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EARTH FANG  作者: 石燈 梓(Azurite)
第一部 神々の詞(ことば)
7/93

第一章 狼の仔(6)



          6


 ナムコから流れてくる歌が聞こえなくなっても、狩人たちは足を止めなかった。

 彼等は黙々と東へ進み、日が南へさしかかってから、森の片隅に橇を止めた。カラマツの樹皮を剥いで集め、火を()こす。犬たちに干し魚を与えて休ませ、自分達も食事を摂った。

 ビーヴァとエビは、火の傍に腰を下ろし、マツの実を齧りながら、(みち)を確認した。


「……すると。近くに棲家があると言うんだな?」


 エビの問いに、ビーヴァは頷いた。仲間たちは、滑り板の底についた雪を掻き落とし、武器の手入れをしながら、耳を傾けている。

 ビーヴァは、杖を使って、雪の表面に図を描いた。


「ルプスの家の、こちら側から見て、こっちの方角に、引き摺った跡があった……。ひとりだけなら、ゴーナは、その場で食事をする。待っている子どもがいたんだろう」

「ふむ」


 ヌパウパ(ヤマニラ)を漬けた酒を口に運び、エビは頷いた。冷酒が喉に沁み、顔をしかめる。男たちは穏やかに笑ったが、眼差しは一様に鋭かった。

 神として崇めているとはいえ、ゴーナ狩りは、命と命の遣り取りだ。気を抜けば、こちらが殺されるということを、みな承知している。

 仲間たちの顔をざっと見渡して、エビは立ち上がった。


「そこまで行って、二手に別れよう」

「ああ。……え?」


 ビーヴァが相槌を打って、立ち上がろうとした時だった。

 主人の傍らにいたソーィエが、振り向きざま跳ねた。同時に、その足元を駆け抜けた白い塊が、ビーヴァの皮靴にぶつかった。柔らかい毛の塊を踏み潰しそうになったビーヴァは、避けようとして、見事に尻餅をついた。

 仔狼は、とがった耳を立て、尻尾を激しく振りながら、喜びいっぱいの瞳で、ビーヴァを見詰めた。


「お前、ついて来ちまったのかァ」


 茫然とするビーヴァの隣で、エビが吹き出した。声をあげて笑い出す。

 犬たちが、にわかに騒がしくなった。橇につながれた犬の殆どが、新参者の匂いを嗅ごうとして動いたので、男たちは、彼等を鎮めなければならなかった。

 親しげに身をすり寄せてくるセイモアに、ビーヴァは溜息をついた。


「困ったな……。ラナは、何をしていたんだ?」

「連れて行ってやればいいじゃないか」


 ニルパが言った。エビは、息を切らして笑っている。

 顔を舐めるセイモアを、片手で退けて、ビーヴァは身を起こした。もう一方の手で、腰についた雪を払う。無邪気なルプスの仔を見守る男たちの表情は、温かい。


「でも……」


 セイモアの銀色の毛は、ところどころ、凍りついた雪でむすぼれていた。手櫛で梳いてやりながら、ビーヴァは言い淀んだ。


「何か、問題があるのか?」


 エビが、笑いを呑んだ声で訊く。切れ長の眼に怜悧さが戻るのを、ビーヴァは見返した。


「危険だよ」

「ソーィエも、俺たちもいる。大丈夫だろ」

「そうじゃない」


 青年が首を横に振ったので、男たちは笑いを収めた。ニルパを顧みて、ビーヴァは続けた。


「セイモアは、生き残りだ。行けば、思い出すだろう。ゴーナの方も、覚えているかもしれない。……下手をすると、呼び寄せる」

「…………」


 ニルパはエビを振り返り、エビは、軽く眉根を寄せて考え込んだ。二人とも、ビーヴァの言葉の意味を理解した。セイモアではなく、一同の身を案じているのだ。


 ゴーナ(熊)狩りに向く資質をもつ犬は少ない。

 自分より遥かに大きく、力が強く、牙も爪も備えたゴーナに――まともに戦えば敵うはずのない相手に、敢えて立ち向かうことの出来る犬は少ない。そういう勇気と知恵をもつ仔犬を選び出して猟犬に育てることは、さらに困難だ。

 犬ではなく、躾けもされていないルプス(狼)を連れていけば、ソーィエたちを混乱させる可能性があった。狩りの場面では、一瞬の迷いが、生命の危機に直結する……。

 人間たちの事情など知ったことではないルプスの仔は、雪の上に腰を下ろし、後足で耳の後ろを掻いている。その様子を眺めて、エビは苦笑した。


「置いていくわけには、いかないだろう?」

「…………」


 仕方がない。

 ビーヴァは肩をすくめると、セイモアを抱き上げ、短い尾をぴこぴこ振っている《彼》を、外套の中に押し込んだ。襟から顔を覗かせる仔狼の額を、軽く撫でる。


「大人しくしていてくれよ……」


 セイモアは彼の指を舐めたが、言われたことをちゃんと理解しているかどうかは、甚だ怪しかった。

 火の女神を信仰する森の民は、焚き火を敢えて消すことはしない。燃え尽きるのを待って、エビが声をかけた。


「さあ、行こう!」


 男たちは立ち上がり、滑り板に乗って歩き始めた。また、数人が橇を牽き、犬たちを助ける。

 彼等は、日暮れ前にゴーナをみつけるつもりだった。



 セイモアは、幸せな気分でいた。毛皮の外套の中は狭いが、暖かく、慣れた匂いが心地よい。滑り板(ミニスキー)が風を切る速さも、新鮮だ。

 ラナといるのも悪くはない。しかし、ビーヴァと一緒の方が、安心する。

 《彼》の中で、この無口な若者は、いつしか大きな位置を占めるようになっていた。


 犬たちは懸命に橇を牽き、橇につながれていないものも、狩人たちを導くように先に立って進んだ。セイモアは、ビーヴァの懐でくつろいでいたが、やがて、懐かしい匂いに気づいた。

 一行は、かつての《彼》の家族の縄張りに入っていた。セイモアは首を伸ばし、風に飛ばされた記憶を嗅ぎ取ろうとした。

 ビーヴァは、その仕草に気づいたが、黙っていた。


 西向きの斜面に、掘り起こされた穴が剥き出しになっているところまで来て、男たちは橇を止めた。早速、ソーィエたち、獲物を追う役の犬が、興奮気味に鼻を鳴らして、辺りを嗅ぎ始める。セイモアも、外套から出してもらい、参加した。

 この場所で起こったことを知る者も、知らない者も、ゴーナの巨大な足跡を見ると、表情を引き締めた。

 雪は未だに凍りついていたが、遺体は、あの時のままではなかった。ゴーナの爪に引き裂かれたルプスたちの身体は、今では、骨に毛皮がまとわりつくだけになっている。ゴーナの仕業ではない。もっと弱く小さなものたち――カラスやキツネ、野ネズミたちが、おこぼれにあずかったのだ。

 森のテティ(神霊)は無情で、無駄がない。かつてルプスに狩られたものたちが、その遺骸を食べ、残った骨も、リスや虫に齧られて、ゆっくりと消えていく……。雪に半ば埋もれた頭蓋骨を、ビーヴァは感慨深く眺めた。

 セイモアは、ソーィエたちと一緒にその匂いを嗅いでいたが、突然、なんともいえない感覚に襲われて、背中の毛を逆立てた。


「セイモア」


 囁いて、ビーヴァは手を差し伸べた。


「おいで……」


 ルプスの仔には、恐怖の理由は解らなかった。ただぼんやりと、あの闇の臭いを思い出し、身体の自由が利かなくなった。

 きゅうん、と小声で泣く《彼》を、ビーヴァは抱き上げ、再び懐に入れた。

 人と犬、ルプスとキツネ、カラスなどの匂いが混じり合う中から、古いゴーナのそれを嗅ぎ分けた犬たちは、北東に鼻を向けて立ち止まった。ちょうどいい具合に、風上になっている。

 男たちは顔を見合わせ、頷いた。


「行くか?」

「ああ」


 短く意思を確認すると、彼等は、犬の首につけた革紐を外した。


「タァ(行け)!」


 励まされて、犬たちは、獲物のいる方角へと、我先に駆け出した。中には、ソーィエの姿もあった。

 男たちは、弓と槍を取り出した。いつゴーナと遭遇してもよいよう身構え、彼等は、橇と共にこの場所に残る仲間に声をかけた。


「行ってくる」

「ああ。気をつけて……」


 ビーヴァは、セイモアを入れた外套の襟をしっかり合わせると、エビと並んで滑り出した。


 しばらく行くと、木立の向こうから、ワンワンワン……という、犬たちの合図が聞こえて来た。ルプスの仔には、こう聞こえた。


『ここだ、ここだよ!』

『はやく、はやく、はやく……』


 先刻の嫌な臭いは、ますます強くなっていた。行きたくない方向へビーヴァが向かっていることを察した《彼》は、抗議をこめて鼻を鳴らしたが、聞き入れてもらえなかった。

 セイモアの背中の毛は、ちりちりと逆立った。鼓動が速くなる。不安になって身じろぎする《彼》を、ビーヴァは、外套の上から片手で押さえた。


「いたぞ!」


 林の向こうにゴーナの姿をみつけて、エビが叫んだ。ビーヴァと数人の男たちは、弓に矢をつがえた。

 急な斜面を、犬たちに追い立てられて登って行く、大きな黒い影が見えた。カラマツの枝が重なり合っていて、矢を射ることが出来ない。

 ニルパが投弾帯を取り出した。革帯の膨らんだ部分に丸石を載せ、すばやく振って投げる。矢より飛距離のある石つぶては、ゴーナの硬く盛り上がった肩に当たり、足を止めさせた。

 応援が駆けつけたことを知って勢いついた犬たちが、ひときわ激しく吼える。追い詰められたゴーナは、怒りの声をあげた。


 グワオーオゥ!!


 その咆哮は、ただでさえ怯えていたルプスの仔を、震え上がらせるのに充分だった。ユゥクの毛皮の中で尻尾を丸めていた《彼》は、逃げ道を探してもがき、外套の襟からこぼれ落ちた。

 外は、嵐のような騒がしさだった。

 ソーィエたちは、ゴーナの爪にかけられないよう一定の距離を置いて、吼え続けた。右へ左へ、逃げる方向を探すゴーナの前に駆け出しては、跳び下がる。傾いた日差しを反射して、彼等の牙は金色に煌いた。

 ゴーナは苛々していた。犬どもは、一頭が下がれば、別の一頭が前に出て、彼女を釘付けにする。吼える声と、矢が降りかかる。怒って前足を振り回す彼女の足元に、白い毛玉が転がり落ちてきた。


「セイモア!」


 慌ててビーヴァが呼んだが、どうすることも出来ない。目を瞠るルプスの仔の前に、エビが、槍を構えて跳び出した。

 その時、ゴーナが立ち上がった。


「…………!」


 思わず舌打ちするエビの足の間をすり抜けて、セイモアが動いた。《彼》は、まったく狼流に、一声もあげずにゴーナに駆け寄ると、踵に噛みついた。

 一瞬ひるんだゴーナの胸を、エビの槍が、深々と貫いた。

 ゴーナは、エビに抱きつくようにして、どうと倒れた。



 太陽は西の山の向こうに去り、森は、藍色の闇に包まれた。

 ゴーナを仕留めたという報せを聞いて、橇と共に残っていた者たちが、追いついて来た。彼等は、途中でゴーナの巣穴をみつけ、丸々と太った仔ゴーナを一頭捕らえていた。

 男たちは、火を()こした。ゴーナの遺体を橇に乗せると、頭に削ったシラカバの樹皮を巻き、イトゥ(神幣)と干した魚の身と酒を捧げ、祈った。


   慈悲深きイェンタ・テティ(狩猟の女神)よ 

   我等を守りたもうたことを 感謝します


   偉大なるゴーナ・テティ(山の神)よ 

   我等が罪を 赦し給え


   美しきモナ・テティ(火の女神)よ

   おんみが同胞(ともがら)に 伝え給え

   ムサ・ナムコ(人間の国)の豊かさを

   おんみが養いし 子らのもてなしを……



 ビーヴァは、弓弦を三度鳴らし、鏑矢を放って、ゴーナの魂を天に送った。

 儀式を終えた彼等は、ようやく人心地ついた。寒さと緊張で強張っていた頬が緩み、満足の笑みがこぼれる。犬たちも、火の周りでくつろいだ。

 食事を終えた男たちは、柱を立て、ユゥクの毛皮を重ねて簡単な小屋を建てると、眠くなった者から順に中に入った。

 ビーヴァは、温めたウオカ(酒)を入れた器を持って、エビの隣に腰を下ろした。器を差し出して、訊ねる。


「大丈夫か? エビ」

「ああ」

「怪我は?」

「ない」


 エビは、微笑んで酒を受け取った。

 活躍したのか足手まといだったのか、よく判らないルプスの仔は、疲れて、ソーィエの足元で丸くなっている。その背をそっと撫で、ビーヴァは囁いた。


「今日は、ごめん……。やはり、連れてくるんじゃなかった」


 エビは、器から口を離すと、ゆっくり首を横に振った。


「お前は、ちゃんと警告してくれた。従わなかったのは、俺の方だ。それに……勇敢なことと、むこうみずなことは違う」

「…………」

「敵を恐れ、戦いを避けるのは、知恵がある証拠だ。ルプスは、頭がいいんだよ」


 そう言って軽く唇を歪めたのは、己を諫める気持ちがあったのかもしれない。


「…………」


 ビーヴァは、黙ってセイモアの背を撫で続けた。言われるまでもなく、ルプスの賢さを疑う彼ではなかったが、エビが改めてそう言ってくれたことで、少しほっとした。

 仲間たちが談笑している。酔った誰かが、歌を歌い始める。

 ソーィエが、あふっと欠伸をした。ぶるると身を震わせ、丸くなる。

 エビが眠りに就いてからも、ビーヴァは、暫くセイモアの傍に座り、星を眺めていた。


          *


 翌朝も、よい天気だった。

 出発した時より重くなった橇を、男たちは、意気揚々と牽いて帰った。ナムコの前では、一族の者が、並んで彼等を待っていた。


「セイモア!」


 ルプスの仔の姿を認めたラナが、大声をあげて駆けて来た。ソーィエと並んで歩いていたセイモアは、尾を振って彼女を迎えた。


「良かった。何処に行っていたの? 心配したんだから……」


 衣が雪に濡れるのも構わず、抱き上げて頬ずりをする。少女にとっては、ゴーナも、男たちの身も、どうでもいいらしい。

 顔を見合わせて失笑する彼等の前に、長が進み出た。


「ご苦労さま。皆、怪我はないか?」


 長は、ゴーナに向かって拝礼してから、狩人たちに声をかけた。エビたちは、軽く一礼して、それに応えた。

 村に残っていた者たちが、橇を牽いて行く。一頭のゴーナをしとめれば、暫くの間、食べるものには困らない。大喜びしていても不思議ではなかったのだが、彼等の表情は冴えなかった。

 ビーヴァは首を傾げた。仲間の気持ちを代表して、エビが訊ねた。


「何か、あったのですか?」

「うむ……」


 長は言いよどんでいたが、改めて男たちの顔を見渡すと、訊き返した。


「……ニルパは?」

「え?」

「ニルパ?」


 エビとビーヴァは、顔を見合わせた。


「先刻まで、そこにいたと思ったのに……」


 行きは、確かに一緒だった。セイモアが追いついた時、ゴーナを追い詰めた時にも。しかし、それから後は、もの静かな友の姿を、見た覚えが無い。

 他の仲間たちも、周囲を見渡した。


「おーい、ニルパ!」


 幾人かが、やって来た方へ向かって呼びかけたが、声は虚しく森に木霊するだけだった。

 長の顔が、みるまに翳る。エビも、頬を引き締めた。


「探して来ましょうか?」

「いや。その必要はない」

「…………?」


 不可解な言葉だった。はぐれたのであれば、早くみつけなければ、命が危ないというのに。――そう思う彼等の表情を読んで、長は、溜息をついた。


「姿を見た者がいる……。アリ(村の娘)が、いなくなった。ニルパと一緒に、逃げたのだ……」

「…………!」


 エビは、普段細い眼を丸く見開いた。

 ビーヴァは、その横顔を見詰めたものの、咄嗟には、何のことだか解らなかった。

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