第六話
キャセディの一五歳の誕生日を祝う会が延期になった。
隣国のイメルダ帝国との情勢に黒い影が差したからだった。
バザーン中に緊張が走って数日も経たない内に戦の炎が二国の国境近くで上がった。
城の中も外も朝から晩まで忙しくなり、集まる兵は日に日に数を増した。
キャセディの父と姉アンバーが作戦会議に部屋に篭もる中、キャセディは何も手につかず部屋の中をおろおろと歩き回っていた。
夜遅く、アンバーがキャセディの部屋を訪れた。アンバーは牡鹿の紋様を肩に描いた鎧を纏っていた。
「ディー。お父さまと私は戦いに出る」
アンバーはキャセディの隣に座り、彼女を引き寄せた。いつもは温かい姉の胸が今は冷たかった。
「留守の間、城を頼んだよ、ディー」
キャセディは首を横に振った。
「私も一緒に行きます。私だって馬にも乗れるし剣だって上手くなったとヴァリアンに言われました。お姉さまには到底敵わないかもしれないけれど――――」
「ディー」
姉は妹に最後まで言わせず、言葉を遮った。悲しい目をしている、キャセディは思った。
「私とお父さまは外でバザーンのために戦う。ディーは王女として城で戦うんだよ」
「おう、じょとして……ここで?」
「そうだ。私達が帰ってくる場所をしっかり守る。それが貴方に課せられた仕事。分かるね?」
キャセディは少し躊躇った後、しっかりと頷いて見せた。それを見たアンバーはにこりと笑う。
「それでこそ王女キャセディだ」
もう一度妹をぎゅっと抱きしめたアンバーは耳元で囁くようにそう言った。
キャセディも姉をしっかりと抱きしめた。二人はしばらく無言だった。
外の兵の掛け声が少し開いた窓から聞こえたのを合図に二人は離れ、姉は廊下にいた騎士を中に呼び寄せた。
ジュードは重々しい主の装いと違って軽装だった。
彼の鎧姿を予想していたキャセディだったが、彼はいつもと変わらない服装をしている。
彼が二人の近くまで来た時、キャセディは心の中で「えっ」と声をあげた。
彼が姉の前ではなくキャセディの前で膝を折ったからだ。
「ディー。今日からジュードがお前の騎士だよ」
姉の言葉がキャセディの頭の中で素通りする。
(今、お姉さまはなんておっしゃったの……?)
「ジュード。さっきも言ったようにキャセディを守ることは私を守ることと同じだ。妹を……妹を頼む」
「はい……」
ジュードは下を見つめたままアンバーを見ようとしない。
キャセディの胸はちくりと痛む。
「妹は私達の『家』だ。家を無くしては勝って帰ってきても意味がない。私は自分自身よりもディーの方が大事だ。分かってくれ」
「私は! 私は…………」
顔を上げたジュードの目は悲痛に満ちていた。
「頼む。ジュード」
繋いだままの手に力が込められたのが分かった。キャセディは目の前の騎士から姉に目を向ければ、彼女は騎士と同じ目をしていた。
また小さな胸がちくりと痛んだ。
「貴方は……私が断れないのを知っている。なのにそんな命令をするのですね」
「妹を私の代わりに守れるのはお前しかいないと分かっているから頼んでいる。それだけだ」
「私の主は……ひどい御方だ」
キャセディは何一つ言葉を挟めなかった。
ジュードの気持ちが痛いほど胸に流れ込んでくるのが分かった。
自分が彼を想うように、彼も姉を想っている。
辛い恋をしている――――叶わない恋を。
(でもアンバーお姉さまは? ジュードのことを……本当はどう思っていらっしゃるの?)
父と抱擁と挨拶を交わし、キャセディは姉と父を見送った。
長い兵の列が小さくなってとうとうバザーン国の旗が見えなくなるまでキャセディは門から一歩も動かなかった。
第三王女の頭の中は疑問で一杯だった。
(王女としてここを守る。王女として……お父さまとお姉さまが守ってこられた城と皆を今度は私が。でも……一体どうやって? だって私には何もない。何も出来ないのに)
「中へ入りましょう、キャセディ様」
そっと肩掛けをかけてくれたのはジュードだった。
大判の肩掛けが小さな肩を包み込んだ時、初めて自分が小さく震えていたことに気がついた。
斜め上を見上げると優しい目がキャセディを見下ろしていた。
(そうだわ……今から、この時からジュードは私の騎士……)
キャセディは足早に自室に戻った。
高鳴る胸の音を隣の騎士に聞かれていませんように。
火照って赤くなった頬がみっともなく見えませんように。
キャセディは何度も何度も心の中で繰り返した。
いつも後ろ、時には隣を見れば愛しい騎士の顔があった。
それはキャセディがずっと望んでいたことだったのに――――心はどこか沈んでいる。
父と姉を含め多くの人が国のために命をかけて戦っているのに自分は何も出来ず、ただ彼らの無事を毎日祈ることしか出来ず、苛立ちばかりが募る。
「ジュード。まだ知らせはないのよね」
「残念ながら」
「そう……」
一日に同じ質問を何度もする。
その度に騎士は同じ答えを繰り返す。瞳の奥が揺れ、彼がつらい気持ちを押し隠しているのが見えてキャセディをよりつらくさせた。
よく晴れたある朝早く。
礼拝堂で祈りを捧げた後、渡り廊下から水色の花が咲いているのが見えてキャセディは足を止めた。
ジュードは王女の視線を追い、なぜ王女が立ち止まったのかと理由を探す。
「あの花……エリアナお姉さまがお好きだったの。とても綺麗に咲いているわ……」
ジュードはすぐさま庭に降り、水色の花を一輪だけ手折って戻って来た。
それをキャセディに差し出す。
「あり……がとう」
「いいえ」
二人は黙ったまま朝露に濡れた水色の花弁を見つめていた。
そしてジュードがおもむろに口を開いた。
「……キャセディ様、エリアナ様、そしてアンバー様は本当によく似ておられる。三人とも特に瞳がそっくりです」
「瞳が?」
「ええ。皆さまはお母上である王妃さまの瞳をお持ちです。意志の強さを表す王家の瞳です」
「母上を知っているの、ジュード」
ジュードは少し遠くを見るように目を細めた。
そこに肖像画でしか見たことのない母が存在しているかのように。
「一度意見を求められると王や大臣でも舌を巻くような提案をされた。助言もいつも的確でした。王妃さまが体調を崩されて会議に出席されなかった時には決まりかけた案件に対し王妃さまの意見を聞いてから本決まりにするということでいくつか保留になったこともあったほどです」
今まで聞いたことのなかった母の一面だった。
愛しい人の口から零れ落ちるのを取り落とさないようにキャセディは身を乗り出してジュードに続きを促す。
「病気がちだった所は残念ながらエリアナ様へ受け継がれ、頭の回転の早さや剣の技術はアンバー様へと受け継がれた」
「母も剣を?」
「はい。私は幼少でしたが、父と城を訪れた際に訓練場で剣を振るうお姿を拝見したことがあります。キャセディ様のように細身の剣をお持ちでしたよ」
部屋の壁にかけられたままの剣はヴァリアンが戦に行ってしまってから一度も手にしていない。
自分と違って父と姉はこれを片時も離さず敵と戦っているのだと思うと体が震えた。
それをジュードが認める。
「寒いですか」
部屋へ戻りましょうと言いジュードは背を向けた。
大きな背中にキャセディは呟く。
「私も……何かを受け継いだのかしら……」
「えっ」
「私もお母さまの何かを受け継いだのかしら……私、お母さまの事、覚えていないから……」
「……キャセディ様」
両手を握りしめうつむく王女。騎士は彼女の名前を呼んで上へと向かせた。
王女の大好きな笑顔が彼女を見下ろしていた。
「……ヴァリアン様の強さの秘密は何だと思いますか?」
「えっ……?」
「ヴァリアン様です」
突拍子もない質問にキャセディは一瞬戸惑ったが、考えを巡らせた。
ヴァリアンは強い。
それは騎士の強さの象徴でもある隊長という地位を背負っていることからも証明出来る。
ではどうして彼は強いのか。
キャセディはヴァリアンが教えてくれた強くなるための方法を思い出す。
「ヴァリアンは決して訓練を怠らないわ。相手の思考の先へ動く。決して相手から目を逸らさない。負けると思えば体もそれに従って負けてしまうから決して弱気な考えを持たない。体が小さくてもそれを活かす状況を周りから見つける、又は作り出す。動きは猫のようにしなやかだけど、最後だけは獅子のように相手を――――」
思いつくままに頭に浮かんだことを並べる。
キャセディの答えにジュードはにこりと笑う。
そして首を横に振った。
「そうですね。それらは戦う者ならば心得て置かなければいけません。しかしヴァリアン様の無敵の『強さ』とは違う」
「……何なの?」
他にもヴァリアンが教えてくれたことはあっただろうか、とキャセディは指を折って思い返した時、目の前の騎士は彼女が予想もしていなかった答えを口にした。