九話 邂逅こそは縁成りき(二)
檻の中にいたものは――
衰弱しきった男だった。引き締まった体は無残にも窶れ、肋骨が浮き出ていた。
いや、だが違う。
上半身は確かに人間の男のものだった。だが、臍から下は――馬であった。
「いかがでしょう。これがかの有名なケンタウロスでございます」
そう、ケンタウロス――人頭馬身の存在だった。
「ケンタウロスは上半身は人間、下半身は馬であります。また、牡には頭に角が生えておりまして、このように曲がった角があります」
男――飼育係兼司会は手に持った鞭でケンタウロスを打った。彼の体は鞭の痕でいっぱいだった。ただでさえ痣や内出血で痛んでいる肌から黒い血が流れ出た。肌はもう健康的な色を保たず、部分的にどす黒くなっていたり紫色に変色していた。
「おい、立て! このクズめ!」
男はケンタウロスを罵ったが、ケンタウロスはピクリともしなかった。
しだいに、見物人の中から「死んでるんじゃないか?」という疑問の声があがってきた。
男は軽く舌打ちし、
「おい、起き上がれ!」
と顔を鞭打った。
すると、横になっていた人頭馬身はゆっくりと眼を開いた。そこにいる誰もがハッとした。
ケンタウロスは上半身を起こし、自分の置かれてる状況を理解しようと周りを見渡した。驚嘆の声と、初めて見た妖魔に恐怖した子供の泣き声が交ざる。
男はケンタウロスが起きるとビクつきながら彼の近くの床を叩いた。
「このうすのろめ! さっさと起き上がれ!」
ケンタウロスは緩慢な動きで立ち上がった。その高さは大の大人よりも頭二つほど高く、頭に生えた二本の角は畏怖の象徴でもあった。
「お客様にあいさつするんだ!」
男は命令した。
しかし、ケンタウロスは何も耳に入らなかったように彼を無視した。
飼育係の男は体を震わせ、再度命令したがまたも拒否された。怒った男は鞭をケンタウロスの首目掛け振った。鞭はケンタウロスの首に巻き付き、彼は苦悶の表情を浮かべた。
男は苦しめるように鞭を引っ張り、ケンタウロウスは抵抗するように鞭を掴んで解こうとした。
シルヴァンは顔を歪め、ライカもハラハラしながら成り行きを見守っていた。
ふいに、マオ――猫はシルヴァンの肩に飛び乗り、檻の方を見た。彼――猫は一瞬固まり――いきなり体中の毛を逆立て、「ニャー!」と咆えた。
暴れだし、檻の方に向かおうとする猫をシルヴァンは必死で止めた。もがく猫の爪は容赦なく彼の手を傷付け、血を流した。猫は我を忘れているようだった。
ライカも抑えようと手伝ったが、シルヴァンは彼女が傷付くのを危惧して制した。
一方、檻の方ではケンタウロスが鞭を解いた。
飼育係は解かれた鞭を再び振った――が、ケンタウロスは振り下ろされる鞭を片腕で掴んだ。鞭の引っ張り合いが始まった。
そして、すぐにそれは起きた。
誰もがケンタウロスに生じた変化を目撃した。暴れていたマオも暴れるのを止めた。
彼の体は見る見るうちに変わりつつあった。腕の筋肉は盛り上がり、上半身が膨れ上がり、顔付きはまさに妖魔――獣化しつつあった。眼は怒りで赤くなり、角は太く伸び、二本の牙は口から出ていた。先程よりも体が一回り大きくなったような錯覚を覚えた――実際大きくなっているのかもしれない。
客は後退った。
ライカも驚愕しながら、
「――ねぇ、シルヴァン――もしかしてあれって・・・・・・」
「――ああ、おそらく、『妖力解放』だ――」
彼らの視線の先にある妖魔は、さっきとはまるで別人のようだった。彼は掴んだ鞭を引っ張り、男を引き寄せた。
「ヒィィッ!」
男は情けない悲鳴をあげて鞭を放した。それが九死に一生を得ることとなった。
標的を捕まえられなかったケンタウロスは鉄格子から手を出し、男を捕まえようと暴れた。ケンタウロスは鉄格子を掴み、こじ開けようとした。徐々に、二本の鉄棒の間隔が開いていった。
固まっていた旅芸人達は我に返り、手に持っていた鞭や棍棒でいっせいにケンタウロスを叩いた。
弱っていたケンタウロスは膝をつき、気を失って床に倒れた。すると、みるみるうちに体付きが変化前に戻っていった。
客は唖然としていた。
倒れていた男はよろよろと立ち上がり、そっとケンタウロスに近づき、機を失っているのを確認してこれみよがしに彼の体を蹴った。腹いせが終わると、男は客を振り向いて
「いかがだったでしょうか、今回の妖魔は? 皆様のお気に召されればよろしいのですが。もし満足いただけたら、御捻りの方をお願いいたします」
と言った。
見物客は静まり返っており、ぞろぞろと帰っていく人が見えた。金の集まりのほうも捗捗しくなく、ほんの数人しか硬貨を投げなかった。
旅芸人達は苦い顔をしたが、仕方が無いような表情だった。彼らにとっても『妖力解放』は想定外の出来事だったらしい。
客が少なくなると旅芸人達は帰り支度を始めた。
シルヴァンとライカは残っていたが、猫が消えているのに気が付いた。周りを探したが見当たらず、仕方なく諦めた。
ふたりも暗い表情で帰途についたが、シルヴァンだけは考えに耽っていた。
夜、勤務でなかったシルヴァンは兵舎を出てライカのいる宿に向かった。
彼女は部屋にひとりきりで、都合が良かった。
「どうしたの、シルヴァン?」
「付いて来てほしい」
「どこまで?」
「あの一座が泊まっている所まで」
「え、もしかして――」
「そう。なんとしてでもあのケンタウロスを助け出す」
「――無茶よ。多分警備されてるし、ばれたら危険よ」
「大丈夫。その場合の策は考えてある」
「でも――」
「頼む、今は君が必要なんだ」
「――わかったわ」
彼の真摯な願いに負け、ライカはしぶしぶ了解した。自分がどこでどう役に立つかは解らなかったが。
バヤードの空き地にその一座の天幕はあった。十数個ある天幕のうち明かりがあったのは二つだけだった。
ふたりは音もなく天幕の密集地に近づいた。
シルヴァンは明かりのついてない天幕の中に忍び込み、中を確認した。ライカは見つからないようにおどおどと周りを警戒していた。最初の二、三個は目当てのものがなく、代わりに奇妙な動物がいた。だが、シルヴァンにはその奇妙な動物と妖魔の区別がつかなかった。
妖魔とは『人間に近い知能を持つ人外の生物で、特殊な能力を有する』と定義されている。特殊な能力の代表例が『妖力解放』または『妖力発動』と称されるものだ。故に、その動物達が例え妖魔だったとしても、彼がその能力と知能の有無を確かめねばならなかった。しかしそんな時間はない。
彼は別の天幕をくまなく探し、ついに見つけた。大きな天幕の中には鉄製の檻が置いてあるだけで、その檻の中にケンタウロスが倒れていた。
ふたりはそっと忍び込み、シルヴァンは蝋燭を取り出して火をつけた。闇の中に浮かび上がったのは、体中血だらけの人頭馬身と一匹の黒猫だった。血腥さにふたりは顔を顰めた。あの後、暴行を加えられたのだろう。
ケンタウロスは息も絶え絶えだった。今、一つの命が失われようとしていた時だった。その側に立つ黒猫は、宛ら命の灯火が消えることを告げる死神のようであった。
檻の側に彼らは膝をつき、呼びかけた。が、反応はない。
シルヴァンは鉄格子の間から手を伸ばし、体を揺すった。しばらくしてようやく眼を開けたケンタウロスだったが、眼は何も映していないようだった。なんとか彼の気を引こうと何度も呼びかけ、揺すったが駄目だった。
諦めかけていたその時、ケンタウロスの腕が動いた。その腕は弱々しい力だったがシルヴァンの腕を掴んだ。
解説
・妖力解放(発動)・・・妖魔が用いる特殊な能力。己に秘められた力を一時的に解き放つことで強力な力を発揮する。妖魔によってその能力は様々。