二話 〈竜巣の谷〉(二)
眩しい日差しが山に、谷に光を投げかける。獣は淡い眠りに就きながら眼を瞬き、鳥は囀り木々は爽やかな陽光を浴びて緑を照り煌めかせる。――〈竜巣の谷〉に朝が訪れた。
人々は朝早くから仕事を始める。最初の仕事はその日のはじめの食事を作り、一日に備える。家族揃って食卓を囲み、何気ない会話を交わす。それでも、その特別でもなければ独特でもない一連の動作が、彼らの楽しみであり幸せであった。
ライカは居間で編み物をしていた。母のライラも同じく別の部屋で毎年この時期くらいにしか使わない織機を手際よく動かして布を織っている。ハイデンは家畜の飼育小屋で餌を与え、シルヴァンはといえば――自室に居た。
珍しく今日はいつもより寝起きが悪かった。彼はなかなか下に下りようとはせずに部屋の中で考え事をしていた――その物憂げな姿は見る者の心をも悩ませるほどに秀麗だった。
ひとりを除いた家族全員が仕事に勤しんでいる中、扉のベルを叩く鈍い音がした。ライカは手を止め、母親が来訪者に気付いていないと察すると玄関に向かい、扉を開けた。扉の前に体が大きく少しばかり太った男の姿が現れた。両手で大き目の箱を大事そうに抱えていた。
「やぁ、おはよう、ライカ」
「おはようございます、カルダンさん」と彼女もにこやかに挨拶した。
「お母さんはご在宅かな?」
「ええ、今呼んできますね」
ライカは母が働く部屋の前に立って、大きめの声でカルダンの来訪を告げた。機織の音が止み、急いで出てくるライラの姿があった。
「おはよう、ライラ」
「おはようございます」
「仕事中だったかな? 邪魔をしてすまない。また出直そうか?」
「いえ、いいんですよ。そろそろ休憩にしようかと思ってたところですの。さ、あがって下さいな」
「そうかい。すまないね」
ライラは客人を家に招き入れ、居間に案内した。ライカは編んでいたものを片付け、カルダンが荷物を机に置いて座るのを待ってからライラとともに座った。
「実は今日贈り物を持って来ましてな」
カルダンは前置きもせずに云った。この後の反応を楽しみにしていたからだ。その言葉を聞いて、ライカは眼を輝かせた。ついつい顔の筋肉を緩めてしまう。
カルダンは楽しそうに箱の鍵をはずし、中からものを取り出した。その手の中にあるのはたくさんの書物だった。
「バスティアーラで買ってきたんだよ。最近特に売れ行きがいいものや、よく私塾で採り上げられているものばかりだ」
カルダンは笑って云った。
「確か誕生日はまだ先だったと思うが、その時になってここに居れるかどうかわからないから、少し早めの贈り物だ。これを君にあげよう」
ライカの反応はカルダンの望んだ以上だった。
「え、本当に、こんなに頂いていいんですか?」
「ああ、勿論だとも」
ライカは満面の笑みを浮かべ、白い歯を見せた。見開かれた目は目の前の状況を理解しようと一生懸命だった。このまだ幼い笑顔を見るためにカルダンはバスティアーラで本を購入したのだ。
「あ、ありがとうございます」
ライカは思わず立ち上がり、少し震える声でお礼を云って頭を下げた。頭を上げた彼女はおずおずとカルダンの手に収まる本をまるで黄金の財宝を触るかのようにそっと受け取った。印刷されたばかりの独特の香りが彼女の鼻腔を擽り、何とも云えない心地良さを感じさせた。彼女は渡された本の感触や厚みを感じ、そっと一番上の本の表紙に目を走らせる。
表紙を見終わった彼女は目を上げてカルダンに向き直り、深々とお礼をした。彼女は小走りで居間から出て往きかけ、「ありがとうございます」と再びお礼をして二階に上がっていった。
居間に取り残された男女は微笑んだ。
「いつもいつも本当にすいません。もっと安くて小さな物でも構いませんのよ」
ライラも頭を下げた。ライカとは違う意味でのお礼ではあったが。
「いえいえ、お気になさらず。わしの個人的な楽しみでもあるので。どうしても彼女を見ていると、まるで自分の娘のように思えてくるもので」
カルダンは少しばかり愁いを含んだ声で云った。彼――と妻のネイラ――は結婚してもう十年以上経つが、未だに子供は生まれていないのだ。
「ネイラに妊娠の兆候はないんですの?」ライラは心配して訊いた。
「ええ。何人もの高名なお医者様にも診ていただいたんだが、どうやら妊娠の可能性は低いと云われましてな。血の繋がった子供を授かることは諦めたくないが、現実はなかなかそう望み通りいかないものでな」
「養子の件はどうなりました?」
「妻とも話し合ったが、わしも精神的には健全だがそろそろ体の方がそれに追いついて来なくなってな。若い頃は元気だったが、肉体が老いてきたんだよ。だからもう少し様子を見て、駄目だったら養子の件は前向きに考えることに決めたよ」
「そうですか。産まれるといいですね」
「ああ」
ライラもカルダン夫妻のことが心配であった。双子の妹の体の事も気になるし、なにより妹の家族に子供が授からないのだから。
少しばかり重い雰囲気が包んだ。ライラはなんとか空気を変えようとして早めの昼食に誘った。物思いに沈んでいたカルダンはライラの言葉で元の世界に引き戻された。
「それじゃご馳走になるよ」
二階ではドタドタという音と少し床が軋む音が響いた。同じく物思いに沈んでいたシルヴァンは階下で訪問者が訪れたことはもう知っていて、階段を駆け上がる音で現実に引き戻された。
音の発信源が彼の部屋の前で止まり、扉を叩くのを感じた。
「いいよ」
ガチャ、と扉を開けた主――もちろんライカだった――は手に本を抱え、興奮した顔つきをしていた。
「見てよ、これ。カルダンさんから贈り物を頂いたのよ」と、手にある書物を掲げ、自慢げに云った。
「そうかい。それは良かったね」
シルヴァンはまるで自分も贈り物を貰ったかのように微笑んだ。ライカは極上の笑顔を浮かべて自分の部屋に向かった。シルヴァンは立ち上がり、ライカの後を追った。ライカは自分の部屋の扉を開けっぱなしにして、部屋の中でなにかを漁っているらしい。
彼女の部屋は彼の部屋と一部を除けば全く変わらない造りになっていた。寝台の横には彼の部屋にはない勉強机と椅子、床には大きな木箱がある。
ライカは木箱の中を漁っていた。彼女は探していた物を見つけ、手を止めた。その手にあるのは本だった。それもかなり擦り切れ、所々破けたり千切れたりしている。彼女は小さい頃から集めている本をそこに保管しているのだ。彼女は大の本好きだった。
ライカは幼い頃にカルダンから貰った絵本に魅せられ、それからというもの様々な分野の書物を読んでは自らの知識とすることを趣味にしていた。今まで貰った本は隅から隅まで読みつくしていた。
「これよ」
ライカは贈り物を机の上に置き、その内一冊を取って探していた本と見比べた。彼女は満足そうに頷いて寝台に腰を掛けた。
「高そうで頼めなかったけど、前に頂いた本の続きを頂いたの。すごく嬉しいわ」
彼女は早速表紙を捲っていた。シルヴァンもその熱心な姿を満足そうにして見ていた。パラパラと軽く中身を見て逆にもっと興奮した彼女は云った。
「将来都に留学したとき役に立つように今のうちから勉強しておかないとね」と、つい彼女は自分の野望を吐露してしまい、ハッとした。
しかし、訊いているのがシルヴァンだけなのに気付くと安堵した。
〈竜巣の谷〉に住む村人の大半は村からあまり出ることなくその生涯を終える。
彼女は都に留学して色んな学問を修めることを夢見ていた。彼女は物心がついたときにはもうその夢を持っていた。前にその夢を親に云ったとき、親は悲しそうな顔をして働き者の娘を諭そうと頑張ったものだ。
それからというもの、彼女はその夢を胸の奥にしまってはいたが、諦めていなかった。いつか叶うと信じて。
ライカは自分の夢を親の他にはシルヴァンにだけ告げていた。さっきの言葉もシルヴァンは何度も聞いたことがあるので別段驚きもしなかったし、彼女は彼だけは夢を応援して信じてくれる、と信じてやまなかった。
シルヴァンは微笑んで「そうだね」と云った。太陽のような笑顔だった。そんな笑顔で応援してくれれば、どんな女性だってたとえ高望みだとしてもその夢を諦めはしないだろう。
ライカは照れた顔を見せまいとして顔を床に背けた。シルヴァンは部屋の中に入ってライカの隣に座った。
「ライカはきっと大きな都市の塾で好きな学問を学ぶことができるよ。僕はそう信じてる」
彼はそう告げた。ライカは天使のような笑顔で頷き、「ありがとう」と云った。
階下に下りたシルヴァンは居間を覗き込んだ。
シルヴァンはカルダンにちょっと遅めの朝の挨拶をし、カルダンは昼食をご馳走になる旨を伝えた。シルヴァンは机の上に目を留めた。
彼の視線に気付いたカルダンはニヤリと笑い、バレたか、という風に肩をすくめた。カルダンは箱の中から大事そうに革の袋で包まれた細長いものを取り出した。
紐を解き中身を出すと、綺麗な一本の剣が出てきた。熟練の刀鍛冶に研ぎ澄まされたそれは何度も灼熱の炎を浴びて鍛えられた傑作だ。
「また良いものを見つけたんですね。今度は何を買ったんです?」
よくぞ訊いてくれた、という風にその言葉を待っていたのはカルダンだ。
「ガイザードの東にあるオーシアン大陸の半分を占めるともいわれる広大なネサハル砂漠を越えた先にある、スィーンという水の国で作られたものだ。その昔、国で一番の職人が幾年もの時間をかけて作り出した傑作が、商人の手によって海を渡り南方の大陸に運ばれ、また縁あってオーシアンの大陸に戻り、ガイザードやペイトアを経てセスタリアのとある骨董屋の店主の手に渡った。――運良くその店を知ったわしは何度も何度も店主に頼み、いろんなものを買っては店主の機嫌を取るよう気を遣ったものだ――」
まだ口から奔流のように言葉が出てきた。ライラもシルヴァンも周りを気にせず話すカルダンを半ば唖然としながらも面白そうに眺めていた。
「――そしてようやく二十年越しの願いが実り、店の主はわしに譲ること――無論タダじゃなかったさ――を決めたのさ」
ようやく話し終えたカルダンはあたかも自分がその剣を作ったかのように自慢げな顔をした。ライラとシルヴァンは共に苦笑した。カルダンは骨董品や昔の武器に目がなかったのだ。
「今度の発表会でも知り合いの方々と自慢し合うんですか?」
カルダンは腕を組んで勿論だ、と云い、
「前回は相手方のものの方が良かったからの。今回は負けないように大枚はたいて買ったんだよ。負ける気がせんな。だが流石に財布の紐を緩めすぎた感じはしたがな」
ライラは「ネイラに怒られませんでした?」と訊くとカルダンはウッと唸って難しい顔をした。図星だったのだ。シルヴァンはこんな人にもそんなところがあるのだな、と思ってつい笑ってしまった。ライラもつられて笑い、終いにはカルダンですら笑ってしまった。
彼らはこんな日がどこの家でもいつまでも続けばいいのにと思った。