狂気の果て 前編
これ以降に登場する、一部のキャラクター名を変更しました。ご迷惑をおかけいたします。
じんわりと溶け出した氷塊の表面を、透明で冷たい水の雫が筋を成して伝い落ちてゆく。その冷ややかなる寂寥感、形あったものが消え、跡形もなくなっていく切なさ。それはまるで有限の中を生きる、人の命の無常のようである。
やがて氷が溶けきった時、残された者の哀しみはどこまでも深く、溶けてなくなったものは嘆いても帰っては来ない。自他を問わず、関係への責任と覚悟、それが命の重みである。他者の命であろうが、自分の命であろうが、それを軽んずることは限りなくエゴイスティックな精神であると言える。
死神とあだ名された男ドゥハルグが辿り着いたのは、生死の無意味だった。そしてそれを悟った時、彼は自他の抹消に救いを見出し、いつしかよりたくさんの死を求めるようになっていった。例え、それがどれ程愚かで自己中心的な行動であったとしても、これは深い悲しみ、悲壮感を以って行き着いた彼なりの境地である。
本来の彼は、命に対しての強い執着と関心の持ち主だった。真摯に向かい合っていくはずの生と死の価値を、いつしか、血の色に染まりゆく手と罪の意識が捻じ曲げてしまった。
彼は自分の並みはずれた強さゆえに命の儚さを知ることはできたが、その尊さ、重さを知ることはできず、限りなくエゴイスティックになりながらも、あまりの内面の純粋さゆえに、出会いすぎた生と死に惑われた。この経過は、彼にとって必然だったのである。
* * *
ドゥハルグは氷のように冷たい牢獄の石壁に囲まれて一晩を過ごした。朝日が昇り、冷たい雫が草木の葉からこぼれ落ちる時間になると、数名の兵士が靴音を響かせながらやって来て、彼を牢屋から開放した。
続いて兵士達はドゥハルグを拘束し、その怪力が発揮できない程度に自由を奪った。
どうやら、このままどこかへ連行するつもりらしい──。ドゥハルグは大人しくそれに従っていたが、取り囲んで歩く兵士達が仔細を説明する気配は無い。
「おい、お前ら。玩具の兵隊みてえに歩いてないで、教えろよ。何で俺は処刑されなかった? これからどこに連れて行こうってんだ?」
「黙って歩け。すぐにわかる」
一同は金糸の刺繍が施された絨毯の敷かれた廊下を歩き、全身が反射して映るほどに光り輝く白い階段を上り、ある部屋の前で立ち止まった。ここで兵士の一人がドゥハルグを睨みつけながらこう告げた。
「ひとつ忠告しておくが、このドアの向こうで妙な真似をしたら、その場で死ぬことになるからな。肝に銘じておけ」
「ああ? 何だそりゃ」
間もなく、一同の眼前にある木目美しいドアが開かれた。そこに現れた部屋は特別な人間のために用意されたものに違いなかったが、ドゥハルグの目は豪華な室内などではなく、部屋の奥でこちらに背を向けて立つ人物へと真っ先に向けられた。その人物はどんなに高級な家具や調度品よりも存在感があった。
「やれ、ようやく来たようだな……」
窓の外を眺めていた人物が振り向いて、ドゥハルグに視線を送る。
ドゥハルグは思わず相手を凝視した。
黒ずくめのたるんだ装束を身にまとった、異彩を放つ闇の住人の如き男である。ローブより僅かに覗く肌は死人を思わせるほどに白く、血の気が全く無い。さらに影の中に浮かぶ瞳には赤い光をたぎらせ、爛々と輝いたような気がした。
(なんだ、こいつは──。まるで人間らしくねえな)
それが、ドゥハルグが持った第一印象である。
見た目だけに留まらず、この人物が醸し出す得体の知れないオーラはザラザラとした感覚を覚えるもので、まるで空気の中に人間として同調しかねるものを潜ませているようだ。
幾多の死線を越えてきたドゥハルグの嗅覚が、すぐさまこの相手の持つ異質で底知れぬ何かを察知した。
「……此度は、会えて嬉しく思うぞ、死神ドゥハルグ。世が伝える、比類なき名声と栄誉に彩られし傭兵。そしてまた、最も悪名高き傭兵。
されば世を賑わし、また混乱させたるその人物は、時に羨望の英雄、義勇の傭兵、あるいは罪深き悪党、畏怖されし死神であった。……にも関わらず、今は死を求めし哀れな迷い犬と成り果てたようだ。全く、人の生とはわからぬものよな」
ローブの男は眼前に跪かされた自分よりも遥かに大柄なドゥハルグを、まるで捨てられた子犬を憐れむような目で見つめた。
「あんた、誰だよ?」
「下郎の分際で、閣下に対し無礼な口を利くんじゃない」
途端、ドゥハルグの横っ面を、彼の傍らに立つ兵士が強打で殴りつけた。僅かに切れた口内から滲み出した、血を含んだ唾を地面に吐き捨て、ドゥハルグは目の前にいる黒いローブの男を睨むように見据えた。
「……閣下だと」
ふざけているのか、と思った。だが、状況がこの人物が政府関係者で、しかも相当な権力者であると告げている。
しかし、相手がどれ程の者であろうとも、地位や権力に無関心なドゥハルグにはどうでもいいことだ。へりくだって敬意を払うつもりなど毛頭ないし、そういった態度をとる術も持ってはいない。
「ハッ……、ふざけるんじゃねえよ。何様だか知らないが、閣下とは笑えるあだ名だな。死神の方が、まだ幾分ましだぜ」
「貴様、その汚い口を閉じねば、今ここで叩き斬るぞ」
「おお、面白ぇじゃねえか。いっそ、早くやれよ。お互い、その方がすっきりするぜ?」
憤慨した騎士の一人が、腰に差した長剣の柄に手をやった。
「……どうしたよ? 早くやれって、この腰抜け野郎が!」
束に手をやったまま身動きができない騎士。それを片手で制し、閣下と呼ばれた男はドゥハルグに歩み寄った。
「恐れを知らず、そしてまた我を知らず……。その口振りも、無理も無いことだ。まず、我が名を聞くがよい。我は、バルナザームという」
「バルナザーム、だって?」
その名を耳にした途端、ドゥハルグは眉間にしわを寄せた。
「バルナザーム……確か、どこかで聞いた名だが……。待てよ」
以前どこかで、だが確かに聞いたことがある名前だ。かろうじて記憶の片隅に残る名前と関連した情報を呼び起こすのに、ドゥハルグは多少の時間を費やした。
「……ああ、何となくだが、思い出したぜ。あんたこの国の……影の宰相とか呼ばれている男だな」
「いかにも、その通りだ。光射さぬ場所を好むゆえ、国内ですら広くは知られてはいない名だが、うぬはよく知っておったな」
「まあ、おかげさんでな、仕事柄、陽の当たらない所の事情にはそれなりに詳しいつもりだ」
強豪軍事国家ドルトス・メルセニアの知られざる支柱、バルナザーム。彼は現皇帝グアディニスの側近中の側近にして、国家の最高頭脳である。
その存在を知る者達が囁く『影の宰相』とは、彼の存在を的確に表したあだ名に過ぎない。実際の彼は皇帝に助言し補佐をする立場にあって、表立って国政に関わることはほとんどない。
しかしながら、彼に与えられた権限は相当に大きい。バルナザームは肩書きの元に采配を振るい、定められた枠組みを超えて行動できるよう取り計らわれている。そこには皇帝からの信任の厚さが窺える。
また実力について、彼は皇帝に重用されるだけの実績を残してきた。近年のドルトス・メルセニアの躍進は、バルナザームの裁量に支えられている部分が大きかった。優れた先見の明と的確な判断力を持ち、皇帝の参謀として存分に活躍する一方で、あだな通りの誰の目にも触れない独自の活動を行って、自国を比肩するものなき大国へと導いた。
特に軍事面では、もはや別次元というべき手腕を発揮した。彼は瞬く間に精強なメルセニア帝国軍を築き上げ、同国の版図拡大に多大な貢献をしたのである。
非常に奇妙なことだが、それ程の実力者であるにも関わらず、また国権を握る人物であるにも関わらず、表舞台でその名を聞くことがほとんど無い。彼の素性や経歴、いや存在そのものが不明瞭なのだ。それ程までに、得体の知れない人物である。
際立った才覚と外見。尋常ならざる奇怪さにより、彼を知る僅かな者たちの間では非常に恐れられ、また気味悪がられている。彼の名を安易に口にするとが、時には死に繋がるからだ。
光ではなく影の中で活躍する国家のもう一人の最高指導者、それが姿無き影の宰相、このバルナザームである。
「……なるほどな、だんだん読めてきたぜ。察するに、俺の死刑を中止させたのは、あんたってことなんだろうな」
「その通りだ。どうしても一度、名高い傭兵と話してみたくなってな。都合よく、この市街地で処刑されるという話を耳にし、刑の執行を中止させた次第だ。偶然であれ我がここを訪れていたのも、あるいは何かの巡りあわせであろうな」
宰相がいかに柔らかい物腰で接しようとも、ドゥハルグは警戒を解かなかった。ほとんど情報の無いバルナザームの人物像と行動の真意を知るため、相手から目を逸らさず、その一挙手一投足を窺っていた。
「さて、出会いの挨拶はここまでとしよう」
宰相はそう言って、テーブルの上に置いてあった資料を手に取ると、造作も無くパラパラとめくった。
「すでにうぬの罪状には目を通したが、全く救いようがないものだな。人の仕業とは思えぬほどに……」
「……おいおい、ちょっと待てよ。今更、俺の裁判でも始めようってのか? そんなもの、もう死刑が決まってる男には必要ないだろう」
「まあ、そう言うでない。これはあくまで形式上のものに過ぎぬ。それに、うぬという人間に非常に興味があるのでな。悪いが話に付き合ってもらうぞ」
「まどろっこしいな。とっとと本題に入れってんだよ……」
ドゥハルグの悪態など気にも留めず、バルナザームは審議を開始した。
「まず、この度はずいぶんと惨い悪事に手を染めたようだが、うぬが惨殺した資産家に対し、どれだけの私怨があったのかを、それを聞かせて欲しいところだな」
「……私怨どころか、面識すらなかった。ただ大暴れして、有名な奴なり大量の人間なりを手にかければ、間違いなく目立つ形で死ねると思ったから、襲っただけだ。依頼してきた賊の連中は、あの男に色々と思うところがあったらしいがな」
「うむ、その通りである。うぬが手に掛けたワムカールという人物は、ただの資産家ではない。市議会の重鎮であり、地域の治安維持や、近隣で活動する凶悪な盗賊団への対策、その支援に多大なる貢献をしていた男である。
──このところ付近を通る交易路で、輸送隊が見境なく襲われる事件が多発し、国有の物資までもが奪われる始末だった。我々もこの問題には頭を悩ませていたのだが、ワムカールは自らの私設警備団をすすんで輸送隊の護衛につけさせ、またこの地域の治安向上にも心血を注いだ。そう……、彼は私財を投げ打ってまで平和に尽力する、極めて善意に溢れた人間であった。誰一人として悪く言う者のいない、非の打ち所のない善人だった」
「……そうかよ。それは、知らなかったな。……だが、俺には関係のないことだ。頼まれた仕事をしただけだからな。仕事には善も悪も関係ねえ。言っておくが、全くもって謝罪の気持ちなんてないぜ」
「……ふむ、そうか。しかし、いかに夜とはいえ、国内有数の資産家でもある彼の私邸に押し入る事など、野盗ら如きの力では成しえなかったのは明白な事実だ。氏は市政に関わる要人でもあり、邸宅とその近辺は常に警備が厳重である。うぬの力なくして、この惨事はありえなかった。それでも、自分は関係がないと言い切るつもりか。どれだけ悪魔の如き所業をしたか、その罪の重さを認識することすらできぬと言うか。さすがに死神は、一切の良心など持たぬか?」
「さあな。いずれにしろ、これを最後の仕事と決めていたんでな。大罪を犯して、大勢の前で派手に死ねれば、それで良かったんだよ。……まあ、あんたのせいで、こうして予定が狂っちまったがな」
そう言って静かに瞼を閉じたドゥハルグの目の前に、酒場で決別したレゼリスの哀しみに満ちた顔が浮かんできた。
(──俺は、死の意味がわからない程に狂っている死神だ。だが、それが俺にはお似合いなのさ。罪を背負って生きていくことに耐えられなくなり、罪滅ぼしと偽って、自分すら欺いて、罪の無い人間を手に掛けて……自分のために、ただ馬鹿げた最期にたどり着きたかっただけなんだからな。そう、俺は墜ちたのさ、愚かな死神によ。……なあ、そんな目で見るなよ、レゼリス。これで良かったんだぜ……)
ドゥハルグがゆっくりと目を開くと、そこには無言で彼を見つめるバルナザームの姿があった。この死神にはまだ、死ぬ前に宰相に聞いておきたいことがある。