第一部 年代記:〈星の夜〉
「往ってくるよ」
暗闇の中に蝋燭が灯っていた。灯からほんの少し離れただけで姿が消えてしまう程の漆黒が彼らを包んでいた。蝋燭の燃える音が静寂の中に響く。蝋燭の火が届く範囲しか眼に映るものはなく、互いの体がどれくらい近くにあるのかも判らぬほどの暗闇。
彼らは怖がっていた。暗闇ではなく、これからの事を。
いくつかの蝋燭の辺りに眼を凝らせば、その空間は壁に囲まれているのがわかっただろう。僅かな数の煉瓦が火の光を浴びて、やわらかな黄色に彩られた部屋。
彼らは待っていた。
「気を付けて下さい」
愛する男が戦に出向く前に、生きて再び逢う事を約束するような女性の声。男が郷にいない間は、己が護らなくてはならないと決意した気高い声。声の主は灯に近づき、その顔を光に当てた。
白色の肌に、腰まで届きそうな長く豊かな髪を垂らし、美しい顔立ちを前に向けた。唇はわずかに振るえ、彼女はその昂ぶった気持ちを押さえ込むのに精一杯だった。両手は胸の前で組まれ、愛し人の生還を神に祈る許婚の姿のようだ。その赤い眸は全てを眼に焼き付けておくかのように、彼を見つめていた。
「無茶はするなよ、友よ」
また一人、その姿を光の下に晒した。鍛えられた逞しい筋肉は、人生の半分を既に越えた人間のものとは思えない程に膨れ上がり、多くの傷痕が残っていた。短く刈り込んだ頭髪、人生の苦悩を顔に刻み込んだ皺、何事も見落とさんとする鋭い眼差し。縦にも横にも大きく引き締まった体躯はまさに戦うために生まれてきた戦士といったところだ。
そして何より彼には生まれながらにして定められた帝王たる者の威厳と偉大さを備えていた。
「ああ、心配するな。今まで通りさ」と彼は応えた。
暗闇の中、辛うじて見えるのは彼が全身を黒ローブで纏い、フードで頭を覆っていることくらいだ。頼りない蝋燭の火は彼の表情を僅かに照らし出すだけに留め、フードから流れ落ちる銀色の長髪を輝かせていた。
彼はフードを取り、その非人間的な美しさを秘めた顔を顕にした。肌の色は浅黒く、耳は大きく尖っていた。彼を初めて見た人は海を渡った遥か西の国に住み、この世の全ての美しさをもってしてもその種の美しさの足元にも及ばないと伝えられる〈妖精〉の血を引くと云われれば信じたであろう。それほどに彼の顔は美しく端整であった。
「僕がいない間は国を頼みます」
女性が見れば誰でも虜になってしまいそうな笑顔であった。
その言葉はその場にいる全員に云ったのだろう。部屋の天井がかなり上の方にある事を、声の響きが示していた。
「任せておけ」
暗闇から若い男の声が云った。その声は誰よりも大きく、そして自信に満ち溢れていた。
「あんたがいない間は俺が軍を率いて国を護る。安心しろ」
「頼んだよ、ディオン」
「閣下」
さきの女が今にも途切れてしまいそうな声で云った。
「どれ程永い年月が経とうともお待ちしております」
彼の澄んだ眼は赤い瞳を見て「ありがとう」と云った。
彼女は彼に近づき目を閉じ頭を下げた。蝋燭は二人を照らし、ただゆらゆらと燃えていた。
「時間です」と暗闇が云った。
すると今までその場にいた気配すらしていなかったのに、彼と同じく黒いローブを着た男達が出てきた。まるで、今暗闇から生まれたかのように姿を現し、手を前で組みながら彼の横に立った。
その男達は歩いているのにも関わらず、全く足音がしていなかった。顔はフードに隠れ、表情を窺うことはできない。その不吉を感じさせる姿は、気の弱い女子供が見れば悲鳴をあげてもおかしくないだろう。
しかし、その光景は彼らにとっては昔から知っているものだった。彼らは小さい頃からその姿が何であるかわかっていたので、何の疑問も感じなかった。彼らは魔術師だった。
ローブ姿の魔術師の中の一人が、緩慢な動きで彼に何かを問うように顔を向けた。
彼は魔術師に顔を向け、頷いた。
魔術師は返事も頷き返すこともしない。
「手筈通り、この塔から退去してください」
男性はわかっている、という風に頷いた。
「さらばだ、友よ」
男性は彼女と後ろにゆっくりと退き、暗闇に消えた。衣擦れと煉瓦にぶつかる靴の音だけが聞こえる。蝋燭の火が揺らめき、静寂が空間を包む。
どれくらいの時間が経っただろうか。この空間では時間は意味を成さず、彼はただ待っていた。
魔術師の男は彼に体を向けた。すると彼はローブを脱ぎ、床に座った。表情は穏やかで、むしろその状況を楽しんでいる様にも見える。
魔術師の一人が何事か呟きながら右の手を動かした。暗闇の中にさらに蝋燭が現れ、宙に浮き、彼を取り囲んだ。魔術師達は移動してその蝋燭の間に立った。
男は全員を見渡し、頷いた。同時に魔術師達は、組んでいた手を離し、右手を彼に翳す様に挙げた。
彼の座っている床に黄色に輝く魔方陣が顕れ、魔術師の右手からも同じような光が立ち昇った。暗闇の中に輝くのは、揺らめく怪しげな光だ。
魔術師達は異口同音に呪文を呟き、両手を動かした。右手を彼に向け、左手は宙を描いている。
立ち昇る光は見るものを魅了する透き通る輝きを放っていたが、今彼らにそのような思惑は無縁だった。
彼は無意識の中で、延々と唱えられる呪文が終わるのを待ち続け、その時が来た。
魔術師は左手を下ろし、最後に一言何かを呟いた。
彼らの右手から迸った光は彼を貫き、衝撃が体を駆け巡る。魔方陣の光は愈々大きくなり、彼らを包み込むまでになったが、それでもそれは拡大し続け、上に伸びた。
光は塔を包み込むまでに大きくなった。光は空高く伸び、夜空を貫き、星空に消えた。
街に愛は木霊する。それは悲しい歌だった。
時にカナン暦一六三〇年銀の月、第四週第三の日。後に〈星の夜〉と云われる日の事であった。