第16話 『マイペースな母は揺らがない』
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オクダイラ・ヒエイが補佐官として、共に出陣することが決定した。その意外な四人目が決定した頃、新たにふたりの女性がリビングへと入室してくる。
ひとりはヤマトの専属侍女であるセルマ。
もうひとりはヤマトの実母である上泉榛名だ。
ふたりはそれぞれに新しい料理皿を携え、テーブルの上へと丁寧に並べていく。
一段と華やかさを増していく食卓は、いつもよりも豪華に見える。客人であるヒエイを歓迎してのものであろう。
先刻は何故か逃げて行ってしまったセルマだが、現在は幾分落ち着いた様子である。
しかしながら、ヤマトと視線が合った瞬間、ボッと顔を赤くして目を逸らしてしまう。
なにかセルマの気に障ることをしてしまったのだろうか。そう考え、心持ち不安になる。
しかし、少なくとも怒っている様子ではない。あとで二人きりになったとき、どうしたのか訊ねてみよう。若者はそう心に留めおく。
「楽しそうな声がこちらまで聞こえていましたよ。何かあったのですか?」
朗らかな声でそう問いかけるのは、母のハルナだ。ハルナは華族出身の令嬢で、非常におっとりとした性格をしている。
のんびり、ゆったり、のほほん。
そんな単語が相応しい雰囲気の持ち主で、そのためかセルマとは非常に相性が良い。実際セルマのことを実の娘のように可愛がっていて、将来はヤマトのお嫁さんになってくれれば、などと公言している。
年齢はもうすぐ四十を迎えるのだが、見目は非常に若々しい。滅多に外出をしないためか、きめ細やかな色白の肌と、綺麗に手入れされた長い黒髪のコントラストが実に印象的である。
化粧は必要最低限で、いわゆるナチュラルメイク。金銀宝石で身を飾ることを好まず、豪奢な衣服にも興味がない。極めて素朴な美しさを醸し出している。
「妻よ。ヤマトが明後日に初陣だそうだ」
父であるコンゴウが、簡潔に説明をはじめる。
監軍の任であること。
タテヤマへと向かうこと。
セルマやヒエイが同行すること。
必要最低限のことを一通り、並び立てる。
それを受けたハルナは、のんびりとした口調を崩さず、ヤマトへと語り掛ける。
「あらあら、それは大変ですね。ヤマトさん、気を付けて行ってくるのですよ」
あっけらかんと言ってのける。
まるで近所にお使いへと赴く、幼児でも送り出すような口調だ。
実の息子が戦場に向かうというのに、これっぽっちも憂慮や不安を感じさせない。何とも穏やかな雰囲気のまま、自分の息子へと向き合う。
動揺を隠しきれなかった、父のコンゴウとは実に対照的だ。
しかし、これはヤマトのことを案じていない訳ではない。そのことをヤマト自身が良く知っている。
このマイペースな母親はいつもこうなのだ。
十年ほど前のことだが、この母に関する印象的な出来事のひとつにこんなものがある。
近所の総合病院から、シナノが馬車に跳ねられたとの連絡が届いたことがあった。顔を真っ青にして狼狽えるコンゴウを尻目に、「あらあらまあまあ」とまるで慌てた様子もなく、落ち着いて病院へと向かう母親の姿を彼はハッキリと覚えている。
その様子は実に泰然としていた。
なんと言うか。
この母親は確信を抱いているのである。
自分の周辺で、不幸な出来事は起こらないと。
下総上泉家の人間が、酷い厄難に遭うことはないと。
何の根拠もないのだが、ともかく自信満々なのである。
この楽観的かつ珍妙な確信は、現在のところ裏切られたことはない。実際そのときも、シナノは軽い掠り傷に過ぎず、コンゴウは慌て損だった。
ヤマトは、このノンビリとした母親が万一取り乱すようなことがあれば、それこそ世界崩壊の予兆だと半ば本気で思っているので、この至って平静な反応にはかえって安心感を抱く。彼にとって、母親とはそういう存在であった。
「それでヤマトさん。おやつはいくらまでなのですか。それとバナナはおやつに含まれるのでしょうか」
なんともトンチンカンな質問が実母から飛び出す。困惑したヤマトを見かね、それに答えたのは父のコンゴウであった。
「妻よ、ヤマトは遠足に行く訳ではない。きちんと糧食が支給される」
夫の答えに、あらあらまあまあと呟きながら、ハルナの表情はなんとも残念そうだ。
恐らくだが、ヤマトのおやつを買いに行くのに託けて、自分の菓子も買いに行きたかったのではあるまいか。
そう考えると、まったくもって危機感のない母親だと、改めて頭を抱えたくなる。
それにしても。
この謹厳実直で堅物な父と、おっとりノンビリとした母が、よく男女として結ばれたものだと、偶に不思議に思えてしまう。しかも武家と華族の縁談であったために誤解されやすいのだが、このふたりは恋愛結婚らしいのだ。
「ヤマトさん。あなたは手柄を立てようとは思わず、とにかく怪我をしないようにするのですよ」
つい先ほど実父から掛けられたものと同じ主旨の言葉が、実母からも飛び出す。
性格は大きく異なる二人だが、その価値観はやはり似通っていることを、今更ながらに実感する。
ポワーとして何も考えていないように見えても、しっかりとヤマトの身のことを案じてくれていたのだ。
「あなたが危険な目に遭うということは、セルマさんの身にも危険が及ぶ可能性が高いですからね。大事な未来の義娘が怪我でもしたら困ります」
母が心配していたのはそちらだった。
そもそもヤマトのことは心配しなくとも、無事に帰ってくると確信しているようだ。
ハルナの言葉を聞いたセルマは、顔を真っ赤にして俯いている。恥ずかしくて。そして何よりも嬉しくて、ヤマトの顔を見ることが出来ないのであろう。
そんな専属メイドの姿を見ていると、若者は何とも微笑ましい気持ちになってしまう。
「ところでシナノの姿が見えないのだが、どうかしたのか?」
ディナータイムであるにもかかわらず、娘が食卓にいないことを案じたのだろう。コンゴウから心配そうな声が、その妻へと向けられる。
ヤマトとしても、妹のことはずっと気に掛けていたので、父に同調するかのように実母へと視線を移した。するとハルナは僅かに表情をしかめ、ふたりに答える。
「シナノは少々具合が悪く、食欲がないそうです。今日は休ませてあげましょう」
娘の様子から、病気でないことは察しているのだろう。心配しているというよりは、些か困惑しているという様相だ。
それにしても、あれからずっと自室に籠っているのかと思うと、やはり兄としては悩ましくも思えてしまう。そんなヤマトの気持ちを察した訳でもあるまいが、コンゴウが思わぬ言葉を口にする。
「そうか。監軍補佐であればシナノを同行させるのも良いかと思ったのだが、それでは難しそうだな」
倅を戦場に送り出すことで覚悟を決めたのか。
もしくは「毒を食らわば皿までも」の精神なのか。
娘を戦場に送り出すことを肯定するような発言が飛び出す。
とはいえ、相応に打算を巡らせる余地のある案件ではある。監軍補佐という役回りもさることながら、ヒエイという頼もしい味方が同行してくれるのだ。戦場経験を積ませるのに、これ以上の機会はないであろう。
もっとも、当の本人がこの場におらぬ以上、話を前に進めることは不可能である。父の言葉は、その前提に沿った放言であったのかもしれない。
「そうなると、お前はあとひとり、仲間を探さなければならないのだな」
コンゴウの言葉に、ヤマトは黙って頷く。
シナノの同行が難しくなったとはいえ、彼にはまだイスズにシラユキとふたりの候補が残っている。恐らく問題はないだろう。
ところが、そんな若者の思惑を突き崩す人物が、新たにダイニングルームへと入室してきた。
20話から本格的に地政学の知識にまつわる話となります。




