第21話 『矛と盾の同盟』
「ヒノモトが地政学的な強国であることはわかります。しかしここ最近、急激にチャイカの横暴が目立つのはどういう理由からなのでしょうか」
セルマがおずおずとウェンディに訊ねる。
それを聞いた家庭教師は、待ってましたと言わんばかりに持論を展開する。
「最大の要因はソビエイト連邦の崩壊ね。後継のシロア連邦もけっして弱小国ではないけれど、国力は大きく低下したわ。チャイカにとって北方の脅威が薄れたのよ」
チャイカは歴史的に、北方の騎馬民族やソビエイト連邦の脅威に晒され続けた国家だ。
彼らがどれほど北側からの侵略に怯え続けたか。それは『万里の長城』と呼ばれる建造物が如実に表している。北方からの脅威を、物理的な壁を作ることで防ごうとしたのだ。
「なるほど。北側からの脅威が薄れたいま、チャイカは安心して周辺国へと侵略が出来るのですね」
ヤマトは感心したように頷く。
地政学の基本となる、敵の敵は味方、の理論である。
シロア連邦が弱体化した現在、チャイカは東のヒノモトや南のスプラトリー海域に目を向ける余裕がある。しかしシロアが再びかつての勢いを取り戻すようなことがあれば、その余裕がなくなる。パワーバランスが拮抗するのだ。
すると一見、シロアの隆興がこの事態を解決するようにも見えるのだが、ヒノモトとシロアも地政学でいうところの『隣国は敵』の関係である。シロアが力を取り戻すことも、ヒノモトにとって望ましい事態ではない。
これが地政学の難しいところである。
「そしてふたつめの要因は、航行技術の発達よ」
ウェンディの話の方向がガラリと変わったため、その場にいた一同に軽く動揺が走る。
とはいえ、基本的に考えることが得意な人間が集まっているため、その空気はすぐに落ち着いたものとなる。
「先程ドーバー海峡でも歩兵一〇〇万相当の防衛力を持ったと言ったけれども、これは船舶や航行の技術が上がるのに反比例して下がっていくの」
なるほど、道理である。
航海技術が上がれば上がるほど、海域を超えての侵攻リスクは下がる。
島国としての防衛力も落ちていくという寸法だ。
「船舶の性能が上がり、航行技術が上がっていけば、そのぶん海洋権益も大きくなる。チャイカとしては、蓋のように被さるヒノモトが急激に目障りに思えてきたのよ」
侵攻リスクの軽減と、権益の拡大。
チャイカとしても、野心を膨らまさずにはおれぬであろう。
ヒノモトという邪魔な蓋をこじ開けるための第一歩である『オキナワ』に異常な執着を見せるのも、合点が行こうというものだ。
「さて、次は地図を逆さまにしてみましょうか。今度は東を下にして、メアリー合衆国視点からヒノモトとチャイカを見てみましょう」
ウェンディはヤマトに向けて、地図を反対側にして見せる。
すると一番上がチャイカ大陸、次にヒノモト列島、そしてメアリー大陸が一番下側となる。
「チャイカにとってヒノモトが覆い被さる蓋だとしたら、メアリー合衆国にとってヒノモトは共産圏から身を護るための盾になるの」
ウェンディの言葉通り、メアリー合衆国の視点に立つと、ヒノモトはチャイカの侵攻を防ぐ巨大な盾だ。
このふたつの国の関係は、矛と盾の関係と評されることがある。もちろんメアリー合衆国が矛で、ヒノモトが盾だ。
地政学の原則である『隣国は敵』の理屈が、ヒノモトとメアリー合衆国の間で成立しないのは、ヒノモトが明確にメアリー合衆国にとっての緩衝地帯であるに他ならない。屈辱には違いないが、敗戦国としては涙を飲まざるを得ないところであろうか。
「この構図だと、まるでヒノモトは身代わりの羊みたいですね」
セルマが率直な感想を述べるが、これも極めて正しい見解である。要するにメアリー合衆国にとって、ヒノモトは都合の良いスケープゴート(身代わりの羊)なのだ。それでもヒノモトにしてみれば、超大国メアリー合衆国との間に、直接的な戦争リスクが存在しないのは利点と言えなくもない。
「さて。当面そんなことは有り得ないけれども、チャイカが太平洋権益を確保するために、メアリー合衆国へ侵攻を開始したと想定してみましょう」
家庭教師の言葉通り、現状そうなる可能性は限りなく低い。
とはいえ、超大国メアリー合衆国の影響力は着実に縮小しつつあり、反対にチャイカは相応に勢いがある。
パワーバランスが逆転するようなことがあれば、拡大路線を旨とするチャイカが、いずれそうした武力行使に至る可能性は否定しえない。
「チャイカはまずヒノモト列島を勢力下に収めると、そしてそのまま東進を続けて……」
ウェンディの指が、世界地図の上を重々しく縦断する。
彼女の指は、まずグアムで止まる。
「第一の防衛拠点が、このグアム」
その指は更に東に続き、今度はハワイで止まる。
「第二の防衛拠点は、このハワイ。ここで食い止められなければ、メアリーは苦境に陥るわ」
そう言って、ウェンディの指は遂にメアリー大陸の西海岸まで辿り着く。
「グアムとハワイは、あくまで拠点……つまり『点』に過ぎないの。メアリーにとって、初めて攻撃を『線』で受け止められるのは、このメアリー合衆国西海岸ということになるわね」
家庭教師の指は、グアムとハワイを小さく丸で描いたあと、西海岸をすっと長く沿う。
その動作が『点と線』、つまり『拠点と戦線』という概念を判り易く説明している。
「ところが、この西海岸まで来られてしまったらメアリー合衆国としては大失策なの」
ウェンディは小さく溜め息をつき、地図から顔を上げてその場にいる全員と向き合う。
「メアリー合衆国は、かねてより多くの戦争に関わって来たけれども、本土での戦闘を許していないの」
ヴェトナン戦争、湾岸戦争、ライク戦争……歴史的に様々な戦争に関わって来たメアリー合衆国だが、確かに主戦場は常に国外であった。
ウェンディは、そうした事実を淡々と語っていく。
「戦争は勝っても負けても、本土さえ戦火に晒されなければ大きなダメージにならないわ」
だから仮に戦争で敗北しても、自国に直接的なダメージはない。メアリー合衆国はそうして勢力を保ってきた国なのだ。それゆえに彼らは何よりも、本土での戦いを嫌うのである。
「そうした事情もあるから、メアリー合衆国にとって、ヒノモトは最終防衛ラインに近い存在なわけ」
そう語るウェンディの言葉には、いくらか自嘲の要素が含まれて聞こえる。結局メアリー合衆国は、あくまでメアリー合衆国のためだけに、ヒノモトが大事なのである。
「だから北アリコの禁断魔導兵器の開発に関しても、メアリー領内に届くか届かないか、だけが重要な訳ですね」
ヤマトの声は寂しげでありながら、納得したような響きもこもっている。
強固な同盟でも何でもない。我が身だけが可愛い戦勝国メアリーと、捨て石にされる敗戦国ヒノモトという、悲しい構図でしかないのだ。
「それにしても……」
これまでの会話を踏まえて、セルマが小さな声で疑問を呈する。
「チャイカや北アリコが、オキナワに工作を仕掛ける理由は判ります。しかしメアリー合衆国と同盟関係にあるはずの、南アリコまでが離反工作に加担するのはどういう理由からなのでしょうか」
その辺りの事情は、ヒノモト人であればおおよそ察しがつくが、セルマには少し意外であったようだ。
ウェンディはそうした事情を踏まえて説明を開始する。
「南アリコにとって、メアリー合衆国は同盟国であっても、ヒノモトはそうではない、ということよ」
そうハッキリと言ってのける。
「敵の敵は味方になっても、味方の味方が味方……とはならないのが難しいところね。むしろ地政学的に言うなら、隣国は敵、の法則がそのまま当てはまるわ」
ヒノモトと南アリコの関係はまさしくその通りであろう。平和ボケしたヒノモトが、同じメアリー合衆国の同盟国である南アリコに勝手にシンパシーを抱いていただけで、南アリコはずっとヒノモトを敵視してきたのだ。
戦後どれほどヒノモトから経済援助を受けても、技術援助を受けても、そんなものは恩義とも何とも思わない。南アリコはひたすら歴史を誇張し、事実を捻じ曲げてはヒノモトを攻撃し続けてきた。かの国は戦後一貫してヒノモトに敵対的であったのだ。
「ヒノモトと南アリコ、そして北アリコは地政学的にも敵同士なの。その論理を詳しく解説する前に、まずはヒノモト人、チャイカ人、アリコ人が地政学的に全く異なる属性を持った人種である……ということから説明しておきましょうか」
次回は地政学の用語のひとつ『海洋国家』と『大陸国家』について簡単に解説いたします。




