ナスタージアの勇者たち・下
薄暗い廊下を4つの影が走る。
先程から絶え間なくサイレンが鳴り響き、明滅する明かりが不気味に周囲を照らし出している。だがそれ以外には何もない。人影も、話し声すらも聞こえはしない。けたたましく鳴っているサイレンが幻聴ではないかと思える程に。
先頭を走っていた仮面の足が止まる。
「もうすぐ出口だ。お前たちは合図するまでここで待て」
そう言い残して仮面は時間がないとばかりに速度をあげた。天音と翼、そして和真は敵に見つかりにくいようにと廊下の隅に座り込んだ。
彼らに言葉はない。
牢から抜け出して敵と遭遇こそしてないものの、日本人と思わしき肉片が飾られている部屋を通り抜けて来たのだから。ようやく彼らは実感したのだ――これが自分達の未来の姿なのだと。
神の存在を信じてもいなかった彼らは、この時初めて神に祈った。どうか無事に逃げられますように、と。
この研究所の出口は防衛と逃亡防止の観点から1つしか存在しない。つまり、この先に敵が待ち構えている非常に可能性が高いと言える。いや、確実に待ち構えているといった方が正しいだろう。
それにも拘わらず、仮面は無防備に敵の前に姿を晒した。当然、敵はこの隙を逃すはずなく……
「仮面様、首尾はいかがですか?」
眼鏡を掛けた細目の男が進み出て仮面の前に跪く。
「ククッ、悪くない反応だ。私に対して非常に好意的だな。やはり保存部屋を経由して来たのが効果的だった。それで……今回はどんな実験体を用意した?」
「こちらでございます」
「ふん、中々だな。殺してもいいのか?」
男は仮面の誉め言葉に満面の笑みを浮かべ首肯した。
「ええ構いません。思ったより知能が低く使えなかったのですよ。それで……その、出来れば戦闘データを取りたいのですが……」
男は媚びるように笑い、仮面の顔色を窺う……顔は仮面で見えないが。
「構わない。戦闘音が聞こえた方が信憑性も増すだろう」
「おお!ありがとうございます!ああそうそう、この3名も殺してしまって構いません。逃げ出そうとしたのですよ。すぐに処分しよう思いましたが、研究員がこの場に1人もいないのは不自然かと思いまして取っておいたのです」
男は背後に佇んでいる白衣を着た男女を指し示す。
彼らは男の言葉に何の反応もせず、ただぼんやりと宙を見つめていた。口からは涎がダラダラと流れ、明らかに正気とは言いがたい。
「分かった。お前は下がっていろ」
仮面の言葉に男は恭しく一礼しその場を離れた。
仮面は嗤う。邪悪に嗤う。
(……もうすぐだ。もうすぐ舞台が整う)
いよいよ始まるのだ。世界の命運を賭けた壮大な物語が。
天音は震える手で耳を押さえた。
彼女は怯えていた。破壊音が轟く度に揺れる建物に、そして何よりも時折聞こえる空を切り裂かんばかりの獣の咆哮に。
「……大丈夫?」
翼の心配そうな声に、天音はハッとして彼女を見る。
目が見えない翼の恐怖は、きっと天音の比ではない。それなのに……
バチィン!
両手で頬を叩き気合いを入れた天音は、隣で吃驚している翼の顔が可笑しくて、ぎこちないながらも笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。ありがとう」
思ったよりもしっかりとした声が出たことに天音は安堵する。
翼もその声に安心したのか、表情を緩ませると天音に向かって手を伸ばす。お互いにしっかりと手を握りあい、天音は早々に気を失った和真に目を向けた。ある意味彼が一番幸せかもしれない。
それからさほど間を置かずして音が止み、シンと静まり返った廊下に和真の寝息だけが響いている。天音の目は自然と仮面が消えた廊下の先を向く。次にここへ現れるのは仮面か、それとも……
「待たせた。次が来る前に脱出するぞ」
背後の影からいきなり現れた仮面に、2人は抱き合って悲鳴を上げた。
最初に会った時も影から現れたことを思い出し、天音はすぐに平静を取り戻した。彼女の見つめる先には、マントに綻びどころか汚れ1つ見当たらない仮面の姿があった。本当に今まで戦っていたのか疑問なほどに身綺麗である。
本来、疑い深いはずの天音は無邪気に喜ぶ――仮面が無事であったことに。その目に疑念は欠片も浮いてはいない。
仮面は即座に立ち上がった天音と翼を見やり、次いで床に転がっている和真に目を向けると深々とため息を吐いた。
ツカツカと無言で近寄り、そのまま容赦なく頬を張る。悲鳴を上げ、パニックになり騒ぎたてる和真に「黙れ」と低く押し殺した声で吐き捨てると、ようやく状況を理解したのかバツの悪い顔で黙り込んだ。
「最初に言っておく。私が戦った相手は実験体だ。覚悟してついて来い」
仮面の言葉に3人は身体を強ばらせながらも頷く。それは自分達と同じ日本人だということ。自分達に訪れたかもしれない未来。
心臓が煩く胸を叩く中、彼らが廊下を曲がると、そこには……
一面の血の海に歪な化け物が沈んでいた。
赤黒い巨大な身体に鋭い牙と爪。だが何より目を引くのが、その頭部より生えた上半身のみの長い黒髪の少女。
もとは普通の少女であったはずのソレは、今は見る影もない。落ち窪んだ眼窩に耳まで裂けた口。手は身体と同様に化け物へと繋がっている。
少女の胸には大きな穴が穿たれており、未だ止まることのない血が、彼女の白い肌を赤く染め上げていた。
――彼女こそ汚染獣と異世界人の初の融合体。
汚染獣は知恵ある汚染獣に従い、知恵ある汚染獣は支配者に従っている。
ここまでは何の問題もない。問題なのはこの汚染獣たちが人種に従わないことだ。例え支配者の命令であったとしても例外ではない。
汚染獣は知能の低さから、人種の言う事が理解できぬために。
知恵ある汚染獣は表面上は従っているかに見えるのだが……自分の考えの方が支配者の望みに沿っていると感じれば、あっさりと裏切るのだ。知恵ある汚染獣が人種のことを餌としか見ていないことも大きな要因の1つだ。
そこで考え出されたのが、異世界人と汚染獣の融合。
司令塔を異世界人にすれば、人種を同族と見なして命令を聞くようになるのではないのか、という実験である。
天音は叫びだしそうになる口を手で押さえ、息を飲みこむ。
彼女が見つめるその先で、化け物がゆっくりとその身を起こしたのだ。長い黒髪が顔を覆いつくし、その表情を窺い知ることは叶わない。
ぐりん
髪の隙間から化け物の目が天音を捉えた。
赤く充血しているその目は恐怖に歪んでいる様にも、憎悪を孕んでいる様にも見える。その手が天音へと伸ばされ……。
「えっ……?」
ふと気付けば、天音の目の前に化け物の姿はなく、赤と黒の血だまりだけが広がっていた。
(……化け物は?)
戸惑う天音の耳にびちゃりびちゃり、と音がする。見たくない……でも、見なくてはならない。強迫観念に駆り立てられ、天音は振り向く。
長い黒髪の少女が赤黒い化け物を喰らっている。否、ソレは少女の身体の一部……少女は自分の身体を喰っているのだ!裂けた口が大きく開かれ、ソレを咀嚼する。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ
見る間に周りの肉を喰らいつくし、少女はそこより這い出る。
上半身しかなかった少女は、今では完全体となっている。美しい肢体だ。ほど良く膨らんだ胸に引き締まった腰、そして張りのある臀部から伸びた足は白く艶めかしい。
だが……天音が感じるのは恐怖だけ。どんなに身体が美しかろうと……いや、美しければ美しい程、裂けた口から滴る血と腐臭がより恐怖を煽る。
「ひっ!い、嫌ぁ。来ないでぇ」
腰が抜け尻餅をついた天音に少女はニタリと嗤う。天音の前で立ち止まった少女はしゃがみ込み、彼女の目を覗きこんだ。
「ふふふっ。何を怖がっているの?」
少女の手が伸ばされ、優しく天音の頬を撫でる。
何故か天音の身体はピクリとも動かず、ただ為されるがままに少女を見つめていた。
「さあ……思い出して。私はあなた、あなたは私……」
化け物の顔が歪み自分の貌へと変わる。
天音は犯され、切り刻まれ、化け物へと成り果てる。
痛みと、恐怖と、絶望と……最期まで残ったのは身を焼き尽くさんばかりの憎悪。
何故……何故何故何故何故!私がこんな目に遭わねばならない!
許さない。許すものか!私をこんな目に遭わせた奴らを!
憎い憎い憎い憎いィ!私を殺したこの世界が!
天音は過去を思い出す。
母を裏切った父を。
自分を捨てた母を。
そして……母を騙した詐欺師たちを。
唐突に天音は理解した。そう、そうだったのだ。何故今までこんな簡単な事に気付かなかったのだろうか。
裏切られる前に裏切ればいい。
捨てられる前に捨てればいい。
騙される前に騙せばいい。
だって……騙される方が悪いのだから。
「「「あはっ!あはははっ!あははははははははははははははは!」」」
狂ったように笑う3人を仮面は愉悦に染まった目で見つめる。
「どうやら上手く孵化したようですね。流石は仮面様」
いつの間にか側まで来ていた眼鏡の男が、感心したように異世界人を見つめていた。自分たちを召喚した男がいるにも拘らず、天音たちはそれに気付くことなく嗤い続ける。
仮面に出会ったその時に、既に彼らの運命は決まっていたのだ。
〈邪怨ノ蟲〉これこそが仮面の権能。
まず、卵を魂へ植え付ける。やがて卵が孵ると邪悪な心を持ち、周囲に災厄を振りまくようになるのだ。負の感情を養分に成長した蟲は新たな卵を産み、それが孵れば次なる宿主に寄生する。こうして際限なく増え続ける恐るべき蟲。
だが宿主にはその自覚はなく、彼らは自分の意思で考え行動していると思い込んでいる。それが植え付けられた邪心だと知らずに。
更に、邪怨ノ蟲を通して宿主の記憶の改ざんすることも、新たな負の感情を植え付けることも可能だ。宿主は本人の気付かぬままに仮面の意図した通りに行動するようになる。
今のところ蟲を増やす予定はないので、喰らった負の感情はそのままエネルギーとして仮面に還元されている。
全ては竜王ヴィルヘルムの目を逃れるため。準備が整うまで見つかる訳にはいかないのだから。
副次的な効果として、異世界人が汚染獣へ変わるのを防ぐことが出来る。負の感情を蟲が喰らうためだ。
仮面は使えると判断した異世界人に蟲を寄生させ、そうでない者は実験に消費するか知恵ある汚染獣へと変え、戦力を整えてきたのだ。
「ベリアノスに勇者召喚陣を与える準備は進んでいるのか?」
仮面の言葉に男は初めて不服気な表情を見せた。長年、心血を注いで解明してきた勇者召喚陣を技術力が遅れているベリアノスに渡すというのだから。
男から見ればベリアノスなど時代遅れのお山の大将に過ぎない。苦言を言葉に乗せる直前に男の顔から表情が消えた。だが、次の瞬間には何事も無かったかのように、にこやかに仮面に話しかけた。
「ええ、ええ。勿論です。全ては教皇様の御心のままに」
そう言って恭しく頭を下げる。先程までの不満は既に欠片も残ってはいない。
これが……〈邪怨ノ蟲〉
仮面は愚かな道化を見つめ、冷ややかに嗤った。
計画は2段階目に移った。
後はベリアノスがこちらの戦力を増産し続けてくれるはずだ。
知恵ある汚染獣が大量に産まれ、竜王ヴィルヘルムの目はベリアノスへと向けられる。西部は戦禍に呑まれ、憎悪と恐怖が世界を彩るだろう。
これから起こる惨劇を思い、仮面はうっとりと目を細めた。
(……嗚呼、楽しみだ)




