異変
ルーファたちが出発して早一月。
現在、彼らは地人族の国・バッカス火山王国に程近い場所まで来ている。三カ月で迷宮王国カサンドラまで行くと豪語していたわりに、未だ5分の1も踏破できていない有様である。
その原因は……ルーファだ。
ルーファが神域の外に出たのは初めてだと言っても過言ではなく、物珍しさもあって寄り道をしたがるのだ。常にリュックに詰め込まれているため、周りの景色すら見えないのもその理由の一つだろう。
『ルーファ、ちょっと寄り道をするぞ』
いつもであれば、ルーファがフェンに寄り道の催促をするのだが、今日は珍しく逆である。
人化の時は普通に話せるのだが、流石に高速で移動している最中は〈思念伝達〉を使っている。
『どこへ行くの?』
どことなく弾んだ声でルーファが答える。
『この辺りの湿地帯に叡智ある魔物がいんだよ。ちょっと挨拶していくわ。礼儀にうるさいジジィだからよ』
湿地帯へ向けてフェンは高度を下げた。
そこは広大な湿地帯。ぬかるんだ大地が見渡す限り広がり、植生も今までと異なり低木が地を這うように沼地を覆っている。
たまに泥を撥ねる音が聞こえ、そこに生物が存在することを教えてくれる。だが普通の蛙の様に自分の居場所を知らせるような愚行を犯す者は存在しない。ここは“原魔の森”、魔の領域なのだから。
「着いたぞ」
フェンはリュックを下し、ルーファを取り出す。すでに荷物扱いだ。ルーファは空中で伸びをして、キョロキョロと周りを見渡す。
『うわぁ~凄いんだぞ!』
初めて見る光景に目を輝かせたルーファは、フェンが止める間もなく沼地へとダイブした。当然、そのままブクブクと泡を立てながら沈んでいくルーファ。
「だー!何やってんだよ!」
フェンは慌てて沼地に手を突っ込みルーファを救出した。
『ぺっ、ぺっ!この地面おかしいんだぞ!』
泥を吐き出しながら、地面を睨みつける黒く染まった子狐。
盛大にため息を吐き出し、フェンは思う。この子狐に学習能力はないのだろうか、と。そう、今までもルーファは色々とやらかしているのだ。
少し目を離した隙に、ハチの巣を突き追い回され、喰生植物――生き物を喰らう植物――に自ら突貫し消化液まみれになる。はっきり言って種族魔法〈環境適応〉がなければ溶けていたところだ。
悟りを開いた修行僧の如き面持ちでフェンは答える。
「いいか、水を含んだ大地っていうのは柔らけぇんだよ。不用意に近づくんじゃねぇ。地面の中に潜んでる魔物もいるからよ」
『分かったんだぞ!』
元気よく返事をするルーファに一抹どころではない不安を抱きつつも、フェンは魔力を身体に通し汚れを落とす。叡智ある魔物や神獣は力の塊でもあるために、魔力を通すことによって汚れを落とすことが可能なのだ。ルーファもそれに倣うと、黒く汚れた身体があっという間に元の美しい白銀色の輝きを取り戻した。何とも便利な仕様である。
『知り合いはどこにいるの?』
「いつもはこの辺りに寝てんだがなぁ。『おいっ!魔甲皇亀っ!どこにいる!!』」
特大の思念を飛ばすフェン……が、しばらく待っても返事はない。
『ジジィィィィィィィィィィ!さっさと出てきやがれっ!!!』
しーん
『引っ越したんじゃないの?』
『あいつは200メートル近いデカさだからな、この沼地以外じゃぁ住めねぇはずなんだが……』
普段ならベヒモスの巨大な甲羅が浮島の様に沼地に盛り上がっているのだが、そんな様子もない。
『人化でもして出かけてんのか……?』
『どうするの?』
尋ねるルーファに一瞬考える素振りを見せるが、直ぐに気を取り直したフェンは笑って答える。
「いねぇんじゃ仕方ねぇよ。ってか、いねぇ方悪ぃ。後で文句言われても知らねぇよ。とっとと行こうぜ」
『あーい』
二人は元気よく空の旅を続ける。
◇◇◇◇◇◇
(おかしい)
いないのだ。
――叡智ある魔物が一体も。
フェンはベヒモスの行方を聞くため、他の叡智ある魔物を尋ねたのだ。
その結果は……誰もいない
(……何が、何が起こってんだ?)
フェンが生まれて以降、経験したことのない異常事態である。言い知れぬ焦燥が心の奥から湧きあがり、フェンを苛立たせる。生まれ故郷であるはずのこの黒き森が、見知らぬ怪物の咢の様に感じられる。不気味に木々を騒めかせる梢が、如実にフェンの心を表しているかのようだ。
『フェン……』
弱弱しい声がフェンの耳を打つ。
はっと我に返り、ルーファに目を向けると、不安気に顔を曇らせ、いつも元気にピンと立っている耳と尻尾は力なく垂れ下がっていた。
「心配すんな。大丈夫だ」
だがその声音は、内心の動揺を表すかのように硬く強張っている。自分の無様さに内心舌打ちをしつつ、フェンは続ける……信じてもいない言葉を。
「あいつらは強ぇ。そう簡単に殺られはしねぇよ」
フェンが知っている叡智ある魔物の住処はあと一か所。
(確かめねぇといけねぇ)
だが、確認するに当たり1つ問題がある。その一角獣は警戒心が強く、自分の領域を侵すものに対して容赦なく攻撃してくるのだ。フェンも以前誤って彼女の領域に踏み込み、そのまま戦闘になったことがある。非常に気性の荒い女だ。
フェンはちらりとルーファを見る。
間違っても連れていくことはできない。ルーファなぞ一瞬にして殺されてしまうだろうから。
すでにここは原魔の森の西部に位置する。魔湖から近ければルーファをそこに連れて行くのだが……。なぜなら、原魔の森の中心にありながら、その湖には魔物が存在しないからだ。
フェンも以前行ったことがある。魔湖には昔、竜王ヴィルヘルムが住んでいたのだから!
一説によれば、そのせいで魔物が近寄らないと言われている。
だが……フェンは知っている。そうではないことを。
魔湖――その面積は小国一つ分にも及ぶ巨大な湖である。知らぬ者が見れば海だと見紛うほどに。
その場所は原魔の森とは思えぬほど美しい。太陽の光をキラキラと反射し、その蒼穹の如き青はまるで宝石散をりばめたかの様である。水面を覗き込めばその透明度の高さに誰もが驚くことだろう。
だが、いくら水中を見渡しても生き物の姿を見ることは叶わない。そこに住まうのを許されたのは竜王ヴィルヘルムただ1人なのだから。
フェンは感慨深げに湖を見渡し、記念にその水を飲もうと近づく。
――去ね!!!!!!
フェンは全身の毛を逆立てる。
――去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね!!!!!!!!
去らねばならない!一刻も早くこの領域から!!
フェンの本能が警鐘を鳴らす。
ここは自分が存在していい領域ではない!
フェンは本能が命じるまま一目散に走り去った。
――何かがある、この領域には得体のしれない何かが。
フェンは昔を懐かしみつつルーファを見る。
(取り合えず、地面に埋めっか)
『やだ~やだっ!!』
「我慢しろよ。〈環境適応〉があるから死にゃぁしねえって!ここが一番安全だからなっ!」
『うおぉぉぉぉぉぉ!はなせぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!』
強硬に抵抗するルーファに、しぶしぶ埋めるのを諦めるフェン。
「いいか、絶対ぇここから動くなよ!」
フェンは埋める代わりにルーファを巨木の根元にある隙間に入れる。
『分かってるんだぞ!フェンは心配性なんだぞ』
(どの口が言うんだよ!)
フェンはその口を抓りたくなるのをグッと堪え、狼へとその身を転じると一気に魔力を解放する。濃密な魔力が周囲を満たし、色彩すらその色を暗くする。仕上げとばかりに、その鋭き爪で辺りの木々に印を刻む。
これで暫く魔物は寄ってこないであろう。満足気に頷いたフェンはルーファを振り返った。
――気絶している。
ま、まあ、これなら変な行動は取れないであろう。むしろ気絶している方が安心である。
フェンは気を引き締め、ユニコーンの領域へと向かった。
『この辺のはずだ』
フェンは周囲を警戒しながら進み、いつでも戦闘に入れるように体に魔力を漲らせる。いつもは遭遇しないように祈りながら進むのだが、今日は逆だ。
(無事でいてくれよ)
慎重に進むフェンが異変を感じたのはそれから直ぐのこと。
ピクッ
フェンの狼耳が動き、無意識のうちに鼻に皺が寄る。
グルルルルルルッ
喉の奥から低い唸り声が漏れる。
木々を抜けると、そこにはぽっかりと拓けた広場があった。フェンの目はその中央へと吸い寄せられる。
――瘴気
濃密な瘴気が溢れ、この広場を中心に草木が枯れている。いや、草木が枯れ広場になっていたのだ。
フェンは確信する。ユニコーンは……他の叡智ある魔物は皆殺されてしまったのだと。
汚染獣に!
フェンの口から怒りの咆哮がほとばしる。
だが、道中に他の魔物の気配はあった。つまり、狙われたのは叡智ある魔物のみ。
本能のままに全てを喰らう汚染獣に、そんな真似ができるだろうか?
(まさか!知恵ある汚染獣が誕生したってのか!!ならば……行われているはずだ。世界最大の禁忌、勇者召喚が!!!!)
フェンは踵を返す。
やることは決まった。知らせなくてはならない。叡智ある魔物の王に
――竜王ヴィルヘルムに!