要塞の一夜 ~業深き刃~
ドルトス・メルセニア本土で激戦が繰り広げられていた当時、迎撃要塞シュナッツォは、防衛拠点として立派に機能していた。
しかし、現皇帝グナディアスが分裂した帝国の再統一を果たすと、メルセニアの野望は積極的な領土拡大へと向けられた。
戦場が遠くなるに伴い、雪原の奥地にぽつんと取り残された軍事拠点は、誰にも見向きされなくなった。滑稽に思えるほど大掛かりだった防衛設備は、用済みとばかりに大半が撤去され、むき出しの要塞本体には、難攻不落と言われた当時の面影はない。
だが、役目を終えてしまった今でも、そのどっしりとした威容は健在なのだ。要塞は雪原の大地に根をおろした巨人のように、唯一無二の存在感を示している。本来の機能は失ったが、このシュナッツォ要塞は変わることなくドルトス・メルセニアの歴史を語る証人なのだ。
* * *
滞在を余儀なくされた兵士達にとってのシュナッツォ要塞は、言うまでもなく娯楽に乏しい場所だった。刺激の不足している分、時が流れが緩やかに感じられ、夜は穏やかにひっそりと更けていくようである。
食堂ではとうに夕食の時間が終わっていたが、ヒマを持て余す多くの将兵がたむろしていた。彼らの過ごし方は様々で、酒を手に語り合う者や、冗談半分で騒ぐ者、カードゲームに興じる者などもあった。
そして、この場の片隅には傭兵ドゥハルグの姿もあったが、彼の過ごし方は兵士達とは正反対なものであった。彼はまとまった兵士連中から距離を置いた席で、一人静かに酒を飲んで過ごしていた。
死神扱いされるような男に、好んで近づく者などいないはずだ。戦場に立つことが仕事の兵士と比較しても、自分の経歴と血生臭さは常軌を逸している。
そう、両者の距離は目で見える以上に開いており、越えられない隔たりが存在している。そしてそれは決して縮まることはないだろう。ドゥハルグはそう考えていた。
ところが、である。その彼に、不意打ちの如く歩み寄る人物があった。
「よお、死神さん。こんところの調子はどうだい?」
軽い調子で喋りかけたその人物は、何とも陽気そうな、悪く言えば頭の軽そうな青年である。酒で満たされたグラス片手に、友好的な態度を示しながら、ドゥハルグの視界に収まっている。
「あんたが来るまでは、それなりに良かったがな」
若干うっとおしいという含みを込めて、ドゥハルグはそう返した。
「まあまあ、そう言いなさんなって。これから一緒に戦場に立つんだぜ、俺達はよ。同じ釜の飯を食ってるわけだし、言うなれば一蓮托生ってなもんだろう?」
「そこまで仲良くなるつもりはないぜ。俺にとってのあんたらは揃って足手まといなだけだしな」
「おお、これはお言葉だねえ。だが、あんまり敵を作るのは得策とは言えないと思うがね。特にこういう場所じゃあな。わきまえなけりゃ、やりづらくなるだけだぜ?」
男が顎の先で示したその先を見ると、二人の会話を聞いていた兵士達が別テーブルからドゥハルグをにらみつけていた。
「な、わかるだろう? ただでさえ、あんたはよく思われていないんだ。親切心から言うが、うまくやっていくために、できるだけ愛想良く振舞った方がいいと思うがな」
「……んな忠告は必要ねえ。媚びる方法なんざごま粒ほども知らねえし、互いに信用してないなら、干渉する必要も、無理に仲良くやる必要もないだろう」
ドゥハルグはよく知っている。人間は簡単に裏切る生き物だ、と。彼は、己の利益のためだけに他人を陥れる連中を腐るほど見てきたのだ。
きわどい戦いの最中、味方だと信じていた連中にどれだけ裏切られたことか。気を許していない他人に易々と背中を任すことの危うさは、ドゥハルグが今まで生きてきた中で得た教訓のひとつである。
さらに、ドゥハルグ自身の首に賞金がかけられてからは、共闘どころか信用すること自体が危険になった。常に命を狙われるようになると、持ち得る全ての感覚が危険を察知し、過剰に反応するようになっていった。そんな中で生きていくためには、生存本能を研ぎ澄まし、己の力のみを頼むしかなかった。ドゥハルグはそうやってこれまで生き抜いてきたのだ。
「……ずいぶんと冷めてんだな」
「あいにく、味方を信用したことも、されたこともなくてな」
そう口にして、ドゥハルグはグラスをテーブルに置いた。軍属の兵士とは考え方以前に住む世界が違う。それはわかっていたことだ。ここで生き様云々を語り合うつもりも無い。彼らが死神呼ばわりされるような人間と一緒に戦いたくないと思うのは当たり前。馴れ合う気などまるで生じないというものだ。
「要するに、今の俺に話しかけるあんたのような男はよっぽどな物好きか、極度の命知らずか、あるいは単に頭がおかしい奴ってことだ。説明するまでもないが、仮にも死刑の執行猶予が与えられているような罪人だぜ、俺はよ。他の奴らと同じように、遠巻きにして眺めてりゃあいいじゃねえか」
「んん、いやあ、まあ……。そりゃあ、正直ちょっとは尻込みもしたさ。だがな、親切心からどうしてもあんたに忠告してやろうと思ってな。……あんたの、あのお友達のことを」
「それは、どういう意味だ?」
「いや、いくら男だからと言っても、女でも滅多にいない程の美人とくりゃあ、日ごろからそっちに飢えている野犬みたいな男たちが放っておくかな? ってことさ」
それを耳にした途端、ドゥハルグが形相に殺気をたぎらせた。
「おい。レゼリスに指一本でも触れたら……ここの人間全員、二度と自分の足で歩けなくなるぜ」
「おお……怖ええ。やっぱり、あんたら、そういう関係かよ? まあ、安心してくれよ、冗談で言ってみただけだからさ。第一、あんたみたいなのがいるんじゃ、誰も近寄れねえって。俺も含めてな」
「……どうだかな」
「おっと、話に夢中で忘れてた。あんたにとっちゃどうでもいいだろうが、俺はリックスって名だ。よろしくな」
そう言いながら、その男……リックスは、ドゥハルグの向かいの椅子に跳ねるように腰掛けた。
「なあ、それよりもあんたの武勇伝を聞かせてくれよ。一番手強かった相手は? 一度に殺した人間の数は?」
「下らねえ質問するな」
「じゃあ、ラーテルロアで開放軍の先頭に立って戦った時の話ならいいだろう? みんながあんたを英雄扱いした時の話だ」
「あれは報酬のいい仕事だからやっただけだ。正義の傭兵なんて言われたが、人殺しに違いはねえ」
「へえ、聞いてたのとは、少し違う感じだな。あんたって、何か意外だね」
リックスは感心したように頷いている。
「何せ、ラーテルロアの独立自治権を国に認めさせたんだ。歴史に残るあんたの偉業だぜ、あれは」
「……いや、あの戦争での勝利に関しては、俺は時間稼ぎという名の、少しばかりの手助けをしただけだ。解放軍の連中は本当に勇敢だったと思うぜ」
ドゥハルグの脳内に、当時の思い出が蘇ってくる。
ラーテルロア開放戦は、元々メルセニア領だったが分裂戦争の際に独立した浮遊島ラーテルロアを、南北再統一を期にメルセニアが再び支配下におこうとしたことが原因で起きた戦いだった。ラーテルロアはそれまで通りの独立体制を主張したが、メルセニアはそれを認めなかったのである。
メルセニアが裏で様々な策略を練り、メルセニア領であることの正当性を説き、徐々に弾圧を強めた結果、ラーテルロアは激しく反発し、武力蜂起した。メルセニアはこれを制圧する名目を得て、本格的に軍を進め、占領を開始した。
ラーテルロアにはメルセニアと対立する多くの国が援助を惜しまなかったが、精強なメルセニア軍の圧倒的な力の前では、徐々に押されていくのみであった。
ドゥハルグはそんな時にラーテルロアに雇われた。彼の活躍はラーテルロアの人々を勇気付け、息を吹き返した解放軍の必死の抵抗により、独立戦争は予想以上に長期化の様相を呈した。
やがて、戦域を拡大していたメルセニアは対外戦争が激しくなり、ラーテルロアから手を引かざるを得なくなった。もし戦いが継続していたなら、開放軍は敗れ、独立は失敗に終わっただろう。
「メルセニアを追い払ったおかげで、ラーテルロアの民衆からは支持されたが、祖国からはかなり敵視された。反逆者扱いだったからな、俺は。ほとぼりが冷めるまで、長いこと身を隠していた。俺の評判が落ちたのはその時からだ」
「ふうん、色々大変だったんだな。……じゃあ、この前の、あんたが市街地で大暴れした事件。あんな事件を起こすくらいだから、やっぱりこの国に恨みがあったんじゃないのか? だって、あんたがここまで名を堕としたのは、そのラーテルロアでの戦いの後にメルセニアが喧伝した悪評のせいもあったんだろう?」
「確かに、最初は国のせいだと思っていたが、あんたらの宰相から、実際に俺を憎んでいたのは、あの開放戦争のおかげで失脚、降格処分を受けた一部の無能な将軍や文官だけだったと聞かされた。今は放免されたが、俺に賞金なんかをかけたのもそいつららしいな。結局はクズどもの腹いせだったんだろうぜ」
「なるほど、そりゃ、いかにもありそうな話だ。何せ、あの戦いは今でも伝説だからな。市街地で正面衝突した正規軍と解放軍。数的不利の中、援軍の期待ができない状況にも関わらず、一人で前線に立ち、押し寄せる敵軍を牽制し、時には押し返した英傑ドゥハルグ。正規軍は真っ青になって、あんたの強さと気迫にビビっりぱなしだったとか。……そうさ。口には出せなくとも、メルセニア内部にも、あんたを賞賛する人間はたくさんいたはずだ。当然、同じくらいあんたのことを面白く思わない人間もいたってわけだ。まあ、それだけ、あの戦いの影響力ってのは、当時凄かったってことだな」
「それだけ詳しけりゃ、俺が話せることはなさそうだな」
「へへっ。実はちょっと、あんたに憧れたりしてたもんでよ」
* * *
ひとつ、またひとつと人影が消えていって、気が付けば盛況だった食堂内には数えられる程度の人間しか残っていなかった。ドゥハルグは空になった酒瓶を脇にどけ、食堂に残っている兵士達を見つめた。
「しかし、メルセニアの兵士は割と規律が行き届いているみたいだな。好戦的な軍隊として有名だから、もっと血の気が多い連中だと思っていたが……。軍人や同業者とはよく喧嘩になっちまうんだが、今のところは問題なさそうだ」
討伐軍内に、厄介者のドゥハルグに向けた殺気を匂わせる者がいないわけはないが、煽らなければ突っ掛かってくるようなこともないだろう。そんな雰囲気である。
「そうだろう、そうだろう。メルセニアの陸軍は愛国心と規則を重んじ、内側に闘志を秘めているんだぜ。だが、俺に言わせりゃ、みんな堅物な上に湿っぽくていかん。ここじゃあ、俺なんて変り種よ」
リックスが繰り返し頷きながらそう語った。
「……だがな。断っておくが、あんたらを信用したわけじゃねえからな。何度も言うようだが、レゼリスには手を出すなよ」
「だから、心配しなさんなって、死神の旦那。さっきはあんなこと言ったが、本当はあの天使みたいな歌声と清らかな詩で、みんな十分満たされているからよ。本当に大したもんだぜ。もしあいつに何かしようって奴がいたら、あんたに代わって、俺がそいつをぶっ飛ばしてやるよ!」
「ハッ、あんた全く強そうには見えねえぜ。返り討ちに遭う姿が目に浮かぶな」
ドゥハルグがリックスに対して初めて笑って見せた、その時である。
「ドゥハルグ! 傭兵ドゥハルグはここにおるな?」
神経質そうな面構えの騎士が、ドゥハルグの名前を呼びながら現れた。
「おい、ここだ。俺ならここにいるぜ」
返事をした男の場所を確認すると、騎士は滑稽なほどの大股でずんずんと向かっていった。
「お前が、ドゥハルグか」
騎士はドゥハルグの元にたどり着くと、品定めでもするかのように、相手の巨体を目でなぞった。
「ああ、そうだぜ。俺に何の用だよ?」
「バルナザーム宰相閣下からお前に下賜された品を、我々がここまで運んできてやったのだ」
告げた騎士の横を抜けて後続の者らが運んできたその恩賜の品物は、目を見張るほど大きく、また相当に重いらしく、体格のいい男が三、四人がかりでようやく持ち運べるような代物だった。
「な、何だいこりゃあ?」
リックスが面食らったもの無理はない。その品物は個人に手渡すには余りにも長大で、中身が何であるかなど彼には想像も及ばなかった。
「形から察するに、武器のようだが……?」
「武器だって? おいおい、冗談はよしてくれよ。こんなに馬鹿でかい武器があってたまるかよ」
しかし、ドゥハルグの読みは正しかった。梱包していた紐や布袋の類が解かれると、桁外れに大振りな武器が姿を現したのである。さらに、刃の部分をすっぽりと包み隠していた鞘が抜き去られると──。オオ、という驚嘆の声が、どこからともなく発せられた。
ドゥハルグの最も得意とする武器、薙刀が姿を現したのである。機械が連結されたような長い柄の先には、分厚く鋭く幅広で見事な曲線を描く美しい刃が据えられている。そしてその刀身には見慣れない文字列が刻まれており、ドゥハルグが手にしたことで、まるで生命が宿ったかの如く、仄かな光を湛えた。
「こいつは……。信じられねえぜ。こんな逸品が世の中にあったのかよ……」
魂の奥底を揺さぶられたような感覚を覚え、ドゥハルグは大男たちが苦労して運んできたこの薙刀を、一人でゆうゆうと構えて見せた。それが再び周囲の兵士達の度肝を抜く引き金となった。
「あ、あんたって本当に、死神みてえだな……」
明るさを忘れないリックスがたじろぎ、緊張からゴクリ、と唾を飲んだ。薙刀を構えたドゥハルグの姿に、凄まじく恐ろしい死神のイメージが重なって見えたのだ。
いや、それはリックスに限ったことではなかった。この場に居合わせた誰もが、彼と同じ感覚を味わった。古代メナストの力を秘めた薙刀に魅入られ本性を現した死神の殺気を感じて、怖気づかない者がいるはずがなかった。
「か、閣下はこの逸品をお前に授与せよと仰せだ。ありがたく思うのだな」
恐怖に慄然としつつも優位を保とうとする、上級騎士のプライドが何とも滑稽である。
「ああ。この贈り物、ありがたく頂戴するぜ。……おい、リックス」
「な、なな、何だよ?」
「こいつがあれば、伝説の神獣なんざ簡単に殺れるかもしんねえぜ」
ドゥハルグは手にした薙刀を見つめながら、命を刈り取ることが生きがいの死神が如くニヤリと笑った。
今のドゥハルグは死神の通り名に違わない(これは彼の成分であり、逃れられぬ宿命であり、付きまとう使命であり、絶え間なく流動するエネルギーの源でもあるが──)、死と再生を司る永久普遍の篝火を、瞳の奥に宿していた。彼は長らく失っていた純粋な闘志を蘇らせていた。そしてまた、リックスを含め、それを見ていた兵士達は、この時のドゥハルグの眼光にただ戦慄したのである。