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EARTH FANG  作者: 石燈 梓(Azurite)
第一部 神々の詞(ことば)
13/93

第二章 森の民(6)



          6


 夢の中を、ビーヴァは彷徨っていた。

 右も左も判らず、手足の位置さえ判らない。濃い闇を掻きわけつつ、彼は、息を切らして駆けていた。急がなければならない。急いで探し出さなければならない。

 何を?

 ――目標が、分からない。それなのに。

 焦っていた……『早く。はやくしなければ、消えてしまう。』

 ソーィエを呼び、エビを呼ぶ。母も、友も、氏族も、慣れ親しんだもの全てが失われようとしている。己が生きてきた世界そのものが、消え去ろうとしているのだ。

 既に我が身の半分は、喪われてしまっていると感じた。途方もない喪失感に、押しつぶされそうになる。無力感に、砕かれてしまいそうだ。

 闇は音もなく押し寄せ、彼を包んだ。温かく湿った風が頬に触れ、ビーヴァは、水の匂いを嗅いだ。

『ああ、もう間に合わない……。』

 そう思った途端、足元から急速にせり上がった水が、彼を呑みこんだ。頭巾が外れ、髪が解けてゆらめき、外套の袖がふくらむ。水は、外と内から青年を浸し、輪郭を滲ませた。

 その中に、光があった。

 ビーヴァの目に、黒い森と、雪を抱いた山々、ロカム(鷲)が翼をきらめかせて飛んで行く姿が映った。大角を掲げたユゥクの群れが、谷を渡っていく。ワタオウサギが駆け、紫の蝶の大群が舞い上がる。

 巨大な白いルプス(狼)が、彼の上を跳び超えていく……。

 濃厚な存在の(うみ)に融けながら、ビーヴァは、テティ(神霊)に囲まれていると感じた――。



「…………」

 ざらりとした感触に、ビーヴァが眼を開けると、小さな花びらのような舌が見えた。セイモアが、鼻を鳴らして頬を舐めている。彼は、ぼうっと瞬きを繰り返した。

 頭の芯がズキズキする。身体は、水を吸った流木のように重い。……何故、こんなに頭が痛むのだろう?

 くすんくすん甘えてくる仔狼を片手で撫でながら、彼は、周囲を見渡した。

 天窓から、淡い朝の光が差し込んでいる。その下で、女性が髪を梳いていた。衣を、袖を通さず肩にかけ、栗色の長い髪を、一本の辮にまとめている。おくれ毛が光を含み、金色に輝いて見えた。

『きれいだな……』と、ビーヴァは思った。言動はさばけているが、キシムは美人だ。

 キシム?

 ビーヴァは目をこすり……目を(みは)った。


「目が覚めたか。大丈夫か?」


 キシムは振り返り、手早く衣をととのえた。青年の視線は、一瞬、彼女のほの白い内股に吸い寄せられた。ビーヴァは、ごくりと唾を飲んだ。

 キシムは、怪訝そうに首を傾げた。相変わらず、あっけらかんとしている。


「どうした? 何を、変な顔をしている?」

「え……」


 何故、俺はここに居る? 何があった?

 混乱するビーヴァに、キシムは、さらりと言葉を投げた。


「驚くことはないだろう。昨夜は嬉しそうだったぞ」


 ゆうべっ?

 ビーヴァの頭に、かあーっと血が上り、視界が真っ白になった。

『何があった? いや、何をした? 覚えていない……覚えていないぞ!』

 青年が思考の渦で溺れていると、低い笑い声がして、部屋の入り口の覆いが開かれた。


「キシム。からかうのは、そのくらいにしておいてやれ」


 カムロの後ろから、エビも顔を出した。


「大丈夫か? ビーヴァ」

「エビ……」


 よほど情けない表情をしていたのだろう。エビは、ビーヴァを見るなり、笑いを噛み殺した。


「一人でぐいぐい飲んでいると思ったら、眠り始めたんだ」

「…………」

「セイモアは、お前から離れようとしない。仕方がないから、キシムに世話を頼んだ。大丈夫か。吐いてはいないか?」


 茫然としているビーヴァの代わりに、キシムが答えた。


「大丈夫だったよ」


 悪戯っぽく片目を閉じて


「でもなあ。本当に初めてだとは、思っていなかった。可愛かったけれど、出来れば、酔っていない時に見てみたかったな」

「…………」


 めまいがしてきた。

 ビーヴァは、もごもごと世話になった礼を言うと、仔狼を抱え、逃げるように外へ出た。それから、エビと一緒に荷物をまとめ、テイネに挨拶をしに行く。

 カムロとキシムは、二人をナムコの外れまで見送ってくれた。カムロは、エビを気に入ったらしい。


「気をつけて帰られよ。アロゥの長に宜しく伝えてくれ。……貴公とはまた会いたいな、エビ。今度は、我々が伺おう」


と言って、片手を挙げた。

 エビも、殴られて赤く腫れている頬を歪め、微笑んだ。


「ああ。待っている」

「またな、ビーヴァ」


 キシムは笑って手を振ったが、ビーヴァは、彼女の顔をまともに見ることさえ出来なかった。

 帰りは徒歩だ。はしゃぐセイモアを連れて歩き出しながら、エビは、不思議そうに耳うちした。


「お前、本当に、初めてだったのか?」


 氏族内での恋愛は禁じられているが、男は、狩りなどで出かけることが多い。近隣の集落へ立ち寄った際や、祭りの時など、他氏族の娘をみそめる機会はいくらでもある。


「…………」


 ビーヴァが答えられずにいると、エビは、ほかっと口を開けて彼を眺め、それから笑い出した。最初は声を殺していたが、ゆっくりと顎を上げ、ついには胸を反らして笑い続ける。

 どんな表情を作ればよいか分からず、ビーヴァは項垂れた。エビは、相棒の肩を、親しみをこめて叩いた。


「……ロマナ(湖の名)へ寄って行かないか」


 エビは、目尻にうかんだ涙をぬぐい、深い声で言った。肩に担いだ荷袋を、負い直す。


「そろそろ、氷が融ける頃だろう。ユゥクが来ているかもしれない」

「そうだな……」


 春に若いユゥクに生える袋角(ふくろつの)(皮膚を被った角)は、彼等の好物だ。ビーヴァは、気を取り直して頷いた。


       **


 木々の梢からこぼれる日差しが雪を融かし、大地をまだらに染めた。エビとビーヴァは、滑り板(ミニ・スキー)を使うのを止め、フキノトウやアザミの若芽を採りながら進んだ。

 森は、生の気配に満ちていた。

 透明な雪融け水が、そこかしこに小さな流れを作っている。カラマツの枝をリスが走り、ライチョウが鳴く。羽ばたきの音も聞こえた……。野ネズミがヤナギの根元を走り、ワタオウサギの白い尾が、ちらりと視界の隅で閃いて消える。

 表面の柔らかくなった土に、無数の足跡が残っていた。セイモアが、フンフン匂いを嗅ぎ、興奮して駆け回る。男たちは、跡を追わなかった。

 自分たちの分の食料はある。ナムコで待つ家族のために、ユゥクが一頭欲しいのだ。


 二人は、サルゥ川を渡ると方向を変え、ロマナ湖を目指した。川幅が広がり、木立の向こうに藍い湖面が見え始めたところで、ユゥクの足跡をみつけた。

 空気は澄み、風は、遠い山々にまで声を運ぶ。森では無駄口をきかないのが、イェンタ・テティ(狩猟の女神)への礼儀だ。二人は、無言で跡を辿った。

 足跡は、雪と土の上を交互に踏んで行き、やがて、若芽を齧られたサルヤナギの枝の前に、彼等を導いた。幹には、身体をこすりつけた跡と、褐色の毛が付着している。

 ユゥクが、ここを通ったのだ。樹皮に残る傷が瑞々しいところをみると、まだ近くにいるのかもしれない。


「…………」

「…………」


 狩人たちは目配せをすると、風下に移動を始めた。セイモアも、はしゃぐのを止め、二人の傍らをするすると歩く。ビーヴァの手には、弓とユゥク用のスルク(毒)を塗った矢が握られている。

 音をたてないよう細心の注意を払い、かつ、素早く。鼻先を低く保ち、尾をまっすぐ流して進んでいたセイモアが、突然立ち止まった。

 男たちの目にも、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の大木の影にたたずむユゥクが見えた。握りこぶしのような形の袋角を持つ、若い牡のユゥクだ。赤褐色のつややかな毛皮が、木漏れ日を反射している。

 合図は不要だった。ビーヴァが弓に矢をつがえた時、それは起こった。


「…………!」


 セイモアが、ユゥクに向かって、とことこ近づいて行ったのだ。ビーヴァは驚き、内心で舌打ちした。――やはり、ルプスはルプスか。ムサ(人間)の役には立たない……。

 草の芽を食べていたユゥクが、気配に気づいて顔を上げる。仔狼も立ち止まった。三パス(一パス=約四メートル)ほど距離を置いて、二匹は見詰め合った。

 セイモアは、尾をぴこぴこ振った。それから、その場にちょこんと腰を下ろし、あくびをした。

 逃げるかと思ったが、ユゥクは動かなかった。セイモアが幼いので、警戒する必要はないと考えたのだろうか。仔狼の仕草を、魅入られたように見詰めている……。

 はっとして、ビーヴァは矢を放った。エビも、ほぼ同時に獲物を射た。

 二本の矢は、(くび)の付け根の急所に刺さり、ユゥクは、どうと倒れた。セイモアは、平然と尾を振っていた。

 

 二人は獲物に駆け寄った。ユゥクは、眼を開けたまま倒れている。エビは、片手で瞳を覆い、もう片方の手で頚を撫でて許しを請うと、懐から骨製のマラィ(小刀)を取り出した。

 ビーヴァは、矢を見てほっとした。倒れた拍子に折れることが多いのだが、それはなかった。しかも、ビーヴァの矢は斜め左から、エビの矢はほぼ正中から、同じところを射抜いている。

 狩人たちは顔を見合わせ、微笑んだ。

 エビは袋角の先を切り、ビーヴァに手渡した。自分ももう一本の角を削り、口に入れる。やわらかく、コリコリした歯ごたえが美味い。

 セイモアは、ユゥクの後ろ足にしゃぶりついた。尾を旗のようにぴんと上げて、自己主張をする。狩りに貢献したと言いたいのだ。

 エビとビーヴァは、笑ってその足を切り、仔狼に与えた。矢を回収し、残りの足を縛って、運ぶ準備をする。

 かがみこんで作業をしていたビーヴァが、ふと、手を止めた。


「エビ……」

「何だ?」


 相棒が指差した地面に、楕円形の足跡をみつけ、エビは眼を細めた。――靴跡だ。まだ、新しい。

 彼等と同じ皮製の靴跡が、真っ直ぐ湖へ向かっていた。一人分ではない。一組は大きく、一組は小さい。並んで歩いている。親子だろうか……。

 二人は角を齧るのを中断して、それを眼で追った。


「エビ」


 ビーヴァが囁いた。エビも、息を呑んだ。

 まばらに生えたサルヤナギの枝の向こう。青空にそびえるアムナ山の頂を背景に、灰色の岩塊が見えた。ちょうど、オコン川(上流に、アロゥ族の村がある)が、湖に流れ込んでいる場所だ。

 マラィで斬ったように鋭い角をもつ塊は、かなり大きかった。ナムコの一つは入りそうだ。よく見ると、土を盛り固めた上に、丸太を重ねているのだと分かる。削って尖らせた先端を、並べているところもある。

 うす紫色の煙が、数条、天へと昇っていた。

 コンコンと、杭を打つ音が聞こえてきた。犬の声もする。あの中で、人が暮らしているらしい。

 だが、どこの氏族だ? 未だかつて、こんな物を見たことはない。


「あれは、何だ?」


 エビは呆然と呟いた。


 ――キシムと同衾したことによって見た夢と、この出会いが、後に大きな意味を持つことになろうとは。

 ビーヴァは無論、知る由もなかった……。


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