出発
――快晴。
雲一つない澄み切った空に鳥たちが喜びの声をあげる。いつもは身を切るような凍てつく寒さに包まれたその場所に、今日はほんの少しだけ温かさが混じる。が、そんな陽気もここには届かない。
そこは原魔の森最北端。鬱蒼とした黒い木々が立ち並び、太陽の光を遮断している。微かに届く木漏れ日だけが、今日の天気を知らせてくれる。
外縁部に程近いその場所で、一匹の子狐が元気よく声をあげる。
『さあ、出発だぞ!』
言わずもがな、ルーファスセレミィである。
結局、昨日は竜王ヴィルヘルムと英雄王ガッシュの話で盛り上がり、出発が今日に伸びてしまったのだ。
『まぁ、待てよ。出発する前にオレ様のステータスを見せてやるよ。オレ様だけが知ってんのはフェアじゃねぇからな。アカシックレコードで見てみろよ』
『……また今度でいいんだぞ』
一拍の間をおいてルーファが答える。先程の声とは裏腹に、テンションの低い声である。
『……まさか、アカシックレコードが見れないんじゃぁ……』
フェンの言葉に、サッと目をそらすルーファ。
『マジかよ!?お前本当に神獣かよ!?』
『だ、だって、アカシックレコード開いたら頭がパーンってなるんだぞ!』
フェンが信じられないのも無理はない。アカシックレコードは魔法ではないのだ。利用するのに魔力も何も必要ない。強いて言うなら、スイッチを入れるだけである。あとは、探したい項目を念じるだけで、自動的に情報が出てくるのだ。
インターネットに近い代物だと言えば分かりやすいだろうか。
『一応開けんのか?』
その言葉にこっくりと頷くルーファ。
『やってみせてくんねぇか?』
流石に自分の目で見るまで信じられないフェンは、そう切り出した。
しぶしぶ引き受けたルーファは、アカシックレコードを開く。
『開錠!』
次の瞬間、数多の情報がルーファの脳内を蹂躙する!
『うぎゃおぉぉぉぉぉ!!!!!!!頭があぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!』
森の中に悲痛な声が木霊した。
『ふぃ~、死ぬかと思ったんだぞ』
ぜぇはぁ、と息を吐きだしながらルーファは恨めし気にフェンを見つめる。
『悪かったよ』
どこかきまり悪げにそっぽを向くフェン。だが、彼の尻尾と狼耳はしょんぼりと垂れ下がり、内心の思いを代弁している。
『仕方がないんだぞ。今度、美味しいものを食べさせてくれたら許してやるんだぞ!』
そう言って、ルーファは小さな鼻先をフェンのそれへとくっつけるのだった。
『しかし開けるのに何で使えねぇんだ?』
『何かいきなり頭に情報がドカーって入ってきて頭がパーンってなる感じなんだぞ。ヴィーが言うには、オレ達にはシステムの補助が受けれないから、全部自分でしなきゃならないんだって』
『う~ん、情報過多で脳の処理能力が追い付かねぇてことか?相手のステータスが分かれば戦闘が有利に運べるんだがなぁ。まぁ、使えねぇものは……』
途中で言葉を途切れさせたフェンは焦ったかのように声を大にして続ける。
『ま、まぁオレ様クラスになれば、ステータスを見れなくても全然関係ないけどよ!ルーファは何も心配しなくて大丈夫だぜ!普通の奴らはステータスなんて真実の水晶を使わねぇ限り見れねぇしよ!』
『真実の水晶って?』
興味が逸れて涙が引っ込んだルーファを見て、こっそり安堵の息を吐いたフェンは話が戻らぬようにそのまま続ける。
『知らねぇか?神樹の実の殻から作られた魔道具だぜ。神樹もアカシックレコード閲覧権を持っているからか知らねぇが、その魔道具でステータスが見れんのよ』
『へ~、流石はフェン!物知りなんだぞ!』
『まぁな!伊達にSランク冒険者やってるわけじゃねぇからよ』
自慢げに胸をそらすが、子供すら知っている常識である。
『ルーファ、一つ聞いてもいいか?』
僅か1日足らずでルーファの出来ない子振りを何となく理解したフェンは、言いにくそうに口を開く。次の質問が地雷原でないことを祈りながら。
『……種族魔法は使えんのか?』
『大丈夫だぞ!〈魔装〉以外は使えるんだぞ。ふふふん、最近〈人化〉も覚えたんだから』
『すげぇじゃねぇか!』
……フェンの言葉は嘘である。種族魔法は持っているならば、生まれ落ちた瞬間からどんな魔物でも使える魔法なのだから。肉体に直接、刻まれているが故に。
恐らくルーファは……いや、超越種は肉体に紋様が刻まれていないのだろう。世界の理を超えるとは、完全にシステムから切り離される、ということなのだ。超越種……思った以上に制約が多そうな種族である。フェンはルーファにバレないように、そっとため息を吐いた。
ルーファを背中に乗せフェンは声を掛ける。
『ルーファ、しっかり掴まっていろよ』
『分かったんだぞ』
ルーファは尻尾をシュルシュルと伸ばし、くるりとフェンの身体に巻き付ける。
『よし、出発だぜ!』
ゴウッ!
フェンの身体は勢いよく空へと舞い上がり、一気にトップスピードへと移行する。
『ぎゃおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……………………っ』
遠のく悲鳴。
急ブレーキをかけ、フェンは慌てて自分の背中を振り返るが……いない。
『ルーファ!?』
名を呼ぶも返事がなく、来た道を戻りながら風を使い周辺を隈なく調べる。
――いた。
遥か遠方より、せっせとこちらに向かっている子狐の姿を発見する。思わず安堵の息を漏らし、ルーファを見つめるフェン。
(……遅い。何だあの遅さは。本当に進んでんのか?)
迷宮王国カサンドラまで7年と言ったが、10年は掛かりそうな勢いである。自分にかかれば一瞬の距離だというのに。
『ううぅ、酷い目にあったんだぞ』
その後、フェンに迎えに来てもらったルーファは、半べそをかきながらフェンの背中へと降り立った。
『風は魔法で防いでたんだがなぁ。お前の力じゃ耐えられねぇか。多少速度を落としても同じだろうしな。どうしたもんか……』
初っ端から挫折したフェンはグルルと唸り声をあげる。
そもそも、手の平サイズの子狐に掴まっていろという方が無理なのかもしれない。
『仕方ねぇな』
どろ~ん!
次の瞬間、巨狼の姿はそこにはなく、青灰色の髪をなびかせた黄金色の鋭い目を持つ精悍な顔つきの美青年がいた。
『おお!格好いいんだぞ!』
ルーファは舐めるようにフェンを見つめる。黒い丈夫そうなズボンに黒い革ジャン。ごついブーツはいかにも冒険者らしい。そして何よりもルーファの心を擽ったのは指先のない黒いグローブだ。トゲトゲが付いているのも高得点だと言えるだろう。
そう、ルーファは中二病を患っていた。
鼻息荒く自分を見つめるルーファの熱い視線を気にすることなく、フェンは影からリュックを取り出す。闇魔法・中級〈影収納〉だ。
「狼の姿じゃぁルーファが飛ばされちまうからな、速度は落ちるがこの姿で運んでやるよ。心配すんな。この姿でも3カ月もありゃぁ着くからよ」
3か月間リュックの中で過ごすと聞いて逃げ出そうとしたルーファを捕獲して、フェンは問答無用でリュックに詰め込んだ。開かないようにきっちりと閉めることも忘れない。
『ええ~、真っ暗なんだぞ』
不満たらたらなルーファを無視し、フェンは再び空へと舞い上がる。
迷宮王国カサンドラへの旅が、ようやく幕を開けた。
◇◇◇◇◇◇
そこは竜公国ドラグニルの王城・竜王宮の一室。
一目で高級だと分かる毛足の長い絨毯が敷き詰められ、部屋の中央にはどっしりとした重厚な佇まいの机が置かれている。その机に付随している椅子は精緻な細工が施され、座れば誰もがその柔らかさに驚くだろう。
部屋を見渡せば繊細でいて美麗なる装飾品が品よく並べられ、主の品格の高さを表している。天井から見下ろすのは、水晶で作られたシャンデリア。色とりどりの宝石を身に纏うその姿は一見豪華でありながら、水晶の神秘的な輝きと合わさり清廉とした雰囲気を醸し出している。正に芸術的、としか言いようのないその部屋に1人の男が座っていた。
白皙の美貌を漆黒の髪が覆い、その艶やかな髪は下にいくにつれ深紅へと変わる。金色に輝く双眸は今は瞼の奥に隠され窺い知ることは叶わない。
――竜王ヴィルヘルム――
ここは彼だけのために作られた部屋、“王の間”である。
「見つからぬ」
閉じられていた瞼が開き、金色の目が姿を現す。その目には失望の色が強く宿っていた。
今まで調査していたアカシックレコードを閉じ、彼は椅子へ深く凭れ掛かる。
超越種であるルーファはアカシックレコードで検索できない。だが、ルーファの周りにいる者は別だ。つまり、そこにある整合性が崩れ矛盾が生じる。ヴィルヘルムはその矛盾を探っていたのだ。
だがこれは、砂漠の中で一本の針を探すようなもの。一体どれだけの人がこの世界に存在しているというのか。
例え場所をギガント王国に絞ったとしても、それでも数百万もの人々が暮らしているのだから。
ヴィルヘルムは立ち上がり、そのまま窓へと近づく。夕焼けに染まる美しき街並みを眺めるその目は、空虚な光を宿している。
ギチリッ
握られた拳から音が漏れる。鋭い彼の竜爪が、魔法金属ですら傷つけられぬ皮膚を喰い破る。流れ落ちる血が絨毯を汚すが、それに眉1つ動かすことなく彼は街並みを見つめ続けている。いや、彼の目に最初からそれは映っていない。彼が脳裏に映し出すのは、愛してやまない子狐だけ。
(もし、そなたの身に何かあれば、我は世界を滅ぼすだろう)
ようやく出発しました!