大会三日目:〈銀の牙〉(二)
白く――
淡く――
ここはどこだ?
僕は何をしていた?
僕はどこにいた?
僕は誰と戦っていた?
僕は――誰だ?
「おお、目が覚めたか」
初老の男の顔が映った。白髪交じりで髭を蓄えた目付きの鋭い、だが優しさに満ち溢れた眼を持つ男だ。
「わしがわかるか?」
「はい……ここはどこですか?」
「医務室だ」
周りを見た。彼はふかふかの医務用ベッドに身を横たえていた。清楚な白で彩られた広い医務室には多くのベッドが並列に何行も配置されている。とても静かで、窓から差し込む光は淡く優しかった。
その部屋には彼ら二人しかいなかった。
「痛みはあるか?」
試しに頭を振ってみたが、異常はない。
「大丈夫です」
「さっきの試合で何があった?」
思い出してみた。シンという名の剣闘士の実力の前に敗れ、彼女から銀色の刃――セイバーを受け取ったことまでは覚えてる。そしてその後頭に痛みが走ったのも。
「……お前さんが嘘を言うとは思えないしな。かと言ってそのような不思議な現象があるものかの」
「すいません、ご期待に添えなくて」
シルヴァンはすまなさそうに謝ったが、マルスヘルムは首を振った。
「気にするな、次の試合で頑張ればいい」
キョトンとした顔にシルヴァンはなった。
「え? いや――あれ?」
「なんじゃ、そこは覚えてないのか。シンは棄権したのじゃ。理由はわからないがな」
「棄権? 何故ですか?」
「さあな、わしにもわからん。わしはあの後フロウの奴に問うた、一体何の真似だ、とな。そしたら奴は『わしにもわからん。ただシンにある人物を捜していて、その人に会ったら棄権する、とだけ言われたのだ。それが我々とシンの交わした契約条件だ。まさかそれがお前のところのボウズだとはな』とぬかしおったわ。シルヴァン、シンと知り合いだったのか」
「いえ、全くの初対面です。ただ僕もあの時『ある人を捜してる』と告げられましたが、僕には何の意味だかさっぱりわかりませんでした」
横の棚に、二本のセイバーを見つけた。一つはカルダンから譲り受けた物、もう一つは――
「どちらにしろシンの捜していた人物はお前さんじゃったわけだな」
シルヴァンは首を傾げた。
あんな強い女性にはあったことなんてないな。
いや、あるとすれば三年前以前だ、それがシルヴァンに思い当たる可能性だった。
だが、捜しているのにどんな人かもわからない、というのはどういうことだ?
「体が無事ならそろそろ動き始めた方がいい。昼過ぎの第二試合でチェイスタル騎士団のレーナゥと戦うことになっているからな」
そう聞いてシルヴァンの瞳は燃え上がった。
それを次の試合にむける気合と受け取ったのか、マルスヘルムは笑いながら去り際に
「そうそう、心配して見舞いに来てくれてる人達がいるぞ。あんまり心配かけるなよ」
と、医務室を後にした。
マルスヘルムが部屋を立ち去るのとほぼ同時に彼にペコリと頭を下げ、医務室に入ってきた女の子が二人いた。
「シルヴァン! 大丈夫?」
と、声を掛けたのはライカとナナだった。彼女達は居ても立っても居られないような顔をしていた。
「ああ、大丈夫だよ」
「ほんとに? ほんとに大丈夫なの?」
「本当だ、この通りピンピンさ」
と笑い、シルヴァンは二の腕に力瘤を作る。
ライカとナナは安堵の溜息をついた。
「あんまり心配させないでよね」
「ごめんごめん」
「……さっきの試合の女の人強かったね。なんだかシルヴァンが手も足もでないくらい強そうに見えたよ」
「――確かに強かった――実際手も足も出なかったんじゃないかな」
「そ、そうなんだ」
「でもなんでシンさんは棄権しちゃったんですかねぇ?」
ナナは不思議そうに呟いた。
「さあね。僕にもわかんないよ」
「あのさ……」
「ん?」
「実はさ、さっきの試合の結果というか内容に不満だった人達がさ――」
「『八百長試合だ』とかって言ってた、かい?」
「う、うん、わたしはそんなの絶対信じてないけどね」
「あたしもです」
「ありがと。でもやっぱり僕が観客だったら絶対おかしいとは思うな。まぁとりあえず過ぎたことは仕方ないし、次の試合で汚名返上といくか」
シルヴァンはそう意気込んだ。
ライカとナナは微笑む。
ナナは何かを差し出し、シルヴァンは受け取った。
「これは?」
「あの、お昼ご飯です。大したものじゃないですけど、もしよかったら食べてください」
ライカとシルヴァンは彼の掌にある林檎を見つめた。
いつの間にィ――と思ったのがライカであることは言うまでもない。
「ありがとう、後で頂くよ。――そろそろ準備でもしようかな」
「じゃ、わたし達もう行くね。また応援してるから」
「がんばってください」
彼らが立ち去った後、シルヴァンは新しいセイバーを手にした。
見れば見るほど吸い込まれていきそうな銀色の輝き――それは見るものを魅了してしまう。
片刃の形で、オーシアン大陸西岸部で主流となっている両刃のそれよりも厚さが薄く、切れ味が良さそうだ。どことなくカルダンから貰った水の国スィーン産の剣に似ている。
振ってみると、軽くて扱いやすかった。
試し切りをしてみたかったが、物騒だし周りに手頃な物がなかったのでシルヴァンは諦めて医務室を出た。
**
三回戦に備えて控え室で休んでいる最中、シルヴァンは同じ部屋にコール・オフ・アイジェンドがいないか捜したが、それらしい人物はいなかった。
別の控え室にいるか、どこかで休んでいるのだろう。
シルヴァンは次の試合で新しい武器――〈銀の牙〉を使うつもりだった。
決闘場に出ると、いささかシルヴァンの応援は少なくなったようだった。
「西、チェイスタル騎士団二番手レーナゥ。東、ウェイブラス騎士団一番手シルヴァン」
中央に進んだシルヴァンは相手を見つめた。嫌な目付きをした男だ。シルヴァンは一種の嫌悪感を覚えた。
「よぅ、八百長野郎」
レーナゥは早速挑発を開始した。
「前の試合はすごかったな。あんな無様に地面に跪いてたのに、どうしてあの女は棄権なんかしたんだ? どんな技使ったんだよ、教えてくれや」
レーナゥは質問したが、それに対してシルヴァンは無表情に無視した。
「おい、聞こえねぇのか、ボケ」
「静かにしてくれ」
目を細め、返事をするのもめんどくさそうな調子で返した。
「ァアン!?」
どうやらチェイスタルやゾーラの騎士団は短気な者が多いらしい、というのが挑発した反応を冷静に分析したシルヴァンの判断だった。
さらに何かを言おうとしたレーナゥだったが、審判に「離れなさい」と横入りされた。
後ろを振り向いて歩いている最中、シルヴァンは深呼吸をして気持ちを落ち着けていた。実はさっきの試合のことを多少は引きずっていたのだ。
――落ち着け。こんなところで、こんな奴に負ける僕じゃない。
「構え」と言われてもやはりレーナゥの方は礼などしなかった。
一方、シルヴァンは相手がどんな男でもしっかりと騎士の礼をし、左手にシルバー・ファングを握った。
「始めいィッッ!!」
開始の合図――スピーカーを通されたゴングの音――がコロッセオに鳴り響くとほぼ同時に、鋼鉄爪を手にしたレーナゥは動いた。
クローとは獣の鉤爪を模った、長さ約五十セートの鉄でできた“爪”を二から三本鋼鉄拳に付属させたような武器だ。扱いが難しい分、熟練者は自由自在に綾取って他の武器の追随を許さないことで知られる。但し、それは熟練者でなければただの鉄クズと化すのと同義だ。
果たして、このレーナゥという男の実力は如何程か。
クローがシルヴァンの衣装を掠める。その攻撃速度だけでも、伊達に一騎士団の二番手だけはあった。
だけどシン程じゃないな。彼女の攻撃はもっと速かったはずだ。
シルヴァンは少し気持ちが楽になったのを感じたが、油断は禁物、と自分を戒めた。
次は繰り出される攻撃を、シルバー・ファングを用いて難無く受け止めた。
キィン――
が、シルヴァンは驚いていた。
何故なら、彼はクローを“左手一本で受けた”のに対し、なんとレーナゥはシルヴァンの“防御”に“耐え切れなくなって両手のクローで刃を押していた”のだ。レーナゥの赤くなった顔から、彼が相当な力を出しているのが察せられる。
一瞬にして攻防の立場が入れ替わってしまったのだった。
ぼんやりと、シルヴァンは眺めていた。顔を真っ赤にしながら刃を押し戻そうとする男と、それを涼しげに片手一本で相手をする男の顔の対比は滑稽さを醸し出していた。
なんだ、この体に湧き上がるような力は――。
こんな力が眠っていたのか?
――この力はいったいどこからやってくる?
この刃からか?
シルヴァンは己の左手に握られた銀の刃を見下ろした。
刃自体はさっきとなんら変わらない状態だった。
シルヴァンは首を振り、改めて敵を観察した。
敵の男は早くも額から汗を流し、顔を真っ赤にしていた。腕の欠陥が浮かび出るほど力を込めていた。
しかし、シルヴァンは左手一本に力を込めただけで相手を押している。
シルヴァンはさらに力を入れた。ズズズ、とレーナゥは後ろに押され始めた。地面に踏ん張る足の跡が色濃く砂に残る。
次第にセイバーはクロー自体を押し、剣先が顔に近付いてくるとレーナゥの顔は蒼白になった。
それを見て、シルヴァンはフッと笑い、一気に力を抜いて横に逃げた。力のベクトルは拮抗する相手を見失い、レーナゥは物理法則に遵ってものすごい勢いで転倒した。
「グエッ!」「ウオッ!」「ギャッ!」と呻きながら、四回転、五回転、六回転したところでようやく彼の体は停止した。体中砂だらけとなりところどころ出血して赤くなっている。
レーナゥはハッとし、顔を上げたが目の前に敵はいなかった。周りを見ると遠くでシルヴァンが刃を鞘に収めて悠然と見下ろしていた。
さらにレーナゥに追い討ちをかけるように、観客席は失笑の嵐であった。
開始直後に早くも見事な転びっぷりを披露し、果ては相手に情けをかけてもらっていたのだ。
観客はこの時再びシルヴァン側に傾きつつあった。その理由は今の十数秒の戦いを見ていてはっきりしている。
レーナゥは慌てて立ち上がり、憎しみで顔を歪めた。
「オラァァァッッ!!」
掛け声と共に追撃を加えようとするが、またしても力負けする。
シルヴァンはレーナゥが攻撃してくるたびに優雅に回避し、攻撃するチャンスをあっさりと放棄する。
それが五分、十分、十五分も続けられると、客は劇を見ている感覚になってきた。
そして観客の興味は次の試合へ変わりつつあった。次の試合はあのコール・オフ・アイジェンドが出陣するからだ。
レーナゥの応援は確実に少なくなり、もはや勝敗は目に見えていた。
汗だくのレーナゥを尻目に、シルヴァンはシルバー・ファングを観察していた。
が、それを隙と判断したのかレーナゥは懐から小さな球を出し、シルヴァン目掛けて投げつけた。とっさにシルヴァンが判断してその球を払おうとしたのは流石ともいえるが、その瞬発力が仇となってしまった。
剣先が球に触れるや、球は破裂し、赤い液体が飛び散った。その赤い血の如き染料はシルヴァンの顔全体を染めた。
シルヴァンは呻き、膝をついた。赤い染料が目に入ってしまったのだ。
満足げにその光景を見届けたレーナゥは
「バーカ! そりゃ特殊な染料でな、なかなか取れねぇぜ! 何にも見えねぇだろ!!」
と、哄笑した。
途端にコロッセオからは歓声――レーナゥ側――と、ブーイング――シルヴァン側――が轟いた。
レーナゥはコロッセオを不敵な笑みで見回した。ブーイングしてくる客を相手にしているかのように。
「ァアン、卑怯だァ!? バカじゃねーのか、こっちはきちんとルールに則ってんだろうが、黙ってろクズどもが!!」
審判は何も言わない。つまり、彼らは目潰しも一つの武器であると認め、ルールに違反していないと決断したのだ。
「残念だったな、呪うんだったらテメェを恨めや!!」
レーナゥはいまだ膝をついて顔を抑えるシルヴァンの左後ろに回り、飛び掛った。
シルヴァンは目を開いてみたが、何も見えなかった。視界が赤く染まっていて、痛みが走る。
クソッ、痛みのせいで集中できない!
――音がした。
発信源からして、左後ろに回りこんだのか?
いや、わからない、どっちだ?
左? 右? 後ろか?
シルヴァンは焦った。
僕が敵の立場なら、すぐにでも仕留めに行くだろう。
――鋼鉄のクローがシルヴァンを襲おうとした時、“それ”は聞こえた。
――左後ろだ
躊躇する暇もなく、シルヴァンはとにかく左後ろの方向にシルバー・ファングを出した。
カキィィン――
鋼と銀はぶつかり合った。
もし――もし、シルヴァンが今目を見開くことができたならば、驚愕を通り越したレーナゥの顔が映ったことだろう。
レーナゥは思わず退き、場所を変えて攻撃をしようとした。
……またあの声が聞こえた。
――右前
そこに剣を出すと、再度攻撃を防げた。
――真後ろに飛べ
躊躇わない華麗な飛躍はレーナゥの突きを見事に回避する。
――左に切り込め
シルヴァンは今考えたいこと――その声の主について――があったが、とりあえず胸の奥にしまっておく事にした。目を閉じている分音に全神経を集中させねばならない。目を閉じているのに、シルヴァンの動きは最前と変わらぬ優雅さだった。
レーナゥはバランスを崩したことが幸いして剣の猛襲から逃れることができた。
コロッセオはすでにシルヴァン一色だ。もうレーナゥを応援しているのは極僅かな者達だけである。
シルヴァンは叫んだ。
「誰だ、お前は!?」
審判二人と、レーナゥでさえ怪訝な表情になる。
「どこにいる!?」
シルヴァンは辺りの気配を探った。
一人……二人……三人……間違いない、医療班と魔術師達を除けば審判とレーナゥの三人しかいない――感じられない。
誰だ、僕に話しかけてくるのは?
ニルアドか? 〈精神感応〉? 違う、これはテレパシーじゃない!
誰かが僕に“話しかけている”んだ!
――後ろだ
透き通るように美しく、それでいて威厳に満ちた声がするや否や、シルヴァンは振り向いて受け止める。
――畳み掛けろ
指示に従い、見えない敵を相手に次々にあらゆる剣技をお見舞いする。不思議とその言葉どおりに従えば、相手が追い詰められていくのが手に取るように分かる。カキィン、カキィンという甲高い音と、相手の焦ったような息遣いがが、しっかりとした証拠であった。
シルヴァンの頭の中では実際の様子と相違ない情景が映し出されていることだろう。
――殴れ
思いっきり右腕を突き出すと、ボキッと鈍い音がした。偶然放たれた右腕はレーナゥの口にクリティカルヒットしたのだ。
しかし、これは“偶然”なのか?
続いてドサッという音がし、しばしの間をおいて、
「レーナゥ失神により、勝者シルヴァン」
拍手と歓声とブーイングと花吹雪が飛び交う。
だがシルヴァンの耳には届かない。見えない敵を相手にしたことと、謎の声のせいでかなり体力と精神力を使い果たしたのだ。
彼が今目を開いて周りの光景を見たのであれば、地面には無残に仰向けに倒れるレーナゥの姿、空には太陽の光を浴びて白光を放つ紙吹雪、そして周りには前の試合を批判していた者でさえいまはシルヴァンの虜になっているのがわかったであろう。
そして、あの時、戦闘中に目を開くことができたのなら、シルバー・ファングの銀が妖しく煌いていたことも。
シルヴァンは歓呼に応える余裕もなく、審判に肩を貸されて退場し、医務室へ向かった。
***
その日の夜――
そこは、暗い部屋だった。
部屋の中で複数の影が動いた。
「赤竜騎士団のシンより。“彼”を見つけた。“あの人”については依然手がかりなし」
暗さでわかりにくいが、微かな光に照らし出されるのは額と耳を隠す綺麗な金髪の持ち主、女剣闘士の姿であった。
「必ずイリニウス陛下と、将校閣下方にお伝えして。そして、西岸部に散らばる同志達にも伝えて」
クィィ、と鳥の鳴き声がした。
「じゃあ、急いで」
部屋の窓が開けられると、その物体らは真っ暗な夜空に向かって上昇し、飛翔した。それは、隼、鷹、鷲など勇猛な鳥類の姿であった。
彼らが夜空の暗黒に消えると、シンは窓を閉め、カーテンをかけた。再び部屋は暗闇に包まれる。
しばらくした後、シンは徐に呪文を唱え始めた。
「ゲッベラ・クルイト・ゴース=イー・サ・ダスラ」
〈変化〉の解除の呪文だった。
「スル・クル・ハンダーテュル・キナスト・ゾージ」
詠唱が終わると、彼女の体に小さな変化が生じた。
頭部の金髪からチョコンと可愛らしいものが出てきた。そして、腰部分からもふさふさとしたものが。
頭から生えたもの、それは狐の耳。腰から生えたもの、それは狐の尾。
シンは尻尾と耳を優しく撫でると、背伸びした。
「フワァ〜、やっぱりもとの姿が一番よね。常に人間魔法の〈変化〉の呪文を継続させるなんて、わたしみたいに妖力が小さい妖魔には厳しいわぁ。疲れたし、今日はもう寝よっと」
と呟き、愛嬌のある笑顔を浮かべてベッドの中に潜り込んだ。