狂気の淵を覗く者・下
戦闘の爪痕が色濃く残るその草原に、首を切り離された男女の遺体が無造作に転がっている。
その遺体の近くで蹲るのは一匹の黒い鬼。腕の中にピクリとも動かない白銀色の髪をした少女を大事そうに抱え、俯いたその顔は影となり見ることが叶わない。
風に揺れる白銀色の髪を見て、ガウディは呆然と呟く。
「まさか……まさか……我々は神獣様を失ったのか……?」
(なぜ気付かなかったのか。大地を癒す力は神獣様の〈神聖魔法〉しかないというのに!!)
赤鬼が作り出した惨状にさえ眉1つ動かさなかったガウディの身体がよろめき、咄嗟に支えるベティとフューズも今にも倒れそうな顔色をしている。
「うそです~!そんな、ルーファちゃんが……」
「何ということを……」
ミーナが駄々っ子の様に首を横に振り、ゼクロスは呆然と膝をついた。
誰もが時間が止まったかのように動きを止めた中で、我が子を失った父親の悲痛な叫びが現実を呼び戻す。
「レイナ!レイナ!!そんな……嘘だ……レイナぁぁ!!」
よろよろとレイナに向かって走り出したアイゼンの襟首を掴み、赤鬼は後ろに投げつけた。
「ゼノガ!アイゼンを抑えておけ!!」
三日月刀に手をやり、警戒するように腰を落とした赤鬼の目……は真っ直ぐに黒鬼を見つめていた。
赤鬼の突然の行動に全員の目が一斉に黒鬼へと向かう。
「……さない。許さない。殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス……………………」
黒鬼の身体から狂気と殺意を孕んだ魔力が吹き上がり、びりびりと空気を震わす。
顔を上げた彼の目は真っ赤に染まり、こぼれ落ちた血の涙がルーファの頬を汚した。2人を守るかのように分身が続々と湧きだし、殺意に塗れた目を赤鬼たちに向けている。
赤鬼はその様子を静かに見つめていた。
彼はずっと願っていた、この日が来ないことを。だがそれももう叶わぬ願い。
「相変わらずお前は酷い奴だぜ。親友に殺させる気かよ。……もう戻って来ないのかよ。戻って来いよアイザック!!」
彼は自分の言葉に眉1つ動かさず淡々と大鎌を構える黒鬼の姿に苦笑する。
「ハハっ……我ながら女々しいぜ」
「バーンさん!!嘘ですよね!?だって2人は友達じゃないですか~!!嫌ですよ……みんながいなくなっちゃうのは嫌っ!!」
泣きながら叫ぶミーナの声を聞き、血塗られた鬼のために泣いてくれる彼女を愛おしく思う。
「ゼクロス、ミーナを頼んだぞ」
「お断りします。人に頼むなどあなたらしくない!約束してください……帰ってくると」
いい仲間だ……そう彼は思う。4人で過ごした日々は彼にとって掛け替えのない宝だ。
だが、黒鬼を……親友を独りで逝かせることはできない。遠からず後を追うことになるだろう。最後のゴミを掃除して。
「ありがとう。お前たちに会えて良かった」
バーンは仮面を外し仲間に微笑む、その手から落ちた仮面が地面を転がっていく。
「誰も手を出すな!オレが殺す。……あいつを殺していいのはオレだけだ!!」
三日月刀を抜き放ち、バーンは走り出す。
親友をその手で殺すために。
「くそっ!何体いるんだよ!!……グァっ!!」
ドゥランは悪態をつきながら大鎌を捌くが、同時に放たれた蹴りに吹き飛んだ。
マイクとトビアスがドゥランをカバーすべく動き、ビッドが大声をあげながら暴れまわっている。
「平気か!?ドゥラン!!」
ゼノガは目の前の黒鬼から目を離すことなく叫ぶ。
「おぅ!まだやれるぜ!!」
ドゥランだけでなく、マッシムとポトフも傷を負いチェスターとズールノーンが治癒石を使用する時間を稼ごうとしているが上手くいっているとは言い難い。
戦局は厳しいといってもいいだろう。黒鬼が強すぎたのだ。一体一体の技量は勿論のこと、分身であっても中級以下の魔法は全て無効化されている。乱戦の様相を呈している今、上級魔法は使うことができず……いや、例え使用できてもどれほどのダメージが通るか疑問ではあるが。
「ミーナ、気付いてますか?」
「アイザックさん全然本気を出してませんね~」
規模を縮小した風の上級魔法を打ち込みながら、ミーナは素早く周りを確認する。彼らの周りには分身の姿はない。ガウディ、ベティ、アイゼン、ゼクロス、そしてミーナを守るように近衛騎士が周りに展開しているのだ。
ミーナがここにいるのは彼女が完全な後衛のためである。この乱戦の中、味方に被害なく上級魔法を打ちまくっている彼女に文句を言う者はまずいない。
「これで本気ではないのか!?」
ガウディの懐刀であるフューズが先程から砲撃魔法を発動し、弾丸を乱れ撃ちにしているが、影へと逃げられ逆に攻撃をくらっている有様である。
「アイザックが本気であれば、今頃ここにいる全ての人間の首が落ちているでしょう」
彼はまだ〈一撃必殺〉どころか〈気配完殺〉も使ってはいないのだ。この2つの権能を使い、影から忍び寄り攻撃したならば一発で片が付くというのに。
「もしかしたら……まだ完全に正気を失っている訳ではないのかもしれませんね」
「じゃ、じゃあ!!」
「今は祈るしかありません」
ゼクロスとミーナは同時にバーンがいる方向を見る。この悲しい運命が断ち切れらることを祈って。
「ようやく会えたな。少し前に別れたはずなんだが……もう何年も会ってない気分だぜ」
ルーファを抱いたままアイザックはゆっくりと立ち上がる。それと同時に全ての分身が忽然と消え、アイザックは短剣を抜いた。短剣こそが彼本来のメイン武器。
この状況でもルーファを放そうとしないアイザックに、バーンは僅かに苦笑をもらす。情の深い彼らしい行為だと。
「さよならだ。アイザック……」
地を蹴りアイザックに肉薄するバーンの目から涙が零れ、頬を伝う。
彼の刀が吸い込まれるようにアイザックの首へと向かい……
パリィィィィィィィィン
結界が……弾く。
「戻ってきて……アイザック……」
ルーファは震えていた。
絶え間なく襲う痛みと恐怖、悲しみと絶望がその心を支配する。
(……こわいこわいこわいこわい。いたい……いたいよぉ)
子狐は逃げる。奥深くへ。全てを拒むように丸くなり、尻尾をくるくると身体に巻き付けると、ぎゅっと目を閉じた。少し痛みが遠のきほっと息を吐く。しばらくそうしていると強い眠気が襲い、ルーファはそれに抗うことなく身を委ねる。
(……このまま寝てしまおう。ヴィーが起こしに来てくれるその時まで)
眠るルーファの耳に微かに声が届く。酷く悲しい声で誰かが哭いている。その声に名を呼ばれた気がして、意識がゆらゆらと浮上していく。
(嫌!嫌!嫌!嫌!起きたくない!!!)
再び意識が沈み、やがて声が途絶えた。
(…………)
完全なる静寂。
望んでいた静かなる空間がどこか空虚に感じられる。
声が聞こえない……それが無性に気になって、居ても立っても居られない気分になる。あんなに悲しい声で呼んでいたのに……。
ルーファはそっと目を開けた。
赤い……赤い空間が広がっている。
その中で一際目を引くのは白い山。否、それは山ではない夥しい数の死体が積み上げられ、幾つもの山となって周囲を囲んでいるのだ。その山からは絶え間なくドロドロとした赤い液体が流れ落ち、沼地のように辺りに広がっている。
赤い世界の中心には1人の男が佇んでいた。
刻一刻、刻一刻と嵩を増す沼地に腰まで浸かりながら、その男は身じろぎ1つすることなく俯いている。
『トウゾック!!』
ルーファはアイザックに翔け寄り、気を引くように周囲をくるくると飛ぶ。
『逃げて!逃げて!!それに飲み込まれてはダメ!!』
何の反応も示さないアイザックは焦点の合わぬ目で、ただ茫洋と赤い沼地を見つめている。
ルーファは先程の慟哭の声の主を知る。
自分の痛みに夢中で見捨ててしまった。あんなにも必死にルーファを呼んでいたのに!
悲しいのは自分だけじゃない!
痛いのは自分だけじゃない!
仲間も戦っていたというのに……1人で諦めて、1人で逃げてしまった。
ルーファは後悔する。だがその間にも沼は嵩を増し、今ではアイザックの胸元まで迫ってきている。
『お願い目を覚まして!!』
ルーファがアイザックの顔を舐めた瞬間、世界が反転した。
ゆっくりとゆっくりとルーファは落ちる。
目の前には大きなシャボン玉がたくさん浮かんでいる。
その1つがルーファに近づくと、ツルンとその中に飲み込まれた。
『バーン君この子はアイザック。仲良くしてあげてね』
赤い髪をした綺麗な男の子がオレに手を差し出してくる。
『よろしく』
手を握り初めてできた友達にオレは笑いかける。
シャボン玉から吐き出されたルーファはそのまま次のシャボン玉へつぶかる。
『オレはSランク冒険者になる!!お前は?』
『バーカ。お前みたいな脳みそが足りない奴がなれるかよ』
憮然とした顔のバーンがオレを睨みつけてくる。全く怖くないが。だが揶揄うのもこの位にしておこう。へそを曲げられたら厄介だ。
『お前は直ぐ死にそうだからな。オレが協力してやるよ』
途端に嬉しそうに笑うバーン。本当に単純な奴だ。
次々に場面が切り替わる。
妹が生まれ、その可愛さにメロメロになった。
冒険者としての旅立ち。
バーンと共に駆け抜けた心躍る冒険の日々。
そして……忌まわしい研究所。
妹を失った日、オレの世界は灰色に染まった。
灰色の色彩の中、鮮血とバーンだけが鮮やかな赤を纏っている。
怒りと憎悪が胸に渦巻き、血の匂いと色だけがオレを正気付かせる。
ミーナと言う女がパーティに加わった。目に見えてバーンが変わっていくのが分かる。
笑うことが増え、その目は熱を孕んで女を追っている。
オレとは異なる道を見つけたバーンが羨ましくもあり、悲しくもある。それと同時に酷く安心している自分がいた。
ゼクロスという男がパーティに加わった。3人でじゃれ合う姿をよく見かける。
いいパーティだ、そう思う。
このメンバーとならバーンも上手くやっていけるだろう。別れの時が近いのかもしれない。
そして……運命と出会った。
不思議なことに彼女の目だけは最初から藤色だった。オレのことをいつもゼクロスの影からチラチラと窺っている。
いつからだろうか。
彼女の白銀色の髪が風になびく姿に気付いたのは。
彼女の上気した頬がピンクに染まり、赤い唇が言葉を紡ぐ。
彼女だけが温かな色を持ち、くるくると動き回る
いつからだろうか
彼女がオレに笑いかけ、触れるようになったのは。
彼女の目が時折心配そうにオレを見つめている。
彼女の温かさに触れ……世界が色を取り戻す。
ルーファの目に最後のシャボン玉が映り、自らそれに飛び込む。
その日、世界から……彼女が消えた。
色も音も何もかもが消え失せ、空っぽになった世界が残る。
あぁ……そうだったのか。その時ようやく理解した。世界そのものが敵だったのだと。
――オレは……世界を憎悪する。
世界に罅が入り、赤く染まっていく。
意識までもが赤く侵食され、懐かしい狂気が還ってくる。
(……悪いなバーン)
ルーファが目を開けると相変わらず赤い世界が広がっていた。
この赤は彼の涙であり、彼が流し続ける血そのもの。
ルーファが希望を与え奪ったその代償。
取り戻さなくてはならない。いや、必ず取り戻すのだ!
人化したルーファは躊躇うことなく赤い沼に飛び込んだ。
沼に呑み込まれそうになる身体を動かし、アイザックに抱きつく。既に彼の首まで飲み込んでいる沼に溺れそうになりながら、何とか顔だけを出し、放されまいと彼の首に手を回す。
そして……呼ぶ。彼の名を。
「戻ってきて……アイザック……」




