもよろしいでしょうか?】
「すまぬ。取り乱した様じゃ。続けよ」
気まずげなマイモンの声に、ハンカチで顔を拭ったセルギオスは泰然とした態度で続きを促す……今更ではあるが。
【はい。状況は芳しくありません。すでにカサンドラ近郊まで汚染獣が迫っていると思われます。ガッシュ陛下が神獣様救出のために単身カサンドラへ出撃されました】
「何じゃと!!何故そこまで気付かなかった!!」
まだ猶予があると思っていたセルギオスは拳を机に叩き付けた。
(……何ということじゃ。このままではルーファスセレミィ様が失われてしまう!!)
絶望がセルギオスの心を侵食する。
一気に蒼褪めた彼に気付くことなくマイモンは続ける。
【飛竜部隊が常に荒野を巡回していましたが、寸前まで異常は見当たりませんでした。恐らくは……海の中を隠れて進んだのではないのかと思われます】
マイモンの推測ではカサンドラに近づくまでは海を進み、それからカサンドラを包囲するように展開しているのではないかというものだ。
ナギが発見したのはこの包囲するために行動していた汚染獣だろう。そして、この推測が正しければ……一斉攻撃は近い。
退出の挨拶もなしにセルギオスは即座に身を翻した。彼が向かうは王城内にある原生林。竜王ヴィルヘルムの寝床である。
疾風の如く走り去ったセルギオスを見送りながら、アンドリューはマイモンに話しかける。
「マイモン殿、連絡感謝致します。そうそう、我が国と貴国を繋ぐ転移陣付近にいる者を全員下げさせてください。できれば王城からも避難して頂けると助かります」
【……は?え!?】
急な要求に動揺するマイモンを更なる悲劇が襲う。
「竜王様が動かれます。お気を付けください、我が君は竜玉が行方知れずになってから怒り狂っておいでですから。ルーファスセレミィ様の御身に何かあれば……世界は終焉を迎えるでしょう」
通信を終えたマイモンは酷く青ざめた顔でバハルスを振り返った。彼の顔色もマイモンと同様に青い。
「……マイモン様」
「狼狽えても仕方あるまい。城内の者に退避命令を出せ」
かつて大国クマラを一瞬で滅ぼした竜王だ。その怒りとは果たしてどれほどのものなのか……。
マイモンは身震いする。今や世界の命運は我が王に託されたと言っても過言ではないのだから。
彼は祈らずにはいられない。どうか竜王のもとに竜玉が戻ることを。
◇◇◇◇◇◇
轟々と唸る風がまるで質量を持つかの如く襲い掛かり、肌を刺すような激しく強い雨は、絶対零度の冷たき氷へと姿を変える。
雷が意思ある生物のように絡みつき、侵入者の命を奪い取らんと牙を剥く。
視界もきかぬその中を無謀にも進む影があった。竜公セルギオスだ。
当初は翼を広げて飛んでいた彼も、今では地を這いつくばる虫の如く進んでいる。
豪奢な服も綺麗に整えられた髪も今では見る影もない。泥が身体を汚し、全身の至る所からは血がにじんでいた。鋼の剣でさえも彼の身体を傷つけることは叶わぬというのに。
彼が一歩を踏み出せば、大木が彼の身体を吹き飛ばさんと飛んでくる。セルギオスは片腕を地面に突き刺し、その衝撃に備える。
(ここで後退するわけにはいかぬのだ!)
彼にぶつかった大木が破片を撒き散らしながら爆散し、一瞬遮られた彼の視界に赤い色が映る。
――彼の崇める神の色彩だ。
セルギオスが期待を込めて上空に目を向ければ、そこにあるのは……火を纏った岩。
最初は小さかったその岩は徐々に体積を増し、今では10メートルを超す程に成長している。いや、実際には成長などしていない。ただ急速に接近しているのだ。
それは宇宙から飛来せし隕石。
咄嗟に〈竜化〉した彼は翼で自身を包み込んだ。
ドガアアアアアアアアアン!!
激しい音とは裏腹に大した衝撃が来ないことを疑問に思い、セルギオスは顔を上げた。そこには彼より更に巨大な竜たちが巨岩を受け止めていた。竜王種……竜種の進化個体だ。
アンドリューから知らせを受けた3体の竜王種が駆けつけたのだ
『セル坊!行くぞ、遅れるな!!』
白い竜――シュヴァリエ――がセルギオスを庇うように前へと出る。そして、セルギオスを挟むように青色の竜と桃色の竜――アデルバートとローゼマリー――が並び立った。
翼を折り畳み風の抵抗を小さくしつつ、地を嘗めるように進んで行く彼らの姿はまるで蜥蜴。
そして遂に彼らは荒れ狂う嵐を抜け出した。
彼らの前に広がるのは無音の世界。
それは不思議な空間。
樹が岩がふよふよと辺りを漂い、そこに上下は無く時折ぶつかっては方向を変え、またぶつかっては変える。気ままに漂っているその姿はまるでダンスを踊っているかのようだ。
先程の嵐より遥かに優しそうな空間を前に竜たちの表情は険しい。
『やべぇな。無重力だ。空気もねぇ』
そう言って、アデルバートはセルギオスを見た。竜種である自分たちは空気が無くとも生きていけるが、竜人族であるセルギオスはこの空間に入れば死ぬだろう。
それに……彼の目は空間の歪みを捉える。
所々に散在する歪みに触れた樹や岩が消滅しているのだ。
それは超重力。余りに加えられる力が大きすぎて一瞬で潰されているのだ。アレに捉えられたら自分達とて消滅は免れまい。
だが、アデルバートの警告はセルギオスの耳に届きはしない。彼の目が映し出すのはただ1人。
無重力空間にありながら、動くことなく鎮座する巨大な岩に腰かけた人物へと向けられていたのだから。
――神竜。
其は竜の神。
全ての竜の祖にして絶対なる存在。
立てた片膝に置かれた腕に顔を伏し、その顔を覗うことは叶わない。
漆黒と深紅の独特な色合いの髪がまるで生き物の如くうねっている。その髪より突き出すは1対の角。黄金色に輝く角は白き雷を纏い、辺りをその色へと染め上げる。
其れは神雷。裁きの光。
その雷に打たれし者は一切の存在を許されぬ。そう、魂さえも。
彼こそ調停者、世界の調和を維持する者なり
彼こそ断罪者、世界に裁きを与えし者なり
彼こそ“終焉ノ神”
世界に終焉を齎す者なり
「ヴィルヘルム様!!」
〈竜化〉を解いたセルギオスは竜王種たちの間をすり抜け、躊躇うことなく無重力空間に突入した。
本能だろうか。彼の周囲には風の膜が張り巡らされ、肺に空気を送り続けている。
超重力の塊が幾度となく彼の身体を掠め、その度に腕が翼が削られる。
それでもセルギオスは前へ前へと進み続ける。それしか彼には出来ぬのだから。
ただ幸運にも雷は1度たりとも彼を貫くことは無かった。それは最後に残ったヴィルヘルムの理性なのかもしれない。
ヴィルヘルムの前まで辿り着いたセルギオスはその場に跪く。否、倒れ込んだと言った方が正しいだろう。彼の足は既に残ってはいないのだから。
〈飛翔〉が彼をここまで運んだのだ。
「ゴホッ!我が君、ル、ルーファスセレミィ様が、発見、されまし、た」
血の塊を吐きながらセルギオスは必死に言葉を紡ぐ。
僅かにヴィルヘルムの指先が動き、次いで伏せられていた顔があがる。その金の目は――未だに狂気に染まっていた。
ガアアアアアアアアアアアアアアア!!!
咆哮が轟き、雷が一際大きく弾けた。だがセルギオスはそれに臆することなく叫ぶ。彼にとっての本当の恐怖とは死ではない。“神”の役に立てぬ事なのだから。
「ルーファスセレミィ様に危険が迫っております!!正気へ、正気へお戻りください!!」
あらん限りの力を持って叫んだ彼の想いは――届かない。
彼では駄目なのだ。ヴィルヘルムの心を揺り動かす存在は……この世でただ1人だけ。
その時微かに、ほんの微かに温かい魔力がヴィルヘルムの髪を揺らした。
“ヴィ……、ヴィ……ルム。お願……正気に……て”
変化は劇的であった。
青空だ。この数か月顔を出すことが許されなかった太陽がその姿を見せる。
そして……風。世界の一切合切を拒絶していた風が、優しくセルギオスの頬を撫でた。
セルギオスは焦点の合わぬ目をヴィルヘルムへと向ける。だが……彼の目がヴィルヘルムを映すことは無かった。
彼の傷は深すぎたのだ。それでもセルギオスは笑った。それは心からの笑みだ。
(……嗚呼、満足じゃ)
セルギオスの目がゆっくりと閉ざされる。
彼が最期に感じたのは甘露。甘美な液体が喉を潤す。
それは今まで味わった何よりも甘く美味であった。僅かに顔をほころばした彼の意識は……沈む。
「状況を説明せよ」
ヴィルヘルムは手から流れる自身の血を舐めとると、控える眷属に問う。
『はっ!ルーファスセレミィ様はカサンドラに御座します。彼の方を狙い50万を超える汚染獣が集結している模様です。最早、一刻の猶予もありません!』
「汚染獣がァ!我の竜玉に手を出すというのか!!」
言葉と同時にヴィルヘルムの身体から怒気が吹き上がる。それは魔力ではなく感情の揺らぎ。だが……その怒りの波動は100メートルを超えるシュヴァリエたちを吹き飛ばした。
それを気にすることなく、翼を広げたヴィルヘルムは真っ直ぐ竜王宮へと向かう。
その内にマグマの如く猛り狂う怒りを孕んで。
この日、遂に竜王が動きだす――。




