切れた糸
大空を飛べたって、地面の中で呼吸ができたって、僕が僕なことに変わりはない。
それはとても、とても当たり前なこと。
当然なことを僕が残念に思ってしまうのは、欲にまみれた人間だからだろうか。
変化を求み続ける生き物だからだろうか。
今日も僕は僕のままだ。
家出をした。
と言っても十八時、二十一時までに家に居なければいけないような年齢ではないけれど。
図体だけいっちょ前に大人へと成長を遂げ、知識も社会の常識も嫌と言うほど詰め込まれた汚い心のオトナ。
部屋着のまま飛び出してしまったのでキィンと冷え込む冬の寒空は凝り固まった肩をじわじわと痛め、体育座りをしても一向に体は温まらない。
梅より真っ赤な頬や鼻先は今や感覚が麻痺し始め、指先も同様に悴んでニギニギすると何とも言えない変な感じがする。
ポケットに入れたケータイが周りの騒音に負けないくらいさっきから喧しく存在主張してても、ひび割れして使いづらい指先のせいにして無視を続ける。
ネオンの光が角膜に棘を刺すように強すぎる街の影の場所にデカイ体を最小限に丸めて、靴や口や車が鳴らす公共音に怯えるようにフードを深く深く被り耳を塞いだ。
他人が恐いのにこんな処に居続けるなんて可笑しな事だろう。
極度の人見知りなのに外に飛び出してしまうなんて馬鹿な話だろう。
……なんて君はまた、僕に呆れるだろうか。
まだ起きてもない被害妄想にじわりと悲しいという感情を込めた涙が浮かび、ポタポタとスウェットの膝を濡らした。
僕は臆病者だ。
自分が処理できる頭の許容量をオーバーすることが人より多過ぎて、それが自分に酷いストレスを与え、こうして涙なんて便利なもので気休め程度の安心を与えては自分に同情する。
汚い心の持ち主だ。
自分が誰よりも可愛くて己の身が何より大事で何時だって悪いのは他人のせいにして楽して生きる。
こんな僕を愛してくれる恋人には凄く感謝してもし足りない。
優しい彼に甘えて頼って自分の居場所として根付く僕はどんな生物よりも最低な奴だろう。
しかもそんな優しい恋人を今さっき、僕は見えないナイフで傷付けてしまったのだから。
我が身の保身の為に言ってはいけない言葉を使ってしまったのだから。
あの時の彼の言葉は飛び交う凶器に見えて。
言葉をフォローする為のジェスチャーは何時弾けるのかわからない手榴弾に思えて。
逃げる僕を捕らえる両腕は刺を彩らせた薔薇の茎みたいに鋭くて。
僕には只々恐ろしい化け物にしか見えなくなって…つい、あの言葉を使ってしまった。
普段そんなに使わない声帯と舌に激しい運動を強いて、叫ぶみたいに大きく口を開けて一言。
ギュッって瞑っていた目をそろりそろりと開けて初めに見た景色が脳裏に焼き付いて…あの表情の意味が僕を苦しめ続ける。
優しい恋人の言動は今思い返せば何もかもが僕を思ってのモノばかりで、彼のエゴなんて一つも見当たらなくて。
必死に分からず屋の僕に理解してもらおうと言葉を崩して崩して簡単にして、逃げる僕にめげずにそれでも説得を続けてくれて。
「……」
ツウとまた新しい涙が頬に線を引く。
後悔なんて馬鹿みたいに幾つもしてきた。
どれもこれも自分が原因だった。
頑固者の性格が災いだった。
…僕はもう彼に会う顔がない。
新しい自分に生まれ変わっても、人が羨む力を持ってたとしても、僕が僕であることに変わりはない。
そう、微塵も状況は変化しないのだ。
嘆かわしい程に。
……プツン…
遂に頭の許容量がオーバーし、糸が切れたように意識が宙を舞う。
ドサッ
暗闇の中で回転する世界はどちらが天地かわからなくて、冷たい地面に倒れて漸く理解する。
カラン…カッ…
ポケットに入れてたケータイが落ちる音を最後に、僕は内に引きこもった。
暗い暗い淀んだ内側に、呼吸も要らない鍵だらけの密室に。
誰も入って来られない自分だけの世界に。
卑怯者に最適の居所に。
外のケータイがまた煩く鳴っていた。