希望を求めて 後編
「──よし、ここだな」
目的の家は街の最も外れの区域にあって、洗練された街並みと距離を置くようにして佇んでいた。木製の骨格と真っ白い壁という外見を持った、意外と平凡な二階建ての住宅である。
軒先には一本の大樹が立って憩いの木陰を作り、軒下には色とりどりの花々が植えられている。殺風景とは感じなかったが、他の家々と距離をとっているせいだろうか、周囲は閑散としていて、人が好んで寄り付きそうな気配はなかった。
トマは周囲から孤立したその家屋の扉を──慎重に、しかし力強くノックした。
今この瞬間、彼の心中に渦巻くのは、期待ではなく緊張である。
もしかすると、このドアの向こうから、もの凄い形相の大男が出てくるかもしれないし、魔物のようなおぞましき姿の人間が現れるかもしれないのだ。もちろん、エネミオの冗談のように、パクリ、と食われることはないと信じたいが──。
やがて、玄関の扉が開かれた。そこに生じた隙間から、小さい顔を覗かせた者は、普通の子供……どこにでもいそうな少女だった。
茶色の髪を頭の両側で結った、あどけない丸顔の少女だ。
(この子はオーファではないだろうな。……直感だけど)
拍子抜けではあるが、おかげで緊張が少し解れた。トマは顔の表情を出来る限り緩めて、この少女に微笑みかけた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。ここにオーファ様が住んでるって聞いたんだけど、今、いるかな。いたら呼んできて欲しいんだけど……」
子供は口を真一文字に結んだまま、じーっとトマの強張った笑顔を見上げていた。彼女はそのままの目線で小さく頷き、何も答えずに家の奥へ消えていった。
この時、扉が閉まる一歩手前でトマが片足を突っ込んだため、扉は完全には閉まらず、若干の隙間ができたままになっている。しかし、いくら聞き耳を立てても、少女が言葉を交わしている相手の声は届いてはこなかった。
(ちゃんと伝えてくれるかな……)
その後、トマの待つ玄関に現れた人物は、先程と同じ少女だった。
「おーふぁさま、だれにも会わないって」
「そうか……(成程、いるのだな)。では、僕がトマ・ライグェフという者で、摂政ロシオウラ様の指令を受けてやって来たのだと、急に訪問して迷惑をかけたことは申し訳なく思っているが、とても重要で急ぎの用件なので、どうか話を聞いて欲しいと……そう伝えてくれるかな。……ここにロシオウラ様から頂いた書状がある。これを渡してくれれば、僕の言いたいことは全部わかるはずだ」
そう告げて、自分を見上げる少女に、ロシオウラ直筆の書状を手渡した。少女はその書状を受け取ると、先程と同じように家の奥へ消えていった。
トマは、グッと顎を引いた。
何せ、相手はまだ子供である。伝言役としては心許ないのは、仕方があるまい。
(──だが、構わない。ロシオウラ様の書状さえ渡してくれれば、用件は簡単に伝わるだろう)
それにしても、なかなか姿を見せない相手だ。どんな理由があるのかは知らないが、トマにしてみれば、もどかしいことこの上ない状況が続いている。
やがて戸口に現れたのは、またもや先ほどの少女であった。
「……会うつもりはないから、はやくかえってくれって」
「そういうわけにはいかないんだ」
ここまで来て、会わないわけにはいかない。
トマは決して強気な性格ではないが、非常に真面目で忠実であった。
任務の成功は、保身の気持ちから来たものと言えなくもない。しかし、それ以上に使命感と、この任務の重要性を感じていた。
「もう一度……、せめて話だけでも聞いてくれるよう、言ってくれないか。姿を見せて欲しいんだ」
トマの言葉を伝えるため、おつかいの子供はまた家の中に戻っていった。
その後は、またもや待つだけの時間が到来する。
(──まだか?)
こうして、もどかしい時間が延々と続く。焦らされている気分だ。
何の変化も見られないまま、時間だけが空しく経過する。地面に伸びる影の向きで、太陽の位置が少しずつ傾いているのがわかる。待つのが苦手ではないことは救いだった。
(これだけ待っても現れないということは、本気で会うつもりがないのだろうな)
かと言って、相手を無理矢理引っ張り出すわけにもいかないのが辛いところだ。
この任務では、別の指示があるまでは穏便に事を運べ、という条件が与えられている。相手を尊重し立場を気遣い、礼節をもって接しろと難しいことを要求されている。これらは帝都にいる摂政ロシオウラの意向であり、彼の指示そのものである。
だから、現段階での実力行使はタブーだ。それに、そもそも力づくで連行するための屈強な兵士を連れて来てはいなかった。
トマはやる瀬なく、一度目二度目の時よりもずっと長い時間、家の前で待ち続けねばならなかった。
物憂げに見上げた青空では綿のような白い雲が流れていく。このまま夜になってしまうのではないだろうか──そんな風に考え始めていた。
ヒム卿の人選ミスだと思ったこの任務。実際には自分以外の人間には不可能だったかもしれない。そんな風にさえ思い始めている。これ程の根気、忍耐力が求められるとは思ってもみなかった。
──不意に、ギィ……という音がして、トマは視線を真上から水平に戻した。大きく開かれた扉の向こうから、一人の人物が姿を見せた。
「……!」
それは、今までの伝言係の少女ではない。成人の女性だ。
この人物がオーファなのだろうか……。トマは相手の外見を窺った。
透明感のある白い肌に、すっきりとした目鼻立ち。特徴的な緑色の瞳には星の輝きを封じこめ、動きのある柔らかそうな薄桃色の髪をシンプルなアクセサリーで留めている。
年齢的には、そう……二十代の前半から半ばといったところか。存在感に溢れた成人女性である。
トマは彼女の顔をまじまじと見つめた。相手もまた、吸い込まれそうな美しいエメラルドの瞳で、国の役人たるトマの顔を見つめている。
(いや、まさかな。この人もオーファではないだろう)
目の前にいるこの女性が、絶大な力を持った伝説的存在? とてもじゃないがそうは思えない。確かに気は強そうだが、見た目には普通の人間そのものである。──とりあえず、本物かどうか聞いてみるか?
「あの、あなたが……オーファ様、ですか?」
「まあ、そう呼ぶ人もいるわね」
女性が明瞭な口調で答えた。見れば、さっきの子供が女性のスカートの裾をつかんでいる。
(うーん。やはり、信用できる話ではなかったか──)
肩透かしというべきか、トマは落胆せずにはいられなかった。
こんな普通の女性に何が出来るというのだろう。世界を平和にすること、滅ぼすこと、戦争を終わらせること、国を護ること、そのどれかひとつでも満足に出来ようはずがない。僅かな希望が、地面に投げつけられたガラスのように打ち砕かれた気がした。
「あっ、おじさん、うたがっているのね。おーふぁさまはね、すごいんだから! おじさんなんて、いちころなんだから」
少女が怒りに任せ、思いっきりあかんべーをした。
(おじさん……。この歳で呼ばれるとは思わなかった。しかし、やれやれ……子守が得意技とか言うんじゃないだろうな……)
とにもかくにも、相手はオーファだと名乗っているし、任務は任務である。いつまでも悄然としている場合ではない。目の前の女性を説得せねばならないのだ。トマは強引に気持ちを切り替えた。
「えー、先程の、ロシオウラ様の書状を読んで頂けましたでしょうか。あるいは、既にご存知だったかもしれませんが、国政が安定しない今を見計らって、北方のアフラニール公国が大艦隊を組織して侵攻してくるのです。それも、間違いなく数日中に──」
オーファを名乗る女性は興味なさげに、トマの顔ではなく外の景色を見つめている。だが、一応彼の話は聞いているようだ。
「──今はまだ、空軍力だけではこの強敵に抗えない状況です。国土に被害が及び、このローセルムも戦いの舞台となる可能性があります。我々はどうしても、オーファ様のお力添えが頂きたいのです。あなたが帝国の命運を左右するのです」
話を聞きながら外を眺めていた女性が、急に話し手の方に顔を向けた。
「あなた、お一人で来たのですか?」
「え、あ、はい。馬車を引かせるために、御者を伴ってはおりますが」
「ふうん、そう。ずいぶんと人手を惜しむのね。思うに、本当はそれほど切羽つまっているわけではないのでしょう。人を召すのには礼儀が足りませんし、本当に私の力が必要なのですか? 国の明暗がかかっていると言いながらも、本当は私のことを軽んじているのでしょう」
(な、何だこの女は突然。礼儀だと? どこが無礼だというんだ……。むしろ、さんざん待たせたあげく高慢な態度をとる君の方がよっぽど無礼だと思うぞ)
役人相手に臆面もない。これは女性がわざと煽ってトマを試しているのだ。トマも馬鹿ではない。それくらいのことは察しがついた。
「失礼しました。……非礼をお詫びいたします。お聞き下さい。我々は、決してオーファ様を軽んじているわけではありません。特に摂政ロシオウラ様はどうしてもあなたのお力が必要だと願っておいでのご様子です。……あと、小額ではありますが、オーファ様をお招きするために、贈物を用意してございます。……財貨の類がお嫌いでないと良いのですが」
そう。トマの乗ってきた馬車には、交渉に用いるための金銀、宝石、宝飾品等が積み込まれている。全てローセルム政庁の厳しい財源から捻出されたものだ。
「へえ。意外と気が利くのね」
(……おっ!)
手応えを感じ、トマは嬉しくてうっかり指を打ち鳴らしそうになった。伝説的といいつつも、実はかなり俗っぽい人種なのかもしれない。まあ、それはそれでがっかりなのだが。
「────なんて言うわけがないでしょう! 金品で人の心を掌握しようとは、この国のお役人の考えそうなことね」
喜びは一転した。
「いっ、い……いえいえ! とんでもございません。これは当方の心持ちを示したものであって、懐柔しようなどとは──」
「要らないわね」
もともと、この手の品には全く興味がなかったに違いない。橋を落とすような返答で、顔は明後日の方向を向いている。
(こ、この女はっ……!)
温厚なトマですら、眉間にしわを寄せるほどの憎らしさだ。
間違いなく、下手に出ている自分をおちょくっているのだ。一体、何様のつもりだ!
それでも、ここで相手のわかりやすい挑発行動に反応してはいけない。それでは相手の思うつぼであり、任務の失敗を意味する。この女がどれほどのものであろうと、トマに失敗は許されない。
しかし、トマの中に今ある疑惑がくすぶっているのも確かだ。
もしかしたら全くの偽物、えせオーファかもしれない、という疑惑である。
高慢ちきな態度や言動からして疑わしいものがある。何とか、この女の真価を見極めることは、あるいは鼻を明かすことは出来ないだろうか。
──相手のペースで試されっぱなしも癪だし、こちらから吹っ掛けてみるのも、悪くはないかもしれない。
「あの。失礼を承知で申し上げますが、あなたは本当はオーファではないのでは?」
「……んん?」
女性は懐疑的なトマの発言に、強い反応を示した。もともと大きな眼をさらに大きく開いたのである。
「考えてみたのですが、やはり伝説上の存在が、あなたのような女性だとは思えないのです。あなたは、オーファを名乗っているだけの偽者で、だから我々への協力を拒むのではないですか?」
「……へえ。あなた、面白いこというのね。私が偽物だっていうわけ」
女性が不敵な笑みを浮かべた。
トマは相手がプライドの高い人間だと踏んだ。彼はこうした煽りも一手だと思ったのである。駆け引きが不得意な彼なりに機転を利かせたつもりだった。
興味に満ちたエメラルドの瞳が、トマの顔に引き付けられている。この時点で、トマはうまくいくかもしれない、と思った。彼はさらに続けた。
「あなたの力が我々の求めるものかどうか……。ぜひ、あなたの力を見せてもらいたい。結果、もしそれが予想を下回るものなら、潔く諦めて上部に報告することができます」
そう言ってから後、トマは睨み付けるように相手の反応を観察した。偽者か、本物か。もし本物なら、どれほどの者だというのか。話は簡単。試してみればわかるはずだ。
これは職務という点から見ればいきすぎた、勝手な行動かもしれない。だが、相手が本物かどうかを確かめるのは重要だと思うのだ。偽物だとわかれば、これ以上この高飛車な女と関わる必要も無くなるし、任務を切り上げてちょっくら観光気分に浸ることも出来るのだ。
「いいわよ、やりましょう」
女性は事の他あっさりと承諾した。彼女はすぐさま玄関から出てきて、トマの脇を通り過ぎた。ふんわりと優しいほのかな花の香りが、すれ違いざまに鼻腔を掠めた。
(この人が、ひ弱だけど男の僕より強いわけがないじゃないか)
そう思いながら、トマは先を行く女性の後姿を観察した。
格別に背が高いわけではなく、体格も標準的な女性と大差ない。
体つきは細身と言うよりは適度に肉付きが良く、なだらかで優雅な曲線美が服の上からでも容易に見て取れる。彫刻や絵画など芸術作品に見られる女性のように肉感的で、なおかつ均整がとれている。男から見て、かなり魅力的なプロポーションだ。
顔立ちも整っており、間違いなく可憐で、しかも美人だ。それは認めよう。だが、それだけだ。ルックスで国や世界を救えれば苦労は無いだろう。傾国なんて言葉があるように、国を滅ぼすことなら出来るかもしれないが──。
トマは疑っている。この女性が伝説上の存在で、世界の破滅とか救済をもたらす程の力を持っているとは、とうてい考えられないのだ。
家の前の街路を挟んで、二人は対峙した。
「で、トマさん……だったわよね。あなた、どうやって私の力を見極めるつもりなのかしら?」
「えっ……えっと、そうですね……それは……ははっ、どうしましょう?」
間の抜けた半笑い顔を晒してしまった。相手の力を試すところまでは思いついた。だがその先、どんな方法でもって見極めるかまでは、全く考えていなかったトマである。
(まさか、腕相撲でわかりはしないだろうけれど──)
そもそも、オーファとはどのような力を持っているのだろうか? エネミオはオーファのことを悪霊使いみたいに言っていたが……。悪霊を操るとして、それをどうやって確かめればいいのだろうか。
「……はあ。あなた、何の考えもなしに、あんなでかい台詞を吐いたってわけね。行き当たりばったりと言うか、準備不足と言うか……そんなんで、本当に説得するつもりあるの?」
目を細めながら、トマに対し冷ややかな視線を穿つ女性。心底呆れた様子である。
「す、すみません」
「ん、もう。……仕方がないわね、私が代わりにアイディアを出してあげるわよ。それでいいかしら?」
「お、お願いします」
何故か説得する相手に助け舟を出される展開になってしまい、トマは無性に情けなくなった。
「そうね……じゃあ、あなたのその腰の剣。それで私を好きにするといいわ。斬るなり、刺すなり、ね」
女性がトマの腰に差してある剣を指差しながら、そう言った。
政府の役人に支給される、主に護身用の細身の刀剣だが、帝国御用達の正規品だけあって、そんじょそこらで売られている中級程度の剣よりはよほど品質に優れ、切れ味は鋭い。
「な、何を言って……」
「飾りじゃないんでしょう? それ」
女性が口角を持ち上げ、ニヤリと笑う。何とも悪戯めいた笑顔である。
「……う」
一方、トマは首筋がジッと熱くなるのを感じた。事態がとんでもない方向に向かっていることを痛感したのである。
提示されたこの方法の躊躇われることは、語るまでもない。起こり得る最悪の結果を想像し、気の弱いトマの体は固まってしまった。彼はさらに自分の体温が上昇していくのを感じていた。
「どうしたの? 私を試すんでしょう? さあ、どうぞ」
それに対して、対面する女性は腰を左右に揺すったりして、おどけるように挑発してみせる。余裕綽々(しゃくしゃく)。まるでこの状況を楽しんでいるようであり、憎らしいほどに明るかった。
何か別の方法に変えるべきではないかと、トマはそうも考えた。
しかし、これは元をたどれば自分が言い出したことでもあるし、相手が乗り気になってしまった今では引っ込みがつかない部分もある。
こうして、ますます迷いの渦中に没入し、トマは代替策を考える余裕が無くなってきた。追い込まれた彼は徐々に、迷いを理論的に肯定できるものへと塗り替えていった。彼は迷いを断ち切るため、強硬な手段も厭わないと自分に言い聞かせる他なかった。
(これは──このやり方は、他の誰でもない。彼女が出した提案なんだ。だから、何が起きたとしても悪いのは彼女の方で、僕には全く非がない。
──そうだ。それに、見てみろ。楽しそうな、あの女の態度を。とてもまともな精神じゃない。そう、どうせまともな相手ではないんだ。相手は正気の女ではないんだ。それに、よく考えてみれば、これはとてもわかりやすくて、手っ取り早い方法じゃないか。ここには、ひとつとして問題がないじゃないか)
自分を納得させるための心の声を必死に連ねながら、鞘から刀剣を引き抜いた。ゆっくりと片手正眼に構え、相手を見やる。トマには人を斬った経験はない。柄を握る手に、じっとりと汗が滲んでくる。片手では震えが止まらないので、慌てて左手を添えて両手で構え直した。
「用意ができたようね。じゃあ、本気で、私を殺すつもりでやってね。……じゃないと、意味ないもの」
女性はそう言って微笑を湛えると、何と両瞼を閉じて佇んだ。その様子は観念して諦めたようにしか見えなかった。もう、わけがわからない。
(くそっ……。もう考えるのはやめだ。僕は……後悔なんて……しないぞ)
トマはようやく、決断した。
「いくぞ!」
雑念を振り切るかの如く、トマは勢い任せに動き出した。
そして、彼は相手に致命傷を与えるのを避けるため、すぐさま突きの体勢をとった。
(これで浅く、急所を外せば……どうだっ!)
剣先が一直線に、女性に襲い掛かった。この時、相手は相変わらずの棒立ち状態で、トマの剣を避ける気配は全く無い。
(ッ! ──刺さる!)
そう思った瞬間、トマは思わず、目を閉じてしまった。
さらには最後まで払拭できなかった迷いが決断を鈍らせ、力の抜けた、何とも中途半端な突きとなった。
キーン…………。
周囲に響いたその音は、研ぎ澄まされた金属同士が接触するような、澄み切った音色だった。
(一体、何の音だろう? とりあえず、刺さった感触はなかったが──)
トマは恐る恐る瞼を開き、様子を見た。鋭い剣先は、幸いなことに女性の身体に突き刺さってはいなかった。トマの一撃は、女性の体のどこをも傷つけていなかったのである。
(ふう、よかった)
トマはまず、安心して大きく息を吐いた。続いて女性の顔を見ると、いつの間に目を開いたのか、首を少し傾けながら、興味ありげにトマを見つめていた。
(どういうわけだか、彼女には刺さらなかったな。きっと、僕が目を閉じている間に、うまく避けたのだろうが──)
そう思いながら、トマは目の前の女性に向かって一直線に伸びる、自分の剣の刃を見た。
彼の剣は、突き刺さるはずだった女性との間に、僅かな空間を残したままで静止していた。トマは今はとにかく、この剣を収めようと思った。
ところが──。
「ぐくっ……?」
動かない。剣が宙に固定され、どの方向にも全く動かすことができないのである。
(こ、これは何だ? 何が起きているんだ)
皆目見当がつかない。トマの頭は先程よりは冷静にめまぐるしく回転しているが、それでもこの現象を理解することはできない。
彼は軽度のパニック状態に陥りながら、とにかく思い切り剣を手前に引っ張ってみた。まさに渾身の力を込めて、である。
「ぐぐ……っ、ぐえっ!」
するとどういった理由か、強烈に剣を固定していた謎の力が突然消滅した。
おかげでトマは尻もちをついて、ごろごろと後方に転がってしまった。空と地面が交互に何度か視界に入った後、ようやく彼の回転は止まった。
トマは地べたにべったり腰を付けたまま、ぽかーんと呆けてしまった。
「大丈夫?」
自称オーファの女性は無様なトマを笑うこともせず、腕組みしながら同じ位置で突っ立っていた。自信に満ち溢れた凛々しい立ち姿が、勝気な彼女の性格をよく表している。
「どうですか、お役人さん。私の事、ちょっとは信じて頂けました? ……まあもっとも、こんな方法では実力なんてわからないとは思うけれど……」
「あの、一体、何がどうなって……えッ!」
間もなく、さらに信じられない出来事が起きた。今まで何も無かったはずの空間に、突如『何か』が出現したのである。
「こ、これは……っ!」
トマの目の前に現われたもの。それを言葉で表すならば、光の反射を受けて白銀に輝く、謎の立方体である。
──いや。そう思ったのも束の間。その物体は形状を変えて、すぐさま人型に近い姿になった!
「な、何だってぇーー!」
次々と展開される超常現象に驚愕しっぱなし。目が回りそうなトマである。彼は理解に努めるよりもまず、目の前にあるものをありのまま、冷静かつ正確に捉えることに注意を凝らした。
尻餅をついたままの格好でいることも忘れ、トマは人型を凝視した。その全身金属の物体の大きさは人間を軽く凌駕している。大きくて、実に立派な『白銀の甲冑』である。
特徴的な、女性を思わせる非常に優雅な曲線部分と、鋭利な刃物を思わせる鋭角部分とを併せ持った、芸術品と呼ぶに値する見事なフォルム。外側に大きく突き出した肩部から伸びる巨大な両腕の先にあるこれまた大きな手の部分には、爪と槍の両方の形状を併せたような、非常に尖鋭な指が備わっている。
そして──三角錐を逆さまにしたような特異な形状の脚部は、地面からほんの僅かに浮いている。信じられないことに、その物体は浮遊していた。
いや、この世界では陸地や乗り物が浮遊しているため、浮遊自体は驚くべきことではないのだが、陸塊や船と比較してずっと小型の甲冑が宙に浮かぶということは、この世界の常識では到底考えられないのである。現代のテクノロジーでは、この甲冑の妥当性を証明することができないのである。
謎の金属オブジェの真紅の眼光が、トマにまっすぐ向けられている。無機質ではあるが、まるで意思を持っているかのようだ。
(まさか、これがエネミオの言っていた悪霊なのか? いや、死神か──?)
管理局で聞いたエネミオの言葉を思い出し、トマはそんな風に思った。もしそういったものでないとしたら、『生命を持った鎧』であろう。この謎の物体を説明するためには、存在するとは思いたくないものばかりが頭に浮かんでくる。
(──いや、違う! どれも違うじゃないか。よく見れば、これはむしろ──)
悪霊や死神とは、他者の言葉によって事前に頭に刷り込まれたイメージにすぎない。先入観なしに、自分の目でよく見た印象と感じとったものは、そんな邪悪な実像ではなかった。
目の前の白銀のボディが光り輝く様子は圧倒的に美しい。自身が薄い光をまとっているために神々しくすらある。邪悪な禍々しさなどはみじんも無く、むしろこの甲冑からは──神聖な気配が感じられるのだ。
この白銀の甲冑が何であるのかはわからない。だが、トマにはこの時点で一つだけ、確かにわかったことがある。
(本当に……オーファなんだ、本物の……)
こんなものを見せられては、もはや疑惑の余地はない。彼は相手の女性がオーファだと確信した。
「ああ、そうそう。一応、こんなこともできるわよ。……ほら」
そう言ってオーファの女性は、自身の手のひらを上に向け、そこに小さな炎を生み出してみせた。彼女の手の平というステージの上で、炎は意思を持った生命体であるかのように蠢き、舞い踊った。
「知ってるかしら? メナスト・コントロールってやつなんだけど。……あ、先にこっちを見せればよかったわね。私としたことが、全然気付かなかったわ」
炎は彼女の意思に呼応してごう、と高く伸び上がったが、制御者であるオーファが手を握り締めると、拡散して瞬時にかき消えてしまった。
「でも……トマさん。あなた、優しい人ね。さっき、突く力を弱めたもの」
女性オーファが微笑みながらトマにそう言った。
「オーファ様!」
直後、役人たるトマは地面に跪いて訴え始めた。
「お願いします! 力を貸して下さい!」
その光景を見た瞬間、オーファは微笑むのをやめ、無表情になってしまった。
「だから……無理なのよ。掟……みたいなものかしら。そう簡単に、戦争なんてものに協力はできないのよ」
しかし、トマはなおも食い下がった。地べたに額を擦りつけながら懇願する。
相手が伝説的な存在で、特別な力を持っているとわかった今、彼は仕事ではなく一人の人間として、本心を吐露し始めた。
「もし、あなたが力を貸してくださらねば、この国は間違いなく他国の蹂躙を受けるでしょう。私は、正直に申し上げれば、この帝国になどまったく愛着はありません。祖国を滅ぼしたために恨んでいる位です。
……しかしです! このローセルムや、私の生まれ故郷が戦禍にさらされるのだけは、とても耐えられません! 戦争が終わったのがついこの前。それなのにまたこの大陸は戦に巻き込まれようとしている。苦しむのは誰でしょう? それは戦争に係わり合いのない人々ではないでしょうか!」
それを聞いた途端、オーファの眉がピクリと動き、表情が変わった。彼女には、何か心の琴線に触れることがあったようだ。
温厚で裏表のないトマの性格は、このような情に訴える時にはとても真実を感じさせる。
「残念だけど……無理ね。言ってなかったけれど、私には老いた祖父がいるのよ。そばにいてあげたいの」
「仕官をお勧めしているのではございません。すぐに帰ってこれましょう」
オーファの女性は顎に親指を当て、考えて込んでいる。これは彼女が考えを巡らす時にたまにやるクセだ。
──そして、彼女が導き出した答えは。
「……あなた今、この国を恨んでいるって言ったわね? 私は……いえ、私がこの国に対して抱いている想いは、恨むとか憎むなんてレベルじゃないの。……一生懸命頑張ったあなたには悪いんだけど、手を貸すつもりはないわ」
オーファは感情を込めず、はっきりとそう言った。それから彼女はトマに背を向け、家の中へと消えていった。
「あ……」
トマは立ち去る相手の背中を愕然と見つめ、項垂れた。
あとはただ、そのまま無音の時間が過ぎていくのみだった。
トマの説得も虚しく、使命は失敗に終わってしまったのだ──。
興奮と脱力で、誰もいなくなった地面を見つめるトマ。
(仕方がない、正直に報告しよう。あるいは他の方法がきっとあるはずだ。そう、諦めるわけにはいかない、のだから──)
そうは思ったが、彼は依然としてそこから動くことができなかった。