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煌空の輪舞曲 〜Ronde of the sky-universe Seare〜  作者: 暁ゆうき
第二章 激突、帝国領空戦
9/54

決意と茜空

 場面は一転して、現在の煌天世界に舞い戻る。即ち、煌天暦二百七十一年。四十年に亘る戦役が幕を下ろし、広大な大陸がリ・デルテア王国──つまり現在のトラシェルム帝国に支配されている世界だ。

 トラシェルム帝国領ローセルム、カルフィノ・ファリの街外れにある一軒の民家は、現在のアーシア達が暮らしている家である。この家の住人の一人、立派な白髭を蓄えた人物──クエインが居間の黒い椅子に腰掛け、昼過ぎの陽気にまどろんでいると、玄関の扉が勢いよく開いて、とびきり元気な足音が駆け込んできた。 

「おーふぁさま、くえいんさまっ!」

 走りながら発せられた幼い声の主は、この家の近くに住む、マリーという名の女の子だった。

「おお、ここにおるぞい。いやはや、あいかわらず元気なことだ」

「あっ、くえいんさま、こんにちは」

「こんにちは、マリーちゃん」

 クエインは自分の孫にでも会ったかのような、解けるように優しい微笑を浮かべた。

「ねえねえ、くえいんさま、またお話きかせて」

 大きな瞳を輝かせながら、マリーはクエインに話をせがんだ。

「おお、そうか、そうか。では、どんな話がいいかのぅ」

 クエインは、この少女によく話を聞かせてあげていた。それは神話や伝説だったり、世界の歴史の話だったり、あるいは自分達の冒険談だったりした。話の内容は実に多彩で種類が豊富だが、子供には難しいものが多かった。それでも、マリーはクエインの話が聞きたくて仕方ないのである。

「あら、マリーちゃん?」

 ちょうどこの時、二階から降りてきたアーシアが、マリーの存在に気付いた。

「いらっしゃい。遊びに来たの?」

 腰を屈めて目線の高さを相手に合わせてから、アーシアは小さい訪問者に向かって訊ねた。

「うん。くえいんさまに、お話をしてもらいにきたの!」

「そうなんだ」

 しかし、アーシアはクエインの憩いの時間をなるべく邪魔したくなかったので、ニッと笑ってからこう言った。

「マリーちゃん、一緒にあそぼっか」

「うん! おーふぁさまとあそぶ!」


 ──クエインとアーシア。二人の関係は、今では本当の親子もしくは祖父と孫と呼んでも差し支えないものだ。


 二人が出会ったのは十年も前のことだが、その時アーシアはまだ十歳程度の子供だった。また、クエインはすでに老紳士だったわけで、今はかなりの高齢ということになる。

 出会ってからこれまで、彼女達はずっと一緒に流浪の冒険生活をしてきた。彼女達の間にある絆は、長い時間をかけて堅固に構築されたものである。

 そして、長い旅の末にこの地に辿り着き、ひっそりと暮らし始めたわけだが、オーファの持つ特別な力を見られてしまってからは素性を隠すこともできず、街の住民との接触はほとんどなくなって、気味悪がられ、疎まれる日々が続いている。

 店先で他の客に迷惑だからもう来ないでくれ、と言われたこともある。だから買い物などは苦労もあるが、それくらいのことは慣れっこだった。

「そういえば、おーふぁさま。きょうは、りしゅらなおねえさま、いないの?」

「うぅん。いつも傍にいるわよ。困ったときには、すぐに来てくれる」

 アーシアは静かに目を閉じ、妹を想った。


 リシュラナ──。それはアーシアの双子の妹である。彼女は死の運命を乗り越え、今は別の生命形態をとって生き続けている。魔晶装甲の甲冑、アーシアの守護神であり、パートナーでもあるサウルだ。

 サウルの存在は、人間の姿を留めているオーファ以上に超常的である。高次の生命体サウルの姿は、サウル自身が望まない限りは、普通の人間の目に映らない。その姿を見ることができるのは、体内に特殊なメナスト(現代シーレでいうところの魔晶素)を宿す者に限られる。

 この少女マリーにリシュラナの姿が見えるのも、彼女の中にごく微量の特異メナスト──神の息吹が流れているためだろう、とクエインはそう語っていた。


「おーふぁさま、どうしたの。どこかいたいの?」

 声を聞いて目を開くと、マリーが自分の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「ごめん、ちょっと考え事してたの。大丈夫よ──」

 するとこの時、玄関のドアが何者かによってノックされたのであった。

「わたし、見てくるね」

 アーシアの返事も待たず、マリーは玄関の方へ走っていった。この少女は優しい気遣いのできる子で、俗世と距離を置いて生きるアーシア達の立場をよく心得ている。

 それにしても、この家にマリー以外の客人とは滅多にないことである。クエインとアーシアは顔を見合わせた。

「珍しい……誰でしょうね」

「戦争の動きがあるからな。このタイミングは、役人かもしれんぞ」

 空軍基地を急造し、軍艦を結集しているとの噂を耳にした。まだ公表されたわけではないが、どこかの国と開戦するのではないだろうか。自国の空軍の弱さに窮してオーファに助けを求めることも、あり得ない話ではない。明晰なクエインの頭脳は老いても冴え渡っていた。

 それほどの時間を置かず、マリーは戻ってきた。

「あのね、おーふぁさまに会いたいって」

「制服を着て、こう……大きな羽の付いた帽子をかぶっていた?」

「うん」

「おじい様の言う通りか」

 羽付き帽子は役人の証。これはトラシェルムの伝統である。古くは前身であるリ・デルテアの建国以来の習わしで、翼を持った女神ネア・ミアに基づく。この国にとっての羽ないし翼は繁栄のシンボルとなっている。

「おじい様、どうしましょう。……後味は良くないけど、留守を装っちゃいましょうか?」

「うーむ。だがしかし、用件が気にならなくもないな」

「確かに、それは同感だわ」

 役人に会うのは面倒の元でしかないし、用向きもだいたいの予想がついている。だが、この国の役人の程度がどれほどのものか、どんな態度で接してくのるか、興味がある。

「では、ちょっと聞き耳を立ててみるわ。会うかどうかはそれから決めます。……マリーちゃん、ごめんね。イヤじゃなかったら、もう一度行ってもらえる?」

「うん。でも、なんていえばいいの?」

「ありがとう。……そうね、ここはちょっと強めに。誰とも会わない、って」

 マリーは大きく頷いてから、再び玄関に向かっていった。

 

 アーシアは聴覚に意識を集中した。すると、彼女の能力によって、玄関でのやり取りが聞こえてくる。

(トマ……ロシオウラの……)

 話を終えたマリーが戻ってきた。今度は、少し難しそうな顔をしている。

「えっとね、よくわからないけど、大切なおしごとでやってきたって。とま、っていうなまえなんだって。あと、おーふぁさまにこれをわたしてくれって」

「わかったわ。ありがとうね」

 マリーの手には鮮やかな飾り線で彩られた、豪華な封書が握られていた。アーシアはマリーの頭をよしよしと撫でてから、その封書を受け取ると、中に入っていた書状を開き、読み始めた。

「これは……、摂政ロシオウラ様の直筆の書状のようね。やはり私の力を頼みにしているようね」

 ロシオウラの直筆を示すサインが、文面の最後にある。

「ほお、あの有名なロシオウラ様か。さすがの天才摂政殿も、今度ばかりはお手上げのようじゃな」

 ほほ、と笑うクエインの傍らで、アーシアは書状を繰り返し読んでいる。胸に染み入る文章と、乱れのない美い文字に見とれてしまったのである。

「ロシオウラ様がどうかは知らんが、政府の連中はオーファを悪魔や戦争の道具程度にしか思っておらんじゃろう。そのくせ、危機に瀕すればこうして頭を下げて頼みに来る。わしに言わせれば、何とも往生際の悪い連中じゃよ」

 クエインは非常に苦い顔をしている。戦争をする連中にとってのメナストの力は、兵器として利用するためのもの。そのメナストを自在に操るオーファとは、彼らにとっては、言わば戦争の手札にしか過ぎないだろう。彼らは利用できるものを利用したい時に利用するという、実に効率重視で傲慢な態度をとる生き物だ。

「おじい様……、あの……」

 アーシアの態度に変化が見られる。彼女は元々、困っている人間を見過ごすことなどできない性分だ。心を揺さぶられて、迷いが生じたのだろう。

「まあ、待つのじゃ。こういう局面では慌てて答えを出すこともない。相手に辛抱させて、出方を見るのもいいじゃろうて」

「そう……ですね」

「のう、マリーちゃんや。すまないが、あともう一度だけお客さんに会ってくれんかの。あとでご褒美をあげるから」

「ほんとう? いっしょにお話もきかせてくれる?」

「ほほ、お安い御用じゃよ。わしのお願いを聞いてくれるかな?」

「うん! わたし、行ってくる。それで、なんて言えばいいの?」

「そうじゃな……ここはきっぱり、会うつもりはないから、早く帰れと伝えておくれ」

 マリーは喜んで、玄関へと走っていった。

「おじい様。さすがにここまでくると、意地悪な気がするけれど」

「わしはいじわる爺じゃからの、そんな気は全然せんな。お前は心が痛むか?」

「……」

「さて、どんな反応をするか見ものじゃぞ」


 歓迎されていない客人とのやりとりを終え、マリーが二人の元に戻ってきた。

「話だけでもきいてくれって言ってるよ。すごくいっしょうけんめいだよ。どうするの、おーふぁさま」

「そうみたいね。ありがとう、マリーちゃん。……しかし、トマとかいう役人、結構頑張るわね」

「うむ、さすがに食い下がりよる。まぁ、首がかかっとるからな」

 クエインはカカ、と笑いながら、自分の首を手刀で切って見せた。

「放っておけば、諦めて帰るかしら」

「さあて、どうかな。マリーちゃんや、客は何人いたかの」

「う〜んと、一人しかいないみたいだったよ」

「では、無理矢理連れて行くつもりもないみたいね。……人数を隠してなければだけど」

「それも、やりかねないが」

 アーシアはしばらく考えてから、言った。

「おじい様、適当にあしらって追い返してきます」

「ふむ。まぁ、それもよかろう」

 本心では訪問者に会って話を聞きたいのだろう。クエインはアーシアの胸中を察し、敢えて彼女を後押しするように頷いた。

 それに、ここまで任務に忠実な、真摯で辛抱強い相手ならば、信念無きつまらない役人ということもないだろう。アーシアにも、何か得るものがあるかもしれない。


 *  *  *


 アーシアが玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、少し頼りなさそうな男だった。背は高いけどやや痩せ型で、顔は悪くはなかったが気弱そうな印象を受けた。

 この地方役人……トマはアーシアの実力を見極めたいと申し出た。彼自身がオーファの存在に半信半疑だったから、無理もないことではあったが──。


 相手の提案を承諾したアーシアは表に出た。

 その後を追って、マリーも外へ飛び出していた。二人が何をするのか見たかったのである。

「マリー!」

 その少女の名を呼ぶ声があった。これは彼女の母親だった。

「ここに来ては駄目って言ったでしょう! 何度言ったらわかるの。……さぁ、帰るわよ」

 そう言って、強引にマリーの手を掴み、彼女を連れて行ってしまった。しかも去り際、さげすみの視線をアーシアに向けながらである。

 しかし、母親はそうだったが、マリーはこの時、全く別のものを憧れの視線で見ていた。

 それはオーファの傍らで浮かぶ白銀の甲冑──リシュラナの姿である。


 アーシアは向かい合うトマに対し、こう勧めた。

「あなたのその腰の剣。それで私を好きにするといいわ」

 トマは剣を抜き、躊躇いを振り払って、彼女に向かっていった。

 しかし、突き刺さるはずの彼の剣は、アーシアには届かなかった。アーシアを守るリシュラナの鋭い指先によって、しっかりと受け止められてしまったのである。

 その後、自分の前にを晒したリシュラナを見て、アーシアを本物のオーファだと確信。彼は感服し、跪いてアーシアに嘆願する。

「あなたが力を貸してくれなければ、たくさんの人が苦しむことになる」

 その言葉は、戦争の間接的な影響で両親と故郷セノスを失ったアーシアの心を強く揺さぶるものであった。


 ──だが。

 彼女はトマの頼みをきっぱり断った。

 大勢の罪なきを苦しめた戦役の原因を作った国に力を貸したくはなかったし、私情に流されて簡単に自分の力を貸してはいけないと思ったからである。


 アーシアは家の中に戻った。今、彼女の心には迷いと動揺がない交ぜになってこみ上げている。

「この国がどうなろうと……知ったことじゃない。この国の元は、戦乱を起こした張本人じゃないの。憎むことはあっても、助ける義理なんて……ないわ」

 玄関のドアを背にしたまま、彼女はそう呟いた。彼女が幼い頃戦争の影響を受けたのは、トラシェルム帝国の前身であるリ・デルテアが起こした戦役による混乱が原因のひとつなのだ。私怨も浅からざるものがある。

「アーシア、おいで」

 奥でクエインが呼んでいる。アーシアは居間にいる彼の傍に寄り添った。

「お前は、人一倍戦争を憎んでおる。本当は、何かしたいと思っておるのじゃろう?」

「……」

「だが、知っておるように、オーファが戦争に介入することは、非常に重大な意味を持っている」

 アーシアは師匠でもある彼の言葉、その一言一言を噛みしめるように聞いている。

「役人や軍人はオーファを単なる戦力としか考えておらぬが、それは大きな誤りじゃ。歴史にもあるように、オーファの力をもってすれば、戦争を終わらせ、世界に平和や調和をもたらすことができるかもしれない。だが、その一方では、世界に破滅をもたらして地獄に変えることもできる。オーファとサウルは、それだけの力を持っている。

 我々の持つ、神の力の片鱗と呼ばれるメナスト──それを操る能力とは、戦争の道具で片付けられるような、生半可で低俗な力ではないのじゃ。だから、オーファが戦争に関与し、その力を使うことは、とてつもなく重大なことだ。使い道次第では、大変なことになる」


 ロスト・エラ当時のメナスト・テクノロジーが失われたために、シーレでのオーファは完全に超越者である。その力は絶大だ。その気になれば、国ひとつ滅ぼすことなど造作もないだろう。

 クエインはさらに続ける。

「何せ、ロスト・エラ崩壊の原因がオーファにある、という説があるくらいじゃからな。まあ、資料が少ないゆえ真意の程はしれぬが……近からず、遠からずじゃろう。オーファはそういった存在だ。その自覚を持ち、絶やしてはならん」

 クエインが言う説は、広くシーレに浸透しているものだ。この世界において、オーファが破壊の使徒として認識されているのは、遥か昔のオーファが関与した戦いで世界が滅んでいるためなのである。実際の歴史ではどうだか知れないが、一般的にはオーファは忌むべき存在だ。

「わかっています。オーファとしての自覚、そして掟ですね。……今までは特別に意識せずにいたことだけれども、今はよくわかります」

 超越者の軍事介入。これが世界の行く末を左右する、重大な決断となるかもしれないと言うことだ。

 アーシアもクエインが言うオーファとシーレの関わり方はよく心得ているつもりだ。

 だが、こうも考える。それらは結局のところ、頭の中にある決め事や知識に左右されたものに過ぎない。今、彼女の良心は、絶えず決起を促しているではないか。彼女の心は、なおも葛藤を続けた。

「アーシアよ」

 苦悩する様子を見かねたクエインは優しく、アーシアの手を握った。そしてまた同じく優しい眼で、彼女を真っ直ぐに見つめながら語りかける。

「お前は戦争を憎み、そして今、目前にそれが迫っている。関わりたくとも、自分とリシュラナの力を知っているだけに、どうすればよいかわからぬのも当たり前じゃ。だから、わしはどうしろとは言わん。お前の思うようにやってほしい」

 クエインの声は、暖かくて慈愛に満ちている。彼にとっては娘同然のアーシア。また、アーシアにとっては父親同然のクエイン。

 だが、アーシアはもう子供ではない。彼女の進むべき道を彼女自身で決めるのが、オーファの在り方などよりずっと大切なことだと、クエインはそう思っている。ロスト・エラとは世界そのものが違うし、オーファの在り方も変わって然るものだろう。古臭い迷信や伝説に振り回されることもあるまい。

「それに、わしはメナスト操作はできるが、高度な古代術を扱うことができん。だがお前は違う。お前には、それを扱う力がある。あとはその使い方次第だが、お前なら世界を滅ぼしたりはしないじゃろうしな」

 この時、アーシアは思った。世界中で戦争が絶えない。元々ボロボロなこの可愛そうな世界に平穏が戻るまで、これからどれほどの血が流れるのだろう。残された陸地がどれだけ荒れるのだろう。

 このシーレに生まれ、特別な力を得た私にしか、できないことがあるのではないだろうか。自分の持つ力は、本当は今こそ発揮すべきではないのか──。

「お前はもう、出会ったころのような子供ではないんじゃ。自分の道は、自分で決めるが良い」

 最後に、クエインはそう言った。わざと突き放す口調だったのは、彼の優しさから来るものだった。


 アーシアは、二階にある自分の部屋に戻ると、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「ねえ、リシュ。あなたはどう思う?」

 サウルであるリシュラナは召喚するか、本人の意志でしか現れない。しかしそこにいなくとも、言葉がなくとも、アーシアには彼女の言いたいことが何となくだが伝わってくる。これが、オーファとサウルのコミュニケーションである。

「そうよね……あなたも戦争は大嫌いよね」

 アーシアは、ぼんやりと天井を見つめた。

 戦争を憎んでいる。世界のために出来ることがあれば、ここから飛び立ちたい。

 だが、自分は特別な存在オーファである。自分が世の戦に関与するということは、重大なことに発展しかねない。

「……でも、このまま何もせずにいていいのかしら。すぐ近くで戦争が起きるのを、黙って見ているだけでいいのかしら」

 過去の記憶が脳裏に甦ってくる。赤々と燃える生まれ育ったセノスの村。襲ってきたのはまるで人間ではなかった。今でも不思議に思うことだが、なぜあれほどひどいことができたのだろう。兵士たちの目はまるで血に飢えた猛獣が如く、爛々としていた。

 戦争が、人の心を変貌させるのだ。無限の恐怖や欲望、様々なネガティブな念によって、人を殺すことが普通に行われるようになる。しかも、その風潮は世界中で今もなお続いている。シーレでは戦争が戦争を呼び、憎しみが止むことがない。

 アーシアはベッドの上で横向きになって、瞼を閉じた。

 後から聞いた話では、生まれ故郷を治めていた領主は糾弾の声が強まって絶えなくなり、領内では反抗する武装集団さえ生まれ始めた。

 その後、やってきたリ・デルテア王国の軍隊によって粛正されたらしい。しかも、それは国王ベルギュントが率いる精鋭部隊だったとか……。


 *  *  *


「……」

 次にアーシアが気が付いたときには、もう窓から夕日の光が差し込んでいた。

「寝てしまったのね……」

 アーシアは窓を開け、外を眺めた。それから、ふと軒先を見下ろすと──なんと、先ほどの役人が、まだ先程と同じ場所にいるではないか! あれから、ずいぶんと時間が経っているというのに。まさか、彼は今まで諦めることをせず、ずっとそこにいたのだろうか。

「あの人……信じられない」

 はやる気持ちに身を任せ、アーシアは部屋を飛び出して階段を駆け降りた。私情よりも優先すべきものがあるということ──自分の中に、そして彼の中にもそれが見えたのである。


 たとえ、それが正当化できない正義だとしても構わない。いわれの無い戦争で、無力な人々が傷つくのは耐えられない。もちろん、全ての人を救うことはできないかもしれない。だが、哀しみを最小限に食い止めることは出来るはずだ。

 戦争の弊害に苦しめられたアーシアはその時、抗う力の無い子供だった。しかし、今は違う。彼女にはできることがある。


 ──夕焼けに染まる、カルフィノ・ファリの街並み。


 アーシアが外に出ると、やはり役人トマは跪いた態勢のままで同じ場所にいた。彼はすぐにアーシアが戻ってきたことに気付いた。

「あ、オーファ様」

「ちょっと。あなた、ずっとそのままでいたわけ? ……どうして諦めなかったのよ」

「はい。もう一度出てきてくれると、そう信じて待っていました。僕に出来ることは、これくらいですから」

「はあ……。本当、あなた役人に向いてないわよ」

「よく、言われます」

  呆れるしかないアーシアに、トマは力なく笑って答えた。

「オーファ様の協力をいただけなかったのは残念ですが、仕方ないですね。僕も決心がつきました。これから帰って、任務は失敗したと報告します」

 さすがのトマも諦めがついたらしい。おもむろに立ち上がり、この場から立ち去ろうとした。

 アーシアはそんなトマの動きを黙って見つめていたが、彼の寂しそうな背中に向けて声を発する。

「一緒に行きましょう。帝都へ」

「え……」

 振り向いて、きょとんとするトマ。

「も、もしかして、我々にお力を貸していただけるんですか?」

「はい」

 アーシアは力強く頷いた。

「あ、ああ、ありがとうございます!」

 トマは深々と頭を下げながら、アーシアの手を力強く握った。

「痛……っ、ちょっと、痛いってば」

「あ。……すみません」

 慌てて手を離して飛びのくトマ。口を尖がらせて自分の手をさするアーシアの前で、何とも憎めない嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 今のトマには、アーシアが協力を決意するに至った過程や事情などはわからない事である。しかし、彼がオーファの説得に成功したことは間違いない。

 トマのような人間は誠実さくらいしか取り柄がないが、逆にそれが彼女の心を動かすのに功を奏したと言えなくもない。これは恐らく、トマ一生の内で最も輝かしい功績となるだろう。


 準備を済ませたアーシア達を乗せた馬車は、一路帝都へ向かう運びとなった。

「そう言えば……」

 揺れる馬車の中、トマは同乗者に訊ねる。

「今更ですけれど──オーファ様の名前をお聞きしていませんでしたね。教えて頂けますか?」

「ああ。そう言えば、そうだったわね」

 エメラルドの優美にも勝る瞳をトマに向け、オーファはにこりと愛嬌たっぷりに微笑んだ。

「アーシアよ。アーシア・ウィルケイン。よろしくね」

 彼女の髪を彩る飾りが夕焼けの陽光を受け、紅く美しく輝くのであった。

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