第9話 『屋敷を守護するもの』
藤林屋敷の中はとても静かで、また薄暗かった。留守であろうとは思っていたのだが、それにしても人の気配がない。
ひょっとすると、ナガラ本人もいないのでは……と僅かに不安が募る。
「セル、こっちだよ」
ヤマトが侍女を先導して屋敷内を歩く。
ここは勝手知ったる主人に任せた方が良いだろう。そう判断したセルマは、ゆっくりとその後を付いていく。
「ナガラの部屋は二階だから、この階段を登るんだ」
木製の階段をゆっくり登っていくヤマトの後ろ姿を見ながら、セルマは少しばかり不安そうだ。
無理からぬことだ。表で起きていたことを鑑みれば、警戒するなというほうが無理な話だ。
「かつてはこの階段も、偶数の段を踏むと外れる仕掛けになっていたのだけど、今は大丈夫だよ」
セルマの心配を思いやってのことだろう。安全であることを証明するため、ヤマトは複数の段を実際に踏んで見せる。
「以前は屋内にも色々トラップが仕掛けてあったのだけど、危な過ぎてご家族の不興を買ったみたいでね」
屋敷内にまで罠が仕掛けられていたら、それは確かに落ち着かないであろう。ナガラやイスズの苦労を考えると、気の毒にも思う。
とはいえ、幼い頃からあれだけの罠に囲まれていたからこそ、あの兄妹が優秀な忍者に育っているのかと考えると、得心もできるのである。
「それにしても、内装は随分と華やかなのですね~」
セルマは美しい和風の調度品や、荘厳な襖絵、精密な欄間などに見惚れながら、主人の背中を追う。ヒノモトの美術にも興味があるのか、辺りを見渡しながら何とも楽しそうである。
そんな侍女の様子に気付いたのか、ヤマトは調度品の前では歩む速度を落とす。少しでも、眺める時間が増えればとの配慮だろう。
「セル、こっちがナガラの部屋だよ」
階段を登り、細い廊下を進むと、やがて襖で閉じられた和室の前へと辿り着く。
二部屋並んでいるうちの、もう片方はイスズの部屋かもしれない。セルマはそう推理したが、それは口にせず、ヤマトの動向を見守った。
「ナガラ、僕だ。失礼するよ」
留守かもしれないが、念のため室内に向かって断りを入れる。
中からの反応はないが、ヤマトは遠慮なく襖を開いた。
果たして彼の求めていた人物はその中に……。
いた。
立派な装飾のある布団にくるまり、寝息を立てずに静かに眠っている。
普段は鋭い眼光を湛えた、隙のない忍者が寝入っている姿が、セルマにはとても新鮮に感じられた。忍者も人並みに就寝するのだという、当たり前の事実に今更ながら少し驚く。
「悪い、ナガラ。急ぎの用事があるんだ。起きて貰えないかな」
そう言ってヤマトは、寝ている親友の肩を慎重に小さく揺する。
出撃は明後日。
事前準備の時間まで考慮すると、起きるのを待つ時間が惜しいのだろう。ヤマトの表情には、申し訳なさと焦慮のふたつが見て取れた。
「……ん。ヤマトか……」
親友に揺り起こされたナガラは、すぐに目を覚ました。見たところ、かなり深い眠りに落ちていたように思えたが、この辺りの切り替えの早さは流石であろうか。
とはいえ、彼も根本的には普通の若者である。ヤマトがセルマを伴っていることに気付いて、少しだけあたふたする。
「セルマちゃんも連れてきていたのか。そうなると昼の件と併せて、大体どういう用向きか読めてきたな」
そう言いながら上着を羽織り、軽く身なりを整える。女性のいる前で、薄い寝間着であることを恥ずかしがったのだろう。
ナガラはまるで奇術のようなスピードで布団を仕舞うと、壁に立て掛けてあったちゃぶ台を部屋中央に据え置く。
そして押し入れから手際良く座布団を取り出すと、ヤマトとセルマに勧めた。
ヤマトは胡坐の姿勢で。
セルマは正座の姿勢で、それぞれ座布団の上へと落ち着く。
「ご両親は、相も変わらず留守がちなのかな?」
「ああ、そうだな。例の組織の立ち上げに向けて忙しいみたいだ」
ヤマトがさり気なく触れた話題を、ナガラは何とも嬉しそうに返す。彼の言う例の組織というのは、ヒノモトでようやく生まれるという広域捜査局のことだ。
ヒノモトはスパイ天国と言われるほど、外国のスパイが横行している。スパイを取り締まる法律がないため、スパイ活動が事実上の合法となっているのだ。
そのため国家情報は簡単に海外へと流出し、多大な国益を損なっている。
それを何とかしようと、ようやくヒノモト版・連邦捜査局とも言える組織の構想が動き始めたのだ。
スパイを防止するための法整備。
そしてそれを管理・運用するための組織設立。
その重大な目的に向かって、優秀な忍者たちがあらゆる方面で暗躍している。伊賀忍軍の代表格である、藤林家も例外ではないのだ。
国家政策としては、遅きに失した感もあるが、それでも何もしないよりはマシであるに違いない。
「それにしても随分と不用心だね。もし僕が刺客だったら、危なかったんじゃないか?」
少しだけ愉快そうにヤマトは親友をからかう。しかしナガラは特に気にした様子もなく、庭のほうを指差しながら言う。
「我が家に悪意のある者が訪ねて来ていたら、アラクマと三兄弟の奴らが容赦しないからな。俺は安心して寝ていられるという訳だ」
「そういえばそうだったね。まるで気配を感じさせないから、失念していたよ」
ヤマトが何に納得したのか、不思議に思った侍女は、目を凝らして示された庭の方をよく観察してみる。
すると先程まで庭石のひとつだと思っていた大きな灰色の塊が、熊であることに気付く。
アラクマと呼ばれたその熊は、自分の名が話題に上がったことに気付いたのか、こちらの部屋に一瞥をくれるが、すぐに興味なさそうに視線を外す。
「イスズが帰って来た時だけは、喜んで出迎えるんだがなあ。元々の飼い主は俺だっていうのに」
そう言うナガラの表情には、苛立ちよりも寂しさの成分のほうが多く含まれて見える。
とはいえ、このアラクマと呼ばれる熊も、果たすべき役割はキチンと果たしてくれているようだ。そのおかげでナガラも熟睡できるのであるから、ともかく感謝はしているのだろう。
「アラクマの心は、すっかりイスズちゃんに移ってしまったのか。悲しいことだね」
「クマだって、野郎よりも女の子のほうが良いのだろう。俺だって男よりも女のほうが良い」
不貞腐れたように、何とも適当なことを言う。そもそもクマが人間の男だ、女だなどと気にする訳がないと思うのだが。
「そういえばトウホク地方にいるという、有名な熊使いも女の子らしいぞ。しかも巫女らしい」
「……噂には聞いたことがあるな。人間とクマの間柄でありながら、自在に意思疎通が出来るとか。でも人間同士のコミュニケーションは苦手らしいね」
思い起こしてみると、イスズも人間の友人が少ない気がする。熊使いの人間は、いわゆるコミュ障が多いのだろうか。
そんなことを考えていると、突如セルマが二人の会話に割り入る。
「あ、あの、ヤマト様。この話題はやめたほうが良いと思います」
「どうしたんだい、セル?」
「いえ、あの、その。なんだか色々な人に怒られそうな気がして……」
「色々な人?……何だか良く分からないけれど、わかったよセル」
急にセルマがオタオタし始めたため、ヤマトは熊使いの話題を打ち切る。ホッと安心した専属侍女は、慌てて別の話題に切り替えた。
「ところで三兄弟というのは……?」
「セル、アラクマの周りを良く見てごらん。何か白いものが見えるだろう?」
ヤマトに指摘されてようやく気付けるレベルではあるが、確かにアラクマの周辺には、まるで疾風のようなスピードで走り回る白い影が三体、ぼんやりと確認できる。
そしてセルマの疑問を解消するために、ナガラはゆっくりと立ち上がると見事な指笛を吹いた。
「ジョン、ジュン、ジャン。こっちだ」
指笛に続いて、彼が白い影へと声を掛けると、それらは隊列を整えた一陣の風となり、二階の部屋の真下までやってくる。動きが止まり、確認できたその姿は、狼ほどの大きさの三匹の犬だった。
「わあ、可愛いですね~!」
セルマが思わず声を上げてしまうほど、三匹とも愛嬌のある顔をしている。呼び名の通り兄弟なのであろう。姿はそっくりで、白い毛並みが実に美しい。
とはいえ、その動きは俊敏であり、所作にもまるで隙が無い。忍犬として訓練されているであろうことは、一目瞭然だった。
「そら、少し早いけど飯だ」
ナガラはどこから取り出したものか、骨付きの肉をみっつほど空高く放り投げると、忍犬はそれぞれの目標へと向かって高く跳躍する。
ある者は回転しながら。
ある者は瞬間的に姿を消しながら。
ある者は高速でスライドしながら。
それぞれの餌を見事に口でキャッチしてのける。なんともアクロバティックな催し物を見物したセルマは、思わず小さな拍手などしてしまう。
「こいつらは賢くてね。我が家に悪意のある者と、そうでない者を敏感に嗅ぎ分ける。来客がヤマトたちだったから、何もしないでスルーしていたって訳だ」
なるほど、これなら確かに扉に鍵など必要ないのかもしれない。
シノビに鍛えられた動物たち……いわゆる忍者犬や忍者熊は、一般的に高い知能と戦闘力を併せ持つ。並大抵の侵略者であれば、簡単に撃退してしまうのであろう。
「それに加えて、親父の悪趣味なトラップの数々もあるしなぁ。あれのせいで滅多に人が寄らなくなってしまった」
それもまあ、当然だろうとセルマも思う。
仮に回覧板ひとつ回すたびにあれでは、近隣の住人は身が持たないであろう。そんな余計な心配をしてしまう。
「ところで学年主任室ではどんな話があったのだ。詳しく教えてくれ」
ヤマトが急いでいたことを、察したのだろう。ナガラのほうから、話を本題へと振ってくれる。
親友の配慮に感謝しながら、ヤマトは掻い摘んで説明をはじめる。ナガラはじっと腕を組んだ姿勢で、ヤマトの説明に真剣に聞き入った。
スパイ防止法案と、ヒノモト版FBI(連邦捜査局)は早急に必要だと思うのです。




