七話 夜明け前(二)
太陽は今日も眩しい。空は西にあると聞く海のように青かった。
ライカはなかなか起きてこなかった。シルヴァンはそっと部屋の扉を叩き、寝室に入った。
彼女は寝床にいた。
彼は彼女の枕に染みがあるのを見た。おそらく彼女の涙だろう。一晩中泣いていたのだ。
そっと肩を叩き、起こす。
くぐもった声がした。
「お母さんとお父さんが話があるから起きなさいって言ってたよ」
「うん」
ライカは顔を見せないようにしながらゆっくりと起きた。眼が腫れてるを見られたくないからだ。
状況を察知したシルヴァンは先に外に出た。
身支度を整えたライカは居間に向かった。彼女は昨日から精神が不安定になっている。この数日でいろんなことが起きたせいだ。
居間にはカルダンもいた。三人は彼女の登場を待っていたのだ。
彼女は椅子に座るが、顔は伏せたままだ。
ライラは娘の様子を見かねて切り出した。
「ライカ、今日は大切な話があるの」
「うん」
風に掻き消されてしまうような声だった。
数秒の沈黙が流れた。
「ライカ、シルヴァンと一緒にバヤードに往きなさい」
ライカは時間をかけて顔をゆっくりと上げた。母親が何を云ってるのかよく解っていないようだ。
「カルダンさんも了承してくれたわ。あなたはバヤードの私塾で学問を学べるのよ」
沈黙――。
「――え・・・・・・?」
ライラとハイデンとカルダンが微笑んでいるのが眼に映った。
「――どうして?」
「昨日の夜シルヴァンから頼まれたのだよ」
カルダンは優しく告げた。
「彼は何ひとついらないから、代わりにライカもバヤードに連れて往ってくれと頼んだんだ。そしてそこの私塾に入塾させてくれってね」
「彼はそう云って、我々の目の前で床に手をついて頼んだんだよ。『お金はいらないから、ライカを私塾に入れさせてあげてください』と言ってた。真剣な眼差しだったよ」
ライカはようやく飲み込めてきたようだった。
「ライカ、都ほど大きな学問所ではないけど、そこで勉強したい? それともしたくない?」
「――したいわ」
今の彼女にはそう云うことが精一杯だった。
「でも条件が一つ。勉学に関する経費は全部カルダンさんが面倒を見てくれるわ。ただ、バヤードでカルダンさんの仕立て屋の手伝いをしなさい。それだけよ」
「――うん」
「決まりね。じゃ、ライカ、早速近所の家を回って、出発することを伝えてきなさい」
「――え、でも―――」
「ほら、早くしなさい! 明日の朝にはもう出発しなきゃいけないのよ!」
母親の激語に驚き、慌てて居間を出た。
もう往ったか、というところで扉からヒョッコリ顔を出し、
「あ、あの―――」
「シルヴァンなら家の花畑よ」
そう聞いてすぐに玄関の扉が開く音がした。
「――本当にいいのかい?」
「・・・・・・いつかはこの日が来てしまうと感じてました。あの子はいつもそう夢見てきたんですから」
ライラは夫に寄りかかりながら泣いた。ハイデンの眼からも雫が流れた。
花畑では、シルヴァンが村での最後の仕事に精を出していた。
彼はふと顔をあげ、淡い赤の髪をした女の子がこちらに向かって走ってくるのを認めた。
ライカはシルヴァンの近くまで来ると、自分より体が一回り大きい彼の体を抱きしめ、顔を胸の中に埋めた。
シルヴァンもそっと抱いた。
「ありがとう」
その日は、優しい風が吹いていた。
日がまだ昇る前、彼らは慌しく出発の時を待っていた。
肌寒い朝、彼らは別れを惜しんでいた。
「それでは、往ってきます」
「気をつけてね、シルヴァン」
「達者でな」
シルヴァンは親とも言えるふたりの恩人を抱きしめた。
「いつか必ず戻ってきます」
シルヴァンは後ろに下がった。
夫婦は娘を見た。
「往ってきます」
母と父は強く娘を抱きしめた。手から離れれば、消えてしまうのではないかと思われるほど儚い宝石を。
「無茶はしないでね。シルヴァンとカルダンさんの云うことをしっかり聞くのよ」
「うん」
娘は親から離れた。
眼に熱いものが込み上げている。
彼女はついに我慢できなくなって、親の胸で泣いた。
彼女は涙で濡らした顔で微笑んだ。
「いつか、いつかちゃんと素敵なお婿さんを連れて帰ってくるわ。それまで待っててね」
その場にいる誰もが微笑んだ。
「娘をよろしく頼むよ、カルダン。それにシルヴァン」
カルダンは頷き、シルヴァンは頭を下げた。
「――往きなさい」
娘は離れた。
ライカはシルヴァンに支えられて馬に乗り、続いて彼も彼女の後ろに乗った。
彼らはもう何も云わなかった。云ってしまえば、何かが崩れてしまうのがわかっていたから。
カルダン一行は静かに、発った。
ふたりの夫妻だけが残った。
「往ってしまったね」
「ええ」
彼らは微笑んでいた。彼らは知っている。娘と息子がいつの日か必ず帰ってくることを。
「さ、中に入ろう」
夫は妻の肩を抱き、優しく云った。
日に照る花は優しく彼らを包んだ。
「ねえ、シルヴァン」
「なんだい」
彼ら――総勢五十人ほどの団体――はバヤードに向かう街道で馬に揺られていた。よく人とすれ違う活き活きとした道だ。
「これからわたしが云うことを信じてくれる?」
シルヴァンは笑っていた。
「勿論だよ」
「実はね、一昨日――盗賊が襲ってきた次の日――なんだけど、わたし〈灰色山〉の花畑であるものを見たの」
「何をだい?」
「竜」
シルヴァンは押し黙った。それは彼が彼女の突拍子もない話に呆れたわけではなかったのだ。
驚くほどの衝撃が彼の頭の中を駆け巡った。
「すごく綺麗で、大きかった。血のように赤い竜だったわ。《彼女》は傷付いてたの」
「・・・・・・」
「血はそんなに出てなかったけど、見るからに傷付いてた。とてもかわいそうだったわ。だからわたし手当てをしようとしたの。だけど、彼女は『この傷はすぐ治る。だけど、わたしより何倍も苦しんでいる方がいる。それに比べたら大したことはない』って云ったの」
「・・・・・・」
「何かしたかったんだけど、結局何もできなかったわ。でね、元気が出るように、ほら、わたしとシルヴァンしか知らないあの花畑の隅に咲く透明な赤い薔薇の花をあげたの。そしたら、『ありがとう』って云ってくれたわ。でも、今日の出発の前に花畑に寄ったらいなくなってたの。多分昨日の夜に飛んで往ったんだわ」
「・・・・・・」
ライカはシルヴァンの方を振り向いた。
彼は無表情だったが、その実、その話が彼に与えた衝撃ははかり知れなかった。
「ちょっと、シルヴァン、聞いてるの?」
「え・・・・・・ああ、ごめんごめん、ちゃんと聞いてたよ」
「――どうせ信じてないんでしょ」
ライカは少しムッとして不満を漏らした。
「僕が本当に信じてないと思うかい?」
彼は笑いながら云った。
ライカは天使のような笑顔で微笑んで云った。
「ありがとう」
御礼
さて、以上でスタリオン・サーガの第一部、というか本編への導入部分が終了しました。こうして物語は始まった、って部分ですね。次回から第二部の幕開けです。徐々にこの物語の世界観や世界状況を少しずつ明かしていきたいと思っています。どうぞご期待ください。
あと、一話一話の長さが他の方の作品を参考にしてみるとちょっと長い気がしたので、次回以降はちょうどいい区切りができたら前より気持ち短めにして、小まめに投稿するようにしてみます。今後ともよろしくお願いします。それでは第二部でお会いしましょう。