第2話 『真昼のお花見』
今回で物語の主要キャラクターたちが概ね揃います。少し登場する人物は多いのですが、随時説明も入りますので、お気軽にサラッとご閲読頂けますと幸いです。
校舎から中庭へと出ると、明るく心地良い陽の光が彼らを迎えてくれる。まだ初春ということもあってか、空気は僅かに冷たいながらも、暖かな日光がそれを緩和してくれる。午前中は座学で校舎に閉じ込められていた彼らにとって、気持ちの良い空気だ。
「今日は良い天気ですね~。春ラララです」
「セル、それを言うなら『春うらら』だよ……」
セルマはヒノモトに帰化して七年になるため、ほぼ完璧にヒノモト語を使いこなすネイティブスピーカーだ。語彙も豊富で、文法も完全に把握している。それにも拘らず、ごく稀におかしな言葉遣いをすることがある。
それをすぐさま訂正するのが、側に居るヤマトの役割なのだが、このやりとりが何とも所帯染みていて、まるで夫婦漫才のようにも見える。そんな二人を見て、ナガラは目を細める。
「いいよなぁ、ヤマトは。こんな可愛い専属メイドさんがいるのだから。男の夢だよなぁ……」
ヤマト以外の誰にも聞こえないような小さな声で、ナガラは親友を冷やかす。実際、侍女を雇っている家など極めて珍しい。しかも同年代のメイドが、同じ学校に通ってまで甲斐甲斐しく世話をしてくれるのだから、これは羨まれて当然の立場であろう。
「……ひょっとして、夜のお世話とかもして貰っているのか?」
急に下世話な話になったので、ヤマトは瞬間湯沸かし器のように顔を赤くする。そして、まるで子供が意地を張ったような様子で反論する。
「ぼ……僕はセルをそんな風に扱ったことは一度もないぞ。唐突に変なことを言わないでくれ」
その何とも純朴な反応に、ナガラは思わず吹き出しそうになる。我ながら意地が悪いと思いつつも、この生真面目でピュアな親友のことは、ついついからかいたくなるのだ。
「あの柔らかそうな唇も、あの豊かな胸も、あの細い腰も独り占めだろう。いいよなぁ、羨ましいぜ、実際」
ヤマトの抗弁など、どこ吹く風で、なおもナガラは続ける。ここまで来て、ヤマトもようやくおちょくられたことに気付いたらしい。ムッとした顔でナガラのことを見つめている。
「若輩の僕には、女性どうこうはまだまだ早いよ。そういう話は将来のことでいい」
正直なところ、ここまで潔癖だとそれはそれで、また何か別の問題があるようにも思えるのだが、この馬鹿が付くほど真面目で誠実な友人のことをナガラは好ましく思っている。
そしてこのヤマトの抗弁の中には、恐らく何割かの強がりも混じっているのだろうとも推測している。
身も心も健康的な若者なのだ。疚しいことを、一切考えたことが無いかと言えば、きっと嘘になるだろう。
「桜が綺麗に咲いていますね~。とても素敵な景色です」
若者たちの間で、そんなやり取りが行われているとは露知らず、セルマは何とも楽しげに中庭を見渡している。彼女はしばらく桜並木をゆったりと歩いていたが、際立って美しい桜の木を見つけると、その下に手際良くレジャーシートを敷きはじめる。
シートの四隅を抑え、設置に問題が無いことを確認すると、そのままテキパキとお弁当を広げはじめた。そうすると、ちょっとしたお花見のような様相を呈してくる。
「どうぞ、召しあがってくださいませ~」
彼女がふたを開けて飛び出したお弁当箱の中身は、俵型に握られたおにぎりに、セルマお得意の太巻寿司。鶏のから揚げ、卵焼き、焼きウィンナー、ピーマンの肉詰め、キノコと野菜のバター炒め、白胡麻とほうれん草の和え物、等々。
定番ともいえるおかずの数々が並んでいる。一切奇をてらわない、典型的かつ一般的なヒノモトのお弁当……といった具合である。
「うっひょう、これは旨そうだ」
ナガラが歓声をあげ、さっそくおにぎりに手を差し出したその瞬間。彼らの背後から、心持ち怒気を孕んだ女性の声が掛けられる。
「旦那様!ワタクシも昼食を用意して参りましたの。ワタクシのお弁当を食べてくださいませ」
三人が何事かと振り返ると、そこには黒髪の小柄な少女と、そのお付きの侍女。そしてふたりの使用人と思しき筋骨逞しい男性がふたり、大きな重箱を抱えた姿で立っている。
この少女の名前は立花深雪。
ヒノモトでも名高い武門の家柄である立花家の令嬢で、ヤマトの幼馴染である。
同じ防衛高等学校に通う二年生だが、小柄で細い身体は歳不相応だ。胸部のボリュームは、同学年のセルマとは比べるべくもなく貧相だが、細い腰つきとなだらかな太腿のラインが実に女性的で、愛らしい魅力に溢れている。
僅かにつり上がった大きな眼に、形の整った鼻、慎ましい口。長く綺麗に整えられた黒髪は、陽に当たると銀色に輝いて見え、その麗しさが際立つ。さらにその名が表す通り、深雪のような白い肌が、十二分に和風美人の条件を満たしている。
ちなみに、彼女がヤマトのことを「旦那様」と呼ぶ理由は、過去の出来事に起因している。ヤマトの実家である下総上泉家と、ミユキの実家である立花家の館は隣家で、両家には家族ぐるみの深い交流がある。二人が幼い頃、ヤマトの父親が軽い冗談のつもりで言った『将来はミユキちゃんにお嫁に来てもらうか』という言葉を、彼女が鵜呑みにしたことがそもそもの発端である。
……それ以来、ミユキはヤマトのことを許嫁として認識している。ヤマトとしては、幼い頃から自分のことを慕ってくれるこの少女を憎からず思ってはいるが、少し思い込みの激しいこの幼馴染を持て余すこともある。
特に一年前より、セルマが専属のメイドとなってからは、やや行動が過激化しているように思える。それが彼の最近の悩みのタネであったりするのだ。
「ミユキ……。気持ちは嬉しいけれど、さすがにこれは量が多過ぎるよ」
ヤマトは困った声で言うが、彼の主張も尤もである。使用人の男性が抱えている重箱の量は、とても四、五人程度では食べきれそうにない。既にセルマが広げているお弁当の量と合わせると、かなりのものになるだろう。
ヤマトの言葉を受け、ミユキの侍女は「それみたことか」という顔をしている。そして意気揚々とやってきたはずのミユキだが、この程度のことも想定していなかったのか、露骨に落ち込んでしまう。
このミユキという少女は、普段は合理的に立ち回る術を身に付けているにも拘わらず、ヤマトのことが絡むと途端に冷静さを欠くきらいがある。それだけヤマトという幼馴染に執着がある証左ではあるのだが、その理由を知っているのは今のところ当人だけである。
「まぁせっかくだから、ミユキの用意してくれたお弁当も頂くよ。お付きの方もご一緒に如何ですか」
ヤマトは、ミユキの付き添いの三人にもレジャーシートへの着席を促す。セルマはそれを受け、大勢の人数が座れるよう二枚目のレジャーシートも広げ始めた。
三人の従者は、最初こそ恐れ多いといった様子であったが、ミユキが頷いたことで腰を下ろし始める。そして重箱をセルマの弁当箱の隣に並べた。静々と開かれた重箱の中身はというと、セルマの家庭的なお弁当とは対照的に、高級な懐石御膳といった様相だ。
「すまんが妹も呼んで良いか? これだけの馳走ならあいつも喜ぶだろうし」
ミユキの表情を窺いながら、恐る恐る示されたナガラの提案を、ミユキは仕方ないと言った風情で了承する。そして落ち込んだ様子のまま、ナガラを退かす形でちゃっかりヤマトの隣席を確保する。
ミユキのこうした逞しいところは、あまり淑女らしからぬのだが、素の姿を見られたほうがヤマトとしては安心する。
「なんだか今日のお昼は、大勢集まって楽しくなりそうですね~」
心の底から愉快そうな笑顔でセルマが喜ぶ。ミユキの複雑そうな表情など、まるで意に介した様子がない。
このややこしい人間関係に何か察するものがあったのか、ミユキお付きの面々が小さくため息をつく。こういうシチュエーションにおいては大抵の場合、当事者よりも周囲の人間のほうが難儀するものだ。それを予見しての嘆息であろうか。
ほどなくナガラが、妹の藤林五十鈴を引き連れ戻ってくる。
この間、僅か三分。
……忍者の兄妹というのは、何か特殊な連絡手段でも確立されているのだろうか。
そしてイスズと一緒に歩いてくるのは、ヤマトの妹である上泉信濃だ。
ヤマトとナガラが親友同士であるように、イスズとシナノも親交の深い友人同士である。この状況を当然のように予期していたようで、ヤマトもセルマも特に驚いた様子はない。結局、ふたりが用意したお弁当を九人掛かりで囲むことになった。
「いただきまーす!」
全員が一斉に手を合わせ、食前の挨拶を行う。ようやく昼食にありつける、という安堵感からヤマトやナガラの頬は些か緩む。とはいえ、ミユキがセルマを牽制していたり、イスズの視線がとある一点に注がれたりと、なかなか場が落ち着かない。
ミユキはまるで肉食獣のように「がるるる!」とセルマを威嚇している。しかし威嚇されているセルマのほうは、さして気にした様子もない。
「これ、美味しいですね~!今度作り方を教えてください~」
まったく緊張感のない面持ちで、何事もないかのようにミユキの持参したお弁当をつまんでいる。このふたりは、いつもこうなのだ。
ミユキの敵愾心は明らかなのだが、セルマが気にしないので『暖簾に腕押し』なのである。相手にしていない、のではなく、気にしていない、という部分がこの場合かなり重要となる。
ミユキのことを無視している訳ではなく、敵意を向けられても融和的に受け止めようとするのだ。セルマは元々、恐ろしいほどにマイペースな娘ではあるのだが、他者からの悪意には際立って鈍い。いや、敵意や悪意を感じ取ってはいるのだが、耐性が高いとでも言うべきなのだろうか。
ミユキにしても、自分の気持ちがヤマトをめぐっての嫉妬心であることを自覚している。その上でセルマを牽制しているだけなので、自然と自制心が働き、大きな諍いに発展することはない。そういう意味ではあまり問題はないのだが、それでも不穏な空気の一端であるには違いない。
そして、ナガラの妹のイスズだ。父似のナガラ、母似のイスズと言われている兄妹だけに、容姿はあまり似ていないのだが、微かに赤みがかった黒髪は全く同じ色をしている。長く美しい髪を可愛らしく左右に束ね、その長い前髪はクリクリと大きく輝く目を僅かに覆っている。とても小柄で愛らしい少女なのだが、無口で物静かなためか、やや影が薄い。
その少女が、チラチラとヤマトの顔を伺っているようで、見られている当人としてはどうにも落ち着かない。そしてヤマトがイスズの方を向くと、プイと別方向を向いてしまうのだが、ヤマトの気が逸れると再びヤマトのほうに視線が注がれるのだ。
「イスズちゃん、どうかした? 僕の顔に何かついている?」
たまらずヤマトが訊ねると、イスズは真っ赤な顔をして黙り込んでしまう。イスズ当人は、自分がヤマトを見つめていることに気付かれてしまったのは不覚であったらしい。相当に慌てた様子で取り乱し、表情は心なしか沈んでいる。
するとヤマトの妹であるシナノが、親友のイスズを慰めるかのように、よしよしと頭を撫でる。
「イスズちゃん、落ち込むだけ損ですよ。お兄様のような朴念仁に、女心を理解しろというほうが難しいのですから」
実妹から、フォローなのか悪口なのか、判別の難しい言葉が飛び出す。言われたヤマト当人は、クエスチョンマークをいくつか頭の上に浮かべているが、さして気にした様子もなく食事を続ける。こうした何とも微妙な空気の漂ったまま、昼食会は続けられた。
九人がかりとはいえ、セルマとミユキの用意してきたお弁当の量は多い。ざっと見積もっても、二十人分ぐらいはあるように思える。
それでも食欲旺盛な若者が集まるこの席で、食べ残しが発生する心配は杞憂であったようだ。箱に詰められた料理の数々は、みるみる平らげられていく。
ちなみに無事に完食を達成した一番の功労者は、実はイスズであったりしたのだが……。
静かに……そしてハイペースに胃袋を満たす、目立たないタイプの大食漢であるため、それに気付く者は少なかった。
次回、具体的な『地政学』の考え方についての話になります。