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EARTH FANG  作者: 石燈 梓(Azurite)
第三部 大地の牙
64/93

第一章 麦の民(3)

暴力表現があります。



          3


 ヒュッ、ヒュッ。ヤナギの枝が風に鳴るたび、ちぎれた草の葉が宙にまう。ときに、枝は地をうち、小石や小枝をはねあげる。それらは、大股に歩き続けるトゥークの髪にふりかかり、頬を叩いたが、少年は枝を振るのをやめなかった。

 コルデ率いる開拓団の足跡と、略奪品をのせた橇の跡は、テサウ砦から出てロマナ湖の東岸をまわり、荒野のなかをニチニキ邑へと向かっている。トゥークは、その道をはずれ、森のなかへ入っていた。途中で拾ったヤナギの枝をふりふり、生い茂る草のなか、消えかけた足跡をたどる。

 少年は、ときおり背後をかえりみた。追手の姿はなく、木々の梢をゆらす風のなかに、犬の吼え声やにおいは交じっていない。しかし、彼のほとんど癖になった眉間の皺が、消えることはなかった。

 見覚えのあるベニマツの幹をまわり、シダの茂みをかきわけると、間近で バササササ……と羽音がして、トゥークをすくませた。黒い翼の表面に虹色の光沢をもつワタリガラスが、頭上をあざけるように旋回し、飛び去って行く。


「…………!」


 トゥークは、目を大きくみひらき、うすい胸郭のなかに踊る心臓を抱いて、そのすがたを見送った。驚いた、などという程度ではない。生きながら霊魂をぬかれる気分だ。

 刺青のない者を、テティ(神々)が気にかけるはずがない……。

 そう己に言い聞かせ、波立つ感情をしずめる。トゥークは、ヤナギの枝を捨てて歩き出した。斜めに伸びたモミの枝をくぐると、ベニマツの木立に隠れるように建つ、くずれかけた小屋が現れた。


「…………」


 トゥークは、一瞬足を止めて眼を細め、そっと小屋に近づいて行った。

 入口の扉は、外側に倒れていた。割れた板の隙間から、下草がのぞいている。踏みやぶいてしまわぬよう、慎重に迂回して中に入る。

 柱は傾き、壁に張ったユゥクの毛皮はそこかしこに穴があき、裂けて垂れ下がっていた。屋根をふいたモミの枝はこぼれ、青空がみえている。寝床にかさねたヤナギの樹皮にはカビが生え、留守の間にキツネでも入ったのだろう――シム団子やホウワゥ(鮭)を吊るしておいた縄はちぎられ、なくなっていた。

 一見して、父はここに帰って来ていないのだと理解できる。


「…………」


 トゥークは溜息を呑んで、火の気の絶えてひさしい炉の傍らに佇んだ。

 使者の男(マシゥ)とともに砦を出たあの日から、彼は父のすがたを見ていなかった。テサウ(砦)におらず、ここへも立ち寄っていないとなると、いったいどこへ行ったのだろう。まさか、氏族のもとへ戻ったわけではあるまい。

 ひとあし先に、ニチニキへ行ったのだろうか? あそこには、あの女がいる。

 それとも。コルデたちの行状に嫌気がさして、ついにこの地を離れたのだろうか。

 ……息子を置いて?


 少年は肩をおとし、ゆっくり首を左右にふると、踵を返した。

 ニチニキへ行くのは、気が進まなかった。父が氏族を追放される元凶となった女と、コルデたちがいるから、というだけではない。

 月の女(ロキ)の、闇色の瞳に燃える炎。シャム(ラナ)のしずかなまなざしを想いだし、トゥークの気はしずんだ。少女の(しろ)い肌が脳裡にうかび、慌てて首を振る。

 エクレイタ族の邑に、自分の居場所はない。しかし、父とはぐれた今、ほかに身を寄せられるところはない。

 トゥークは、のろのろと小屋を出た。

 その時だった。

 小屋の陰から音もなく走りでた影が、背後から彼につかみかかった。焦って逃げようとしたトゥークの足はもつれ、ぬかるみに片手を着いた。草の葉に足をとられながら、半ば這って移動する。その行く手に、別の影がまわりこむ。気付くと、複数の影に囲まれていた。


「ひっ……!」


 逃げ道をさがすトゥークに、誰かが足払いをかけた。少年は、勢いよく前へ飛ばされ、大地に胸をぶつけた。急いで身をひるがえし、追手に向きなおる。

 眼前に、朱と墨で彩色された四角い木の仮面が迫っていた。うつろにくり抜かれた眼窩の奥から、アンバ(虎)を思わせる鋭い瞳に見据えられ、少年は息を呑んだ。アンバの牙と爪のかわりに、磨きぬかれた黒曜石の槍、ユゥクの角から削り出したマラィ(長刀)、スルク(毒)を塗った鏃などが、のど元に突きつけられる。

 持ち主の守護神を彫刻した長い棒が、彼の腕と膝を叩き、じんと痺れさせた。

 トゥークは、仮面の男たちに囲まれ、尻もちをついた格好で大地に縫いとめられた。ごくりと唾を飲むと、槍の穂先がのどに触れ、ちくりと痛みが走った。


 褐色の影のひとつが、ゆらりと動いて、おびえる少年の前に立った。


「久しぶりだな、小僧……。俺を覚えているか」


 くぐもった声で話しかけながら、仮面をはずす。トゥークは呼吸を止めた。現れた顔には、鮮やかな藍の炎と、どぎつい朱の紋様が重なって描かれていた。炎は火の神モナを、朱は復讐の血を表している。相手の名は知らずとも、それだけで、彼の生命を縮めるには充分だ。

『アロゥ族の――』


「裏切り者、トゥーク」


 エビの隣の男が、押し殺した声で言った。胸を()かれた心地がして、トゥークはそちらを見た。こちらは仮面を外さず、矢を手にしている。鏃の先がぬれているのは、スルクを塗っているからだろう。

 また別の方向から、仮面をはずした男が声をかけてきた。


「ワイール族の面汚(つらよご)し、トゥーク。兄殺しの罪は重いぞ」


 おしころした声には、殺気が感じられた。その男の頬には、ワタリガラス(ワイール族の守護神)の紋様があった。

 『兄殺し』……トゥークは、身体から、血がざあっとひくのが分かった。頭の芯がカッと熱くなる。

 彼は、思わず叫んだ。


「違う! オレは、案内しろと言われただけだ! あいつを! (おど)されていた! 裏切ったんじゃない!」


 言い終えた途端、がつんと音がして、右の耳に火がついた。彼の身体は軽々と飛ばされ、ベニマツの幹に叩きつけられた。世界が反転し、目の前に火花が散る。

 マグが、拳をにぎりしめたまま、怒鳴った。


「裏切ったのではない、だと? 家族を()くした者の前で、それを言うか!」


 トゥークは呻き、両手で頭をかばって身を縮めた。口の中に血の味が充満する。言い返してやりたくとも、言葉は喉に詰まって出てこない。

 頭上から、別の声が降って来た。


「ロマナ(湖の女神)は、すべてを観ているぞ。トゥーク」


 ワイール族のルーナが、身をかがめ、少年の肩をつかんで引き起こした。爪が皮膚にめりこみ、いつでも首を絞め殺せるのだぞ、という無言の脅迫を伝える。


「ムサ(人間)は(あざむ)けても、テティ(神霊)は欺けない……。天の翼、風の爪、大地の牙にかけて答えろ! 女たちは何処にいる。」

「…………」


 トゥークは、恐怖でがちがち震える歯を噛みしめた。鼻から流れ出た血が、唇から顎へと伝い落ちる。

 マグは彼の顎にマラィを突きつけ、ルーナは棒を脇腹に押し当てた。

 エビが、再びゆらりと体を動かして、少年に近づいた。無表情に問う。


「シャム(巫女)は、どこだ?」


 男の声は地の底から響き、少年の脊髄をはいのぼり、うなじの毛を逆立てた。トゥークは、血まじりの唾液を飲み下した。その表情を観て、彼が問いの意味を理解していると察したエビは、膝を折って腰をおとし、さらに間合いを詰めた。

 低い声は、牙をむいてうなるルプス(狼)を思わせた。


「……ラナさまは、何処にいる? 答えろ。王の首を、何処へ隠した?」

「コ、ルデ、が――」


 トゥークの声はかすれ、裏返った。ねばつく血を飲み、言い直す。


「――持って行った。コルデが。ニチニキへ。……あとは知らない。本当だ……」

「…………」


 エビは眼を細め、彼の顔を凝視した。底のない闇を宿した瞳の奥で、金の光がきらめく。トゥークは、そこから目を離せなくなった。

 マグがマラィの先を使って、少年の顎をのけぞらせた。


「女たちも、そこに居るんだな?」


 トゥークは肯こうとしたが、顎がかすかに揺れただけだった。


 マグは刀の切っ先を下げずに、エビを顧みた。ルーナは、少年の腋に棒の先をねじこみ、動きを封じている。

 エビは、しばらくトゥークの顔をみつめていたが、身を起し、離れた。腰のマラィに片手を置き、左右の仲間に視線を向ける。

 声は、軽い戸惑いを含んだ。


「やはり、奴らのナムコ(集落)に行かなければならないようだな……」

「どうする、エビ」


 仮面をつけた男が、もごもごと言った。


「下手をすると、この前の繰り返しになるぞ」

「ラナさまたちを、危険に晒すことになる」

「…………」


 仲間たちが口々に訴えるのを、エビは、自身の胸のまえで腕組みをし、眼を伏せて聴いていた。マグとルーナに捕らえられているため、身動きがままならず、トゥークは彼を見ていた。――それで、男たちの困惑を理解する。王の娘と女たちを人質にとられているため、ニチニキを攻めあぐねているのだ。

 なんとか、この機に逃げ出すことができれば……。

 男たちの手から逃れる隙をうかがう、トゥークの前で、ふいにエビが眼を開けた。鋭いまなざしが、まっすぐ少年の胸を射た。


「ところで。こいつをどうする?」


 トゥークの鼓動が速くなり、こめかみがズキズキと痛みはじめた。男たちは、黙りこんだ。仮面をつけている者も、顔を晒している者も。

 一同をぐるりと見渡して、エビは何事かを考えているようだったが、穏やかに促した。


「偉大なるシャマン(覡)の一族よ(ロコンタ族の尊称)、どう思う?」


 問われて、ロコンタ族から来たチャンクとワンダは、仮面ごしに互いの顔を見た。一方が、抑揚のない口調で応じる。


「我らが王は、テティとなってこの地を彷徨っておられる。……我らが見逃したとて、王が見逃されるとは、思えない」


 エビは顔の筋肉を動かさず、否定も肯定もしなかった。平板な眼差しを、カナへと向ける。


「シラカバの兄弟(シャナ族)の考えは?」


 カナとホウクは、瞼を伏せ、右手の拳を胸にあてて哀悼の意を示した。ホウクが面をあげ、エビを見つめ返す。


「トゥークを殺しても、殺された子どもたちは、還らない。だが、殺されたのは、アロゥ氏族の子どもたちだ」


 エビは、この言葉を聴くと、眼を閉じた。ゆっくりと瞼を開け、ワイール族のルーナを見遣る。

 トゥークを押さえているルーナの代わりに、同じワイール氏族出身のユイが言った。


「裏切りに対する罰は、追放だ。……兄弟殺しの罪は、死をもって償うのが、我らの掟だ」


 ユイの声はしわがれ、殺気を帯びていた。

 エビは、眉を曇らせた。ルーナの態度とユイの言葉にふくまれる、彼らの(いか)りを理解する。


 父親が追放された日から、ナムコ(集落)に残ったディール(トゥークの兄)が負っていた苦悩は、どれほどのものだったろう。それでも、最期まで母を支え、氏族に忠誠を尽くし、弟の身を案じていた。彼の死によって、この闘いは、ワイール氏族のものになった。

 盟主(アロゥ氏族長)のためだけではなく、殺された子どもたちのためだけでもなく……。彼らは、ディールの無念を晴らさんとして、ここにいるのだ。


 エビは、裏切り者を出し、犠牲を出した氏族の男たちの苦悩を察し、眼の前の少年をあわれんだ。彼の目に、トゥークは、いかにも子どもに映った。痩せた身体はひょろりとして頼りなく、恐怖をかくす余裕もない。容易に想像できる……。確固とした意志があって行動しているわけではなく、生き延びるために、状況に流されてきただけなのだろう。

 ただ。

 ……幼さで済ませるには、彼の行為が招いた結果は重大すぎた。故に、エビのあわれみは、自分でも驚くほど冷徹だった。

『俺は、こんなに残酷なものの考え方をする人間だったろうか。』 そんな考えが頭の片隅にひらめき、エビの唇を歪ませた。


「……お前に、汚名を晴らす機会を与えてやろう」


『え?』 と言うようにトゥークの口が動いたが、声は出さなかった。エビは、軽く顎をふってマグに刀をひかせると、他人事のように言った。


「俺たちのために、働く気はないか?」


 トゥークは無言で、わずかに眼をみひらき、エビを見詰めた。心臓ははげしく鼓動を打っていたが、出来るだけそれをおもてにあらわさないようにする。

 エビも、唇の端に皮肉をぶらさげてはいるものの、黒い瞳と単調な声音からは、真意をうかがうことはできなかった。重心を一方の脚からもう一方へ移し、淡々と続ける。


「俺たちを、奴らのナムコ(ニチニキ邑)に案内するのだ。女たちを助け出す、手伝いをしろ」

「…………」


 トゥークは、ごくりと唾を飲んだ。

 少年の目に、生きることへの渇望がきらめく。それはすぐ不審に代わり、絶望と反感へと移り変わった。ひとまたたきの間の変化を、エビはじっと見守っていた。

 マグとルーナが、戸惑ったように顔を見合わせる。他の男たちも。

 少年の返事がないのをみて、エビは促した。


「嫌か?」

「い――」


 トゥークの喉はかわき、こわばっていた。唾液も空気も詰まった狭い喉頭をこじあけ、なんとか声を絞り出した。


「いや、だ……」


 言い終えると同時に、背筋がすうっと冷えた。トゥークは死を覚悟したが、エビの態度は変わらなかった。


「そうか」


 あっさり言うと、再び顎を振って、仲間たちを動かした。マグは舌打ちをして刀を鞘へおさめ、ルーナは長棒を手に立ちあがる。男たちが身をひく気配を感じ、トゥークは、やや呆然と彼らを見まわした。

 それから、地面に尻をつけたまま、じりじりと後ずさる。

 おそるおそる男たちから離れると、少年は身をひるがえし、弾かれたように駆けだした。背後から射られる恐怖におびえつつ、ベニマツの木立へ駆け込んでいく。

 見送るエビに、サンが声をかけた。


「エビ」


 サンは、顔を覆っていた仮面をずらし、両目をのぞかせた。朱のふちどりを施した双眸で、少年の逃げさった方を見遣る。


「本気で、あいつに手伝わせるつもりだったのか?」


『そうだ。どういうつもりだ』と言わんばかりに、マグも彼を顧みた。

 エビは、抗議のこもった視線を片方の頬で受けとめ、フンと嗤った。魚皮製の靴のかかとで足元の小枝を払い、独り言のように言う。


「引き受ければ、俺が奴を殺していた」

「…………」

「案ずることはない」


 仮面をかぶり、頭のうしろで革紐を結びながら、『これが、ケレ(悪霊)に憑かれるということか』――冷めた気持ちで考える。エビの脳裡には、殺された息子と、ロキのすがたがうかんでいた。


「どうせ、奴に行くところはない。のんびり跡(足跡)を追っていこう……」


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