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EARTH FANG  作者: 石燈 梓(Azurite)
第一部 神々の詞(ことば)
8/93

第二章 森の民(1)



          1


 肩口から背中へと入りこむ風に、ぞくりとして、マシゥは目を覚ました。

 石と粘土で造られた家の壁は、分厚く、光を通さない。かろうじて、四角い窓を覆う板の隙間から、青白い朝の光が糸のようにさしこんでいた。

 マシゥは、枯れ草と毛皮を重ねた寝床の中から、室内を見渡した。壁際に人影を見つけ、一瞬、心臓が止まる気分を味わう。

 人影が振り向いた。


「……なんだ」


 ほっとして、片手で自分の顔を撫でる。無精ひげが、ざらざらと掌を引っ掻いた。


「あんたか……」


 犬使いの男だった。壁を削って作られた炉の中で、薪が乾いた音を立てる。金色の炎が、雪焼けした頬に描かれた鳥の紋様を浮かび上がらせた。

 マシゥは、急いで身を起こした。毛皮を肩に羽織り、床に置いておいた革靴に素足を入れると、じんと冷たさが伝わった。


「火を点けてくれたのか? ありがとう」


 微笑みながら、男に近づいて行く。犬使いは、厚い筋肉と外套で覆われた背を、軽くかがめた。


 マシゥが砦に来てから、五日間が過ぎている。開拓団を率いる長は、南のニチニキ(町の名)へ出かけていて、留守だ。宿舎をあてがわれたものの、事実上、マシゥは放ったらかしにされていた。

 何しろ、男しかいない所なのだ。

 開拓について来た女たちは、皆、ニチニキで暮らしている。あたたかな食事や細やかな心遣いとは程遠い環境に、マシゥは早くも音を上げたくなっていた。

 だから。知った顔に会えた喜びもあり、眠っている間に消えた火を点してくれた犬使いの親切が、身に沁みて感じられた。

 男のいかつい顔は、ぴくりとも動かない。頭巾の下から、黒い瞳が、窺うように彼を見返した。

 火の傍に立ったマシゥは、ぶるると身を震わせた。


「ううーっ、寒いなあ……。今まで、何処にいたんだ?」

「…………」


 犬使いの目が少し和んだ。口を開け、応えようとしたときだった。

 ギギギイィーッ、と、柱が軋むような音が、部屋の中に響いた。続いて、地響きが……足下の大地を震わせ、天井から細かな砂を落とす。マシゥは顔を上げた。


「あれは、何だ?」


 地底に棲むという伝説のギヤ神(闇の神)の竜が、身をよじらせたようだ、と思う。彼の隣で、犬使いも、耳を傾ける仕草をした。


「ああ」


 男は、さらりと答えた。


「ロマナが歌っているんでさあ」

「ロマナ?」

「湖の名です」


 マシゥは腕を伸ばし、窓の覆いを外した。流れ込む風と光が、男たちの頬を叩く。マシゥは眼を細め、四角い穴に首を突っ込んで外を見た。


 テサウ砦は、湖に注ぎ込む川の中州に築かれている。彼の部屋は砦を囲む外壁の中にあり、南西の角に面していた。広大な森と荒野と、湖が見えるはずであった。

 窓の下の湖面は、凍りついていた。乳粥を思わせる深い霧が、音もなく湖岸を浸している。

 先刻よりはっきりと、竜の咆哮が聞こえた。今度は、ギチギチという歯軋りを含んでいる。全くもって、砦に押し潰された竜の、恨みのこもった断末魔の叫びだ。

 ひとしきり聴いた後で、マシゥは男を振り向いた。


「歌う?」


 訊き返すと、途端に、犬使いは苦虫を噛み潰したような表情になった。刺青の入っていない側の頬を彼に向け、


「……融けはじめた氷が、割れる音でさあ。ここんとこ、暖かくなってきやしたからね」


 単調な声で、言いなおす。それで、マシゥにも理解出来たが、同時に、隔てを置かれた気持ちがした。

 『湖が歌う』という表現は詩的で、無愛想なこの男の意外な一面を、垣間見たと思えたのだが……。

 男は、何事もなかったかのように肩をすくめ、彼を促した。


「コルデ団長が、お帰りですぜ」

「そうか。ありがとう」


 マシゥは窓を閉め、身支度を始めた。



 灰色の空に、犬たちの吼え声が響く。凍った土を踏む靴音と、橇を引き摺る音が交差する。毛皮の匂い、獣脂と煤の匂い、融けかかった泥の匂いが、風の中で混じり合う。

 その中を歩いていくマシゥと犬使いの上を、男たちの声が飛び交った。


「パンサ(麦の一種)だ! 食糧が届いたぞ!」

「酒もあるぞ!」

「やっと来たか!」


 合図を聞いて、建物や柱の影から、男たちが姿を現した。井戸を掘っていた者は手を止め、犬を繋いでいた者は、革紐を引いてやって来る。

 歓声は、すぐに落胆の呻きに変わった。


「なんだ。これっぽっちですかい」


 橇を囲み、荷台に詰まれた袋の中身を掌に取り出した男たちは、顔を見合わせた。


「軽い。随分痩せているな……」


 そのうちの一人が、橇の上に立つ男に声をかけた。


「ダンナ。ニチニキの連中は、俺たちを飢え死にさせる気ですかい?」

「我慢しろ」


 コルデは、ひらりと荷台から降り立つと、苛々した声で言い返した。片手に犬用の鞭を巻き、青みがかった碧色の瞳で、部下の男たちを見渡す。


「連中も、飢えているのは同じだ。雪が消えるまでは、耐えるしかない」


 まだ不満げな男たちを、一喝した。


「さっさと運べ!」


 怒鳴られて、男たちは、しぶしぶ橇を牽いて歩き出した。引き綱にもつれる犬たちを、追いたて、時には蹴りとばす。溜息が、白い煙となって立ち昇る。

 その様子を、マシゥは、犬使いと並んで見ていた。貯蔵庫へ向かう橇を見送って、振り向いたマシゥの目と、コルデの目が出合う。マシゥは会釈をしながら、素早く相手の人相を確認した。


 開拓団長のコルデは、予想していたより若い男だった。背は、マシゥよりやや高い――犬使いと比べれば、頭二つ分は高いだろう。毛織りの外套に包まれた身体は、痩せても太ってもいないように見える。

 帽子を脱ぐと、栗色の髪が現れた。短く切り揃えられていて、毛先は軽く巻いている。雪焼けしているが、肌色は明るく、切れ長の眼と鉤状の鼻が印象的だった。


「…………」


 犬使いを見て、マシゥが何者かを察したのだろう。団長は、ぐいと顎を上げて建物を示すと、先に立って歩き出した。


「使者とは……。王は物好きだな」


 部屋に入るとすぐ、コルデは切り出した。巻いた鞭を壁に架け、あかあかと燃えている暖炉の前に、足を開いて立つ。後から入ってきたマシゥと犬使いを、じろりと顧みた。


「それで?」


 コルデは、マシゥを、頭の上から靴の先まで、無遠慮に眺め透かした。


「お前は、奴等の言葉が解るのか?」

「いえ……」

「それなのに、使者だと言えるのか」


 唇の端を歪める。マシゥは肩をすくめるしかなかった。彼も無謀だと思っているのだが、お互いに初めて会う相手なのだから、仕方がない。

 二年前、この地の開拓が始まった際。森の中に、エクレイタとは違う風俗の人々が暮らしていると報せを受けた王は、すぐに使者を派遣することを決めた。友誼を結び、出来ればこちらへ帰順させるという方針自体は、悪いことではない……と、思う。しかし、方法は、極めて粗笨(そほん)だ。

 相手がどんな人々か――大国なのか。どんな文化を持っているのか。こちらに友好的なのか、どうなのか。まるで分からないのだ。

 マシゥは、それを調べる為に派遣されたのだといえた。友好的な意図をもって。

 言葉は、習うことが出来る。話し合うことが出来れば、同じ人間なのだ、理解することも出来るだろう。と、マシゥは楽観的に考えていた。それは、王の楽観でもある。

 少なくとも、いきなり斬りかかるよりは、ずっと良い……。

 王の使者である以上、コルデたちは、彼に協力しないわけにはいかないはずだった。


 団長の部屋の造りは、マシゥの部屋と変わらない。石と泥に囲まれた薄暗い部屋の真ん中で、マシゥは、やや緊張して、重心を左右へ動かした。


「フン……」


 その様子を、コルデは、冷ややかな眼差しで眺めていたが、顎を持ち上げ、犬使いを示した。


「ここの連中のことなら、奴に聞くんだな。ああそれと。あの異教徒どもに会うなら、気をつけろ」

「え?」

「連中は、火を崇拝している。だから、火を汚すことをすると、機嫌が悪くなるのだ。……こんな風に」


 コルデは、唾を火に向かって吐きかけた。紅い炎の舌が伸びて水滴を迎え、ジュッと音をたてる。同時に、それまで静かに佇んでいた犬使いの気配が一変したので、マシゥは息を呑んだ。

『え?』


「…………」


 犬使いは、すぐ、身体の緊張を解いた。感情を伺わせない黒い瞳が、コルデを見詰めている。

 砦の主は、挑むようにそれを見返して、嗤った。


「奴等は頑固だ」

「…………」

「特に、男はどうしようもない……。だが、女はいい。滅多に外に出てくることはないが、美しい」


 白い歯を見せ、微笑んだ。端麗と言っていい微笑だったが、瞳は笑っていなかった。

 マシゥは、何故か、嫌な予感がした……。


「行くなら、氷が融けてから、舟で川を上って行け。その方が速い」

「分かりました。お世話になります」


 マシゥは頭を下げたが、コルデは構わず、さっさと部屋を出て行った。食糧の分配をするのだろう。

 またしても放り出された形のマシゥは、半ば茫然としながら、犬使いを振り向いた。


「ええと」


 男は、黙って彼を見返した。平坦な瞳に、表情はない。

 マシゥは、ひどくばつの悪い心地がした。聞いてはならないことを聞いてしまったような、居てはならない場面に居合わせたような。


「そのぅ……。まだ、名前を聞いていなかった」


 口調を改め、右掌を服の胸元でぬぐってから、男の前に差し出した。


「私は、マシゥという。その。よろしく……」


 犬使いは、石のように硬い表情で、その掌を見下ろしていたが……やがて、ふと、頬を緩めた。

 しわがれた声が、穏やかに囁いた。


「わしらには、手を握る習慣はないんで……無視しても、気を悪くしないで下され。それから、簡単に名乗らんことです。逆に、警戒される」

「そ、そうなのか?」


 差し出した手のやり場に困って、マシゥは、握ったり開いたりを繰り返した。挨拶は、まず名乗り、武器を持っていないことを示すものだと思っていたのだが、流儀が違うらしい。

 それに、あのコルデ団長……。

 思っていた以上に、事は容易ではないらしい。と、気づいたマシゥは、眉を曇らせた。


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