禁忌の超越者
トマ・ライグェフは女性オーファを見出したものの、その説得には失敗した。この話には続きがあり、また未だ語られていないオーファ側のエピソードもあるわけだが、それらを語ることをひとまず置いておき、時計の針を逆回転させて、アーシアとリシュラナ姉妹が故郷の村セノスを逃れたあの日、その運命の場面まで時を遡りたいと思う。物語の順序が乱れることをどうか許していただきたい。
~煌天暦二百六十一年 トラシェルム大陸ギ・マ国セノスの森~
遡ること十年前。辺境の村セノスは悪魔の如き領主の私兵団によって蹂躙されたが、幼いウィルケイン姉妹は辛くも難を逃れ、村からの逃亡に成功する。
だが、二人に安心する暇はなかった。二人はすぐに村の周囲を封鎖する兵士に発見されてしまったのである。さらには追手を撒くことに必死になるあまり、唯一の命綱とも言うべき、隣町へと続く街道を見失ってしまう。
その後は十代前半の少女が立ち向かうには些か過酷な道程が続いた。深い森の中をさ迷うことが例えようの無い不安感を煽り、疲労を蓄積させた。さらには突然の豪雨に襲われ、身体の弱い妹は状況の過酷さに耐え切れなくなり、ついには崩れ落ちてしまう。
アーシアは偶然見つけた小屋の中に妹を寝かせると、大雨の中、助けを呼ぶために建物を飛び出した。その後、脇道で遭遇した老翁と共に小屋に戻ったアーシアだったが、立派な白髭を蓄えた老翁は、衰弱したリシュラナの痩躯を見て即座に察知した。
──彼女が、もはや助かる状態ではないことを。
「うぅむ。アーシア……と言ったな。どうしても妹を助けたいか」
「……」
老翁は、無言で頷くアーシアの真っ直ぐな瞳を見据えた。それから、見返す彼女の瞳に強く引き付けられた。
(ふむ。やはり、この娘の瞳には先天的なメナストの光が宿っている。極めて特異な虹彩の持ち主だ。体内に稀有なメナストを宿しているのだろう──)
身に宿すメナストの強さというのは、瞳に最も強く表れる。
メナストとは、世界を満たす全ての源であり、神の息吹だ。そして、この姉妹には世界の構成要素とは異なる、非凡なメナストが宿っている。間違いなく、姉妹の持つ資質は類まれなものだ。そう思わせるだけのきらめきを、姉妹は有している。
老翁は、アーシアと出会った時から確信していた。重大な賭けをするだけの価値と勝算が、天の女神から十二分に与えられている、と。
「わしならば、妹を助けることができるかも知れん」
荷物から取り出したランプに火を点しながら、老翁はそう打ち明けた。
この時、老翁の指先から直接火が出てランプが明るくなったように見えたのは、アーシアの気のせいであろうか。
「本当に?」
少女は問うた。
「うむ。残念ながら、必ず成功するとは言えんがの。助けられる可能性は十分にある」
姉妹に安らぎを与えるために、嘘をついているわけではない。老翁は死の淵にあるリシュラナを助ける術を、確かに知っている。
──ただ。
知ってはいるが、問題もある。それを実行することによって、今後の二人の人生が大きく変わってしまうことがわかっていた。やがては今よりも辛い現実、宿命と戦わねばならなくなる日が訪れるかもしれない。
「アーシアよ。難しいかもしれんが、わしの質問に答えておくれ。──おぬしらは、これから先、どんなことでも我慢できるか? その覚悟ができるか?」
悩める老翁は選択の重要性を再認識し、目の前の少女に念を押した。
「私は何でも我慢します。だから、妹を助けてあげて」
娘の言葉は真っ直ぐだった。姉妹二人で生き残ることが、今のアーシアが望む、たった一つの願いだ。その願いが叶うのならば、どんなことでも我慢できる。
「ならば、それを行なう前に話しておこう。妹を助ける方法とは────」
強くなってきた風の音が老翁の作り出した無言の間隙を埋めた。空中を走る雷光が窓から飛び込み、小屋の内部を眩く照らし消滅した。
「──生まれ変わらせることだ。『姿』こそ変わるが、『魂』は失わずにすむ」
それは常識では考えられないような話だった。彼はリシュラナを生まれ変わらせると言った。
「話には続きがある。妹だけではなく、お前も生まれ変わることになるのだ」
「生まれ変わる……って?」
「極端な言い方をすれば、人間の領域を超えた存在となる。……と、説明したところでわからぬとは思うが、神様の力……『本物のメナスト』の加護を得ることになるのだ」
少女は少しばかり目を伏せた。確かに、そのようなことを理解できようはずもない。子供だからということもあるが、それ以上に唐突で突拍子もない話だ。
だがアーシアは老翁を信じたのである。彼女はゆっくりと頷き、そしてこう言った。
「……それでも、生きられるというのなら……二人で生きつづけたい。それは私だけじゃなくて、お母さんの願いでもあるから」
「よろしい。だが、おぬしが良くても、妹の心はわからんぞ」
そう言いながら老翁はリシュラナの顔をのぞきこんだ。
(──とは言ったものの、この状態では、妹の方の返事は聞けぬな……)
発熱で真っ赤だった顔は、今ではほとんど血の気が無い。意識も体力も極限にあり、会話などできる状態ではないのだ。
二人の会話が耳に入っているかすら定かではない。語りかけても反応が得られない状態だ。それでも時々は、ほとんど聞き取れないかすれ声で「お姉ちゃん」と呟いている。
老翁は思わず、瞼を閉じた。
(わしに、この娘たちの運命を弄る権利は無い……それはわかっているつもりだ)
支えあう二人の少女の姿に、老翁は胸を痛めずにはいられない。瞼を開けて見れば、アーシアはずっとリシュラナの手を握っている。この姉も妹とは違った意味で今にも消え入りそうである。
(誤魔化せぬ。わしが行おうとしている仕打ちは、ひどく残酷な所業に違いない。しかし──救いがないわけでもない。この姉妹の類稀な資質と関係性を、偶然や姉妹愛といった言葉で片付けることはできない。この娘らのメナストが、相互補完という形ではあるが眩き完全性の上に成り立っているのは明白。この姉妹を助けないのは、天の理に反することになる)
ガタガタと窓が鳴った。風がさらに強くなってきたのである。ただの大雨ではなく、もはや嵐と呼ぶに相応しい空模様だった。再び稲光が小屋の中に飛び込んで消滅すると、老翁は意を決し、立ち上がった。儀式の準備を始めるためである。
まず最初に、老翁は床板の貼られていない土の地面に木の棒を突きたて、その先端で何やら描き始めた。
「ウム。半分が土の地面で助かったわい。広さもこれくらいあれば十分じゃろう」
アーシアは食い入るように老翁の動きを目で追った。彼はまず大きな円を描き、続いてその内側に直線と文字を書き始めた。彼の手によって生み出されていく文字はアーシアが見たこともないもので、不思議な記号のようにも見えた。
老翁は黙々と文字と線を刻み続け、やがて小屋の中に複雑な円状の文様が完成した。
「よし、できたぞ。簡単だが、術の補助ならばこれで充分じゃ。さぁアーシア、妹をここへ運ぼう」
リシュラナは小屋の中心にできた、この不思議な円の中心に寝かされた。
「この絵は……?」
円の中心に立つと、アーシアは完成した模様の幾何学的な美しさにますます心奪われた。
「これがそんなに気になるか? これはな、魔方陣と言って、おまじないに必要なものを簡略化して記したものじゃ。ここに書かれている文字はずっと大昔に使われていたものじゃよ。手製で大雑把な作りではあるが、これを描いておけば儀式がずっとやりやすくなる」
それから老翁は小屋の一角にどっかりと居座るリュックの中から、奇妙な球体を取り出した。アーシアはまた、その球体にも目を奪われた。
「不思議じゃろう。これはな、こう見えても金属の球なんじゃよ。とても珍しいもので、最初からこのような丸い形をしておる。神石と呼ばれるが、あまりにも人間の想像を超えるものだから、神の落し物と呼ばれることもある」
コアという名の不思議な物体は、不気味な、でもどことなく懐かしく、暖かい気持ちになるような輝きを放っている。さらに見続けていると明滅を開始し、温もりのある乳白色の光を放ったり、清涼なる青白い光を漏らすようになった。かと思えば血液を思わせるような赤褐色にも変化する。その不規則な発光現象は明度や色調において二度とは同じ表情を見せることはなかった。
幼いアーシアにはその球体が生きた宝石のように見えてきた。
「いや、神石がここまで反応するとは驚いたわい。もの凄い共鳴現象じゃ。この変化は、おぬしたちの持つ素質に反応しておるのじゃよ。……さて、ほんの少しだが、契約のために二人の血が必要になる。悪いが、ちょっと我慢しておくれ」
老翁はナイフで、姉妹の指先をほんの少しだけ傷つけ、滲み出た血を例の球体に塗りつけた。すると、球体は猛烈な勢いで発光し、眩い光の渦が広がって姉妹を包み込んだ。
(やはり、特異メナスト所有者! わしの目に狂いはなかった。これなら、間違いなくうまくいく)
老翁はさらに確信を深めた。この儀式は失敗する可能性もあるが、先ほどからのコアの反応はただ事ではない。儀式は成功し、魂の消滅──つまりは完全な死から、妹を救うこともできるだろう。
「よし、アーシア。妹の隣に寝るのじゃ」
言われたとおり、アーシアはリシュラナの隣に寝そべった。二人の手は強い絆の元、強く握られている。
老翁はその姉妹の頭上に、先ほどの球体を静かに置いた。そして自身は結界の外に出ると、膝をつき、目を瞑った。
「フォ・ヴォーグ・エゾート、我等が根源、神たるメナストよ、万物の父であり母よ、願わくば選ばれし者たちに肉体の昇華と常世を統べる力を与えたまえ。魂の契約の元、別離の魂さえも呼び戻し、ここに二つを繋ぎたまえ……」
老翁は呪文を詠み上げる。それは術の詠唱であった。老翁の体が赤い光で包まれ、金属球体はひとりでに宙に浮き、姉妹の上で静止すると、さらなる光を発し、被術者達との共鳴を強めた。さらにルーン文字を連ねた光の帯が複数現われ、神石の周囲を取り巻いて高速で回転し始めた。
「……フォ・ヴォーグ・メラニタイア・イデアス。荘厳なる古の英神よ、ここへ降り立ち給え。求めし我らに、偉大なる加護を賜りたまえ……」
アーシアはしばらく老翁がブツブツ呟くのを聞いていたが、そのうち意識が遠くなって、やがてはなにも聞こえなくなった。
──姉たる存在は、暗闇の中で、妹が金色の光の粒になって空に消えていくのを見た。
* * *
アーシアが次に目を覚ましたのは、激しかった嵐が通り過ぎた後。小さな窓から優しい陽の光が差し込む時間帯だった。
「……」
自分の体に薄い布が被せてある。老翁が掛けてくれたのであろう。また、濡れたままだった衣服はいつの間にか乾いていた。ふと妹のことが気になって隣を見てみたが、そこには妹の姿はなかった。
「目が覚めたかの」
老翁は小屋の外でスープを作っていたらしい。小屋の中に運び込まれた小さ鍋から、良い匂いが漂っている。アーシアは真剣な眼差しで味見をする老翁を、しげしげと見つめた。
「……そう言えば、名前を言うのを忘れておったな」
老翁は温厚そうな笑顔を浮かべ、『クエイン』と名乗った。
「クエインさん……。あの……色々とありがとうございました。それで、リシュは……妹はどこにいるのですか?」
空腹のアーシアはスープの香りにはそそられたものの、最も気がかりな妹の安否を訊ねずにはいられなかった。クエインは一呼吸おいてからそれに答える。
「……そこにおるよ」
そう言ってクエインは顔の向きを変えたが、彼の示す方向には、妹の姿はない。アーシアはきょとん、とした。
「え……っ? あの、どこに……」
もしかすると、物陰に隠れていて見えないのだろうか? そう思って見回してみたが、この小屋の中に子供が隠れられる場所などはない。目をこらして見ても、やはり妹は見つからなかった。
──ただ、その妹の代わりに。
例のコアと呼ばれる球体が、フワフワと宙に浮いていた。それは何とも奇妙な光景だった。手品のように空中浮遊する空中のコアは、まるで一つの生命体の心臓のように脈打っていた。
神石コアを見つめるアーシア。その様子をしばし見守ってから、クエインが口を開いた。
「──今、おぬしが不思議そうに見つめているその球体こそが、おぬしの妹じゃ」
「……!」
驚くべき宣告に、アーシアは言葉を失った。
(これは酷な話だ。……かと言って、妹が本当は別の場所にいる、と言っても理解できぬだろうし、こう言って正解のはずだ)
クエインはそう思いつつ、まだ幼いアーシアの姿を見据えた。
受けたショックがよほど大きかったのだろう、少女は微動だにしない。瞬きを忘れた瞳を神石に向け、ただただ呆然としていた。
「これは、何。私だけ生きているの? 私だけ──」
「アーシア、気をしっかり持つのじゃ。説明したように、妹は死んではいない。それどころか、もう病気に悩まされずに済むようになった。妹は生きていて、しかも、今まで以上におぬしの近くにおる。だから、決して悪い方に考えてはいかん。……どうか、今はこのわしを信じておくれ」
言われてみれば、確かに。妹がすぐ近くにいるという感覚がある。でも、妹が生きているって。この球体が妹だなんて……。一体、どういうことなのだろう。アーシアにはとてもではないが、理解できなかった。
「よいか、心を落ち着けて聞いておくれ。見てのとおり、妹は以前とは異なる姿に生まれ変わった。そして、おぬしもまた、妹と同じように生まれ変わった」
クエインは優しく言い聞かせるように、さらに続けた。
「妹とおぬしは、魂の契約を結び、新たな存在となったのだよ」
クエインがは姉妹に施したもの、それが旧世界の秘儀、古代の転生術『メラニティ』だ。
転生術メラニティとは。
被術者となる二名のうち一方を『オーファ』に、もう一方を強大な守護神でありオーファのパートナーとなる『サウル』へと生まれ変わらせる、古代術の中でも極めて特殊なもので、数少ない秘術に属するするものである。
誕生したオーファは人間の姿を残すことができるが、サウルの側は以前の肉体を残すことができない。その代わりに、コアを心臓部に持つ堅強な魔鋼甲冑を己が実体として代用し、制限はあるが現世で行動することができる。
そして、この秘儀メラニティによってオーファとサウルは強大な神の力の片鱗──つまり極純粋領域にある高次メナストの加護を得ることになるが、代償としての魂の共有によって、片一方だけでは生きられなくなる。契約の元、ひとつの魂をコアを通して共有することになるのだ。
(……妹は、生きている……)
生死の概念では推し量ることのできない未知なる力を、アーシアは感じとった。何か大きい、大きすぎるものに触れた気がする。奇跡としか言いようのない、例えるならば神様との出会いと呼べるような体験だった。
「魂……契約……私……リシュ……」
アーシアは見る影もなくなった妹を見つめた。脈動するコアが、時折神々しい青白い光を放つ。これがリシュラナの、いや私達の魂の輝きなのだろうか。
「おぬしの妹は今はそんな姿だが、やがてはあるべき姿へと変化する。例えれば、そう……今は、サナギのようなものじゃな」
魂の宿ったコアは、様々な外的・内的要因の影響を受け、顕在・潜在要素を具現化し、周囲に外装を纏うことで姿を変える。リシュラナがサウルとして真に覚醒すれば、コアが形を変えて魔晶金属を外骨格とする生命体に生まれ変わるのだ、
クエインの話を聞けば聞くほど、アーシアは困惑の色を深めずにはいられなかった。
だがそれと同時に、一つのことに気付いた。不思議なことだが、以前よりも妹の存在を身近に感じるのである。だからアーシアはこの変化を否定的に受け止めはしなかった。
クエインの言う通り、妹は生きている。そしてその事実が感覚として伝わってくる。肉体を超越した、魂レベルでの連携。滅びた旧世界の遺物である古代術がそれをもたらしたのだ。
「──さぁ、スープを飲みなさい。冷めてしまうよ」
クエインはアーシアに、ざく切りの野菜が入った簡素なスープを勧めた。
アーシアはカップを受け取ると、ゆっくりと口をつけた。それは今まで味わったどんなものよりも温かく、何よりもおいしく思えた。その様子をしばらく優しい眼差しで見つめていたクエインだったが、少女が落ち着いたのを見てから、彼女達の素性を訊ね始めた。
「それで、おぬしたちは一体どういったわけで、こんな険しい森の中に入ったんじゃ? ……まぁ、昨日の様子からして、ただ事ではないことはわかるが」
少女はこれまでの経緯や体験したこと、さらに自分が知る範囲内での事実を説明した。小さな口を動かして、ゆっくりと搾り出すように。生まれ育った村のこと、領主の暴虐、そして両親のこと、妹のことも喋った。
彼女の話を聞いて、クエインはこう思った。──この子達は戦争の犠牲になったようなものだ、と。
今、この大陸を包み込んでいる大規模な戦争の発端は、南方に位置する王制国家『リ・デルテア』が、大陸全土に戦役を発令したことによるものだ。それが不沈の火種となって、大陸各地で戦争への気運が高まったのだ。それは弱肉強食、血で血を洗う戦乱の日々の幕開けであった。
大陸全土を巻き込む規模に膨れ上がった戦役、それによる各国のうろたえや混乱は相当なものだった。戦線の拡大に伴い、その影響は四方の末端にまで及んだ。姉妹の暮らすこの小国ギ・マも例外ではなく、今では近隣諸国との緊張が極度に高まり、他国の軍勢による侵攻がすぐそこまで迫っているという、現在の時勢においては非常に真実味を帯びた噂が絶えず流れるようになっていた。切迫した状況の中で戦争の準備、とりわけ徴兵は急を要し、多くの人間が他国の侵略に怯えながら日々を過ごしていた。
そんな中、自己の保身のみを考えるこの地の領主は自分の領地での大規模な徴兵を行った。これは、国に対して恩を売るにせよ、やがて来る厄災から自分の身を守るためにせよ、理不尽で利己的な行動でしかなかった。
結果、この地方のまともな人間は、領主が発令したその徴兵令をほとんど無視した。住民が全くと言っていいほど懐いていなかったためである。それが結果として、セノスの悪夢、そしてアーシア達の身の不幸という結果を招いてしまったのだ──。
クエインはそこまで考えたところで思考を中断し、目の前にいる少女に向けてこの戦役の引き金を引いたリ・デルテアという国のことを語り始めた。
リ・デルテアは、ベルギュントという名の血の気の多い王が治める辺境の国である。
ベルギュントは国王でありながら一騎当千の武将だ。彼は戦場において決して後ろに控えたりはしない。彼は徹底して常に軍の先頭に立って指揮を執り、自らの槍で敵を粉砕するのだ。そしてそんなベルギュントの率いる軍の強さは実に圧倒的で、リ・デルテアは瞬く間に版図を拡大し、その勢いから諸国の人々は彼を覇王あるいは軍神と呼んで畏怖するまでになった。
また、リ。デルテアは戦場に屍山血河を作ってみせるという猛将ナーバを始め、名将良臣を数多く抱えていることでも知られている。その中でも覇王の片腕と謳われる軍師ロシオウラはシーレ中でも一、二を争う大器であり、彼なくしてはリ・デルテアの快進撃はなかったと言われるほどの人物だ。
それら英傑達の勇名は轟き、敵対国は士気も上がらす、ついにはリ・デルテア軍襲来の報せを耳にしただけで震え上がるようになった。現在のリ・デルテア王国軍は常勝軍の名を欲しいがままにしている現状である。
「これから数年の後……あるいはもっと先になるかもしれんが……。間違いなく、この大陸はかの国の治めるところとなる。この大陸にはもはや、リ・デルテアに対抗し得る国はない」
クエインはそう告げた。
「リ・デルテア……戦争の、張本人……」
この時、アーシアの胸に飛来した思いは、こうだ。
戦争さえなければ、人間の心が歪まなければ、不幸は起きなかったに違いない。
自分たちが味わった悪夢だけではない。この大陸全体の不幸についてだ。
こうして幼いアーシアの中に戦争とリ・デルテアという国に対する憎しみが生じたのは、何一つ不自然なことではなかった。
(耐えられない苦しみを、悲しみを、憎しみや恨みの対象を設けることで乗り越えられるのならば、今はそれでもいいのではなかろうか。いや、それ以外にはないかもしれん……)
やり場のない気持ちを押さえ込ませるようなことはクエインには出来ないし、するつもりもない。全ては憎しみがはけ口になるのなら、今はそれが一番かもしれないと思ってのことだ。
そうでなければ、抱えきれない思いを発露することが出来なくなってしまう。この娘だからこそ耐えられているが、恐らくは、本来子供が耐えられるような経験ではない。
「……さて、おぬしらがこれからどうするかじゃが」
白髭の奥にある顎を撫でながら、クエインがそう切り出した。今この場で、明白にしなければならない事柄がある。それは姉妹の今後についての決断だ。
単純な、これから行く先や拠り所ばかりの話ではない。今後の生き方について、人間の領域を超えてしまった彼女達には、普通の人間が歩むのとは全く違う道が開けている。世界の根源へ干渉する力を得た超越者だということを自覚しながら、世間と一定の距離を保って生きていくことだ。
できれば、その道を共に行き、深い傷を負った彼女達が間違った道を歩まないように側で見守ってやりたい、支えになってやりたいと、クエインはそう思っている。だが、無理強いが出来るものではないし、最終的な決断は彼女自身がしなければならない。いくつかある選択肢の中から、このアーシアという娘が、最良だと思った道を進むべきだろう。
「……母親の言いつけに従って、隣町へ行くのが良いと思うか? そう、もしかしたら、母親がおぬし達と会うために、そこで待っているかもしれんしな」
「……」
クエインの問いかけに無言を保つアーシアには元来の彼女らしい元気さはなく、表情が沈みきっている。彼女は考えていたのだ。今更、隣町へ行って何になるだろう。助けを呼んでも手遅れだし、セノスの外に身よりがあるわけではない。
もし、そこへ行く理由があるとすれば、クエインの言うとおり、母親との合流を期待するか、領主の非道を人々に伝えることだろう、でも、もしそこで母親と会えなかったら──? その時はどうしたらいいのだろうか。
「お母さんには会いたいたいけど────」
それだけ言って、アーシアは再び口を閉ざしてしまった。
「……ならば、故郷の村へ戻って、母親や知り合いと再会するか?」
それは、あまりにも残酷な質問である。滅ぼされた村に戻ることの辛さは簡単に予想がつく。アーシアにだって、母親と会える可能性がほとんどないことはわかっているのだ。
セノスの大人たちは自分達の村と愛する人達を守るため、そして真実と正義を貫くため、武装した兵士達に敢然と立ち向かったのである。特に姉妹の母親は、愛する娘たちを生き延びさせるため、自分を犠牲にしてまで、兵士達の気を引いたのだ。
姉妹の母親が最後にとった行動は、愛する娘達と行動を共にすることではなく、自分達が犠牲になろうとも、子供たちをどうにか生存させようというものだった。もしその命を賭した行動がなければ、アーシア達は今ここにいなかったかもしれない。
「……」
もちろん、アーシアは母親が生きていると信じたい。信じることを諦めたくない。村には生き残りがいて、逃げ延びた人が大勢いると信じたい。
でも、その一方で、二度とあそこへは戻りたくないという気持ちがごうごうと渦巻いている。現実を直視しなければならなくなる恐怖と、心底に刻み込まれた戦慄がそうさせた。
「イヤ。どっちも、イヤ……」
「ほう。それでは、どうするかね」
アーシアはかなり当惑し、答えを決めかねている。今、彼女を迷わすもののひとつが、体内に新しい力が宿った感覚である。得体の知れない未知のエネルギーが体内で脈動している。
湧き上がる神秘の力、世界の中心と繋がっている感覚。彼女はそれに対し恐れや戸惑いを覚えている。そして新しい者に生まれ変わった、その変化を受け入れることが出来ずにいる。
しかし、クエインはもうすでに見抜いていた。アーシアの中にある恐れ、戸惑い、その影に隠された覚醒の悦びを。原初メナストの生命讃美の躍動を──。
「私とリシュは……もう普通の人間ではないのですか?」
すがるような眼差しで、アーシアが訊ねた。
「おぬしに関しては、表面的には普通の人間との違いがほとんどない。このまま普通の人間として暮らすこともできるじゃろうて。……それをおぬしが望むなら、だが」
と言っても、実際にはこれからの人生を普通の人間として生きることは、それほど甘くはないだろう。力を得たアーシアにはオーファとしての責任がつきまとうことになる。彼女はこれから先、普通とは違う自分と向き合っていかねばならないのだ。
自分の中から溢れ出る幾多の疑問の答えを、アーシアは欲している。だが、オーファやメナストについて何の知識も持たない今の彼女では、どう訊ねればいいのかさえわからない。
彼女は言葉にできない言葉を発しているのだ。それがクエインにはよくわかった。
こうなると、もはやクエインが促すまでもない。答えは、既に導かれたようなものである。
「……私、自分が何なのかわからないまま生きることなんて、できない気がして……。もちろん、妹のこともだけど……」
己の中に宿った新しい息吹が、彼女を導くのだろう。眼前を貫くように見開いたその眼差しからは、もう一片の迷いも見受けられなかった。
「では、もっとオーファやその不思議な力のことを知りたいか?」
クエインの問いに、アーシアは力強く頷いた。妹の命を救ったこの老翁から、より多くのことを教わりたいと思った。クエインの元にこそ、これからの自分の居場所があると確信した。
この時、彼女は自分の意志で、オーファとして生きることを決意したのである。彼女自身が、この奇跡的な体験を通じて新たなる存在へと変化を遂げたのだ。
涙は雨に流され、世界を導く暁光へとその姿を変えようとしていた。