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伸ばした手の先 -Her convictions-

 ──助けなど、期待できない状況だった。

 自分達がデッキ上にいるのを知る人物は気絶させてしまった船員だけだし、まさか超低空飛行中の船外に人がいるとは、クルーを含めた誰もが思いはしないだろう。待っていても助けが来ないなら、あとは自分の力で何とかするしかない。

 果たして、この状況を打開する手立てはあるだろうか──。アーシアは必死で甲板にしがみつくトマの元に向かいながら、その糸口を掴もうと思考を巡らしていた。

 その最中で、どうしても考えてしまうのは、もしここにいるのが自分ではなくクエインだったなら──ということだ。詮無きことを繰り返してしまうのだ。

 今に残るメナスト・コントロールという技能は万能ではなく、扱う人間毎に得手と不得手を併せ持つ。アーシアの能力は実体を持たないものや自然や世界の深層、そして自分自身に流れるメナストへの干渉と操作であって、他者や物体に直接影響を与えることを苦手としている。

 クエインは逆に、強力なメナスト・コントロールは扱えないが、他者や物体への干渉が得意だ。自分以外の人間の傷を癒したり、能力を高めたり、物体として捉えることが容易なので、抵抗が弱ければ対象を動かすことも出来る。例えば今の状況ならば、トマの身体を浮き上がらせて自分の元へ運ぶなんて芸当が可能なのだ。

 そういったことは、アーシアには不可能だ。しかし、持っていないものを悔いても仕方がない。可能なことでの解決策、最善の方法を模索するべきだ。アーシアは思考を切り替えてこのループを脱出した。すると、ひとつの考えが浮かんできた。


 ──以前、トラシェルム帝国とアフラニールによる会戦で戦艦のブリッジに同乗させてもらった際に、アーシアはそれまで知らなかった魔晶航空船や航海・海戦に関する知識を色々と得ることができた。例えば、船同士の連絡のやりとりはメナストのシグナルを暗号代わりにして発し、センサーで受け取るというものだった。つまり、ほとんどのシーレの船舶にはメナスト反応をキャッチするセンサーが付いているのだ。

 だから、もし何らかの方法でメナストの信号を発することができるのならば、船のブリッジに直接メッセージを送ることが可能であり、そしてそれはオーファとしてメナストにアクセスし自在にコントロールできるアーシアにとって造作も無い事である。

 とはいえ、状況はそれだけで解決出来るほど簡単ではない。魔晶飽和層キャニノゥが近すぎる今の状況では、例えアーシアが体内のメナストを高めたとしても、膨大なキャニノゥのメナスト反応に紛れ、かき消されてしまう可能性があり得る。

 また、もしそれがセンサーで感知されたとしても、そこまで強力なメナストが一人の人間から発せられていると思う人間は今のシーレでは皆無に等しいので、この部分に関してはやり方を変えてみなければならない。


 それならば────。


 アーシアは現在の状況下でも船のセンサーが感知でき、尚且つキャニノゥの反応に紛れないような反応を生じさせれば良いのではないかと考えた。要するに、彼女は自分から発せられるメナストを操作し、信号のように機械的なシグナルを生み出すというアイデアを思いついたのである。

 具体的には、体内から発生させたメナストを周期的に増大させたり減少させたりする。そういった自然ではあり得ない反応を船のセンサーがキャッチすれば、何らかの異常が起きた判断して、クルー等に調査をしてもらえる可能性がある。それは極めて不確かで時間も要する手ではあるが、緊急時の措置として自分の存在を他者に教えることこそが助かるための第一歩であるのは言うまでもない。何よりも、僅かな希望でも、ないよりはずっとましだ。

 アーシアはそう思い、既にそれを実行していた。ただ、いくら彼女を以ってしても、自分の身をさらおうとする突風に注意しながら絶体絶命のトマを鼓舞し、尚且つメナストに意識を向けてこれを操作し、シグナルを作り出すという作業は途方もなくシビアで神経を使うものだった。


 そうしながらも、今やアーシアはもう少しでトマの身体に手が届く距離まで近づいていた。アーシアもギリギリ一杯だが、甲板にしがみついているトマは限界をとっくに超えている。チャンスはそう長くは続かない。まさに、ここが正念場であった。

「トマッ」

 アーシアは関節が千切れるかと思うくらいに腕を伸ばし、トマを救出しようとした。が、その瞬間に強烈な風が吹いたので、彼女はその手を引っ込めて両手で床に突き立てた剣にしがみつかざるを得なかった。

 船体が巨大なので、甲板の広さも並外れている。そのくせ目立つものはプロペラのシャフトくらいなもので、あとはただ平面の床が広がっているだけである。もともと船の外に人が出ることは考慮されていないこともあるが、とにかく手を掛けられるような物がほとんどなかった。

 再び腕を伸ばして、トマの腕なりを掴もうとするアーシア。しかし、あと少しのところで彼の身体に手を触れることができなかった。突風が吹かない時でも常に強風にさらされているのだ。お互いに腕を伸ばせば手が繋がるくらいの距離だが、状況的にトマの方が片手を伸ばすことは無理だ。アーシアはもう少しトマに近づかなければ助けられなかった。

(あと少し、あと少しなの……!)

 身体を縮ませながら吹きすさぶ風の中で目を見開くと、目前にトマの姿がある。アーシアは余力を振り絞って、さらにトマへの接近を試みた。その距離は今や、片方が手を伸ばせば届く距離である。

 何とかギリギリで、彼を救うことができた───。この時、アーシアは心の中でそう呟いた。彼女はゆっくりと手を伸ばして、彼を掴もうとした。そしてついに、アーシアの救いの手がトマの衣服に僅かに触れた、その時。

 待ち受けていた現実は残酷だった。彼女の手がトマの腕に届いたその瞬間、全ての努力が泡に消えようとしていた。今まで必死に耐えてきたトマの体力に、とうとう限界が訪れたのだ。

「────!」

 それは本当に一瞬の出来事だった。トマが僅かに笑顔を作った気がした、次の瞬間。彼の腕が甲板から離れたかと思うと、そのまま全身が勢いよく舞い上がったのである。そして彼はそのまま、暗いシーレの深海に浮かび上がった。

 アーシアは目を見開いて、その瞳孔にトマの最期を映し込むのみであった。彼との別れがこんなにも早く、あっけなく訪れるなど、思いもしなかったことである。

(だ、め……)

 声を上げることもできなかった。場面がスローモーションのようにゆっくりと流れてゆく。

 彼女の目の前で展開される悲劇は今までに味わったことがないほど強烈に鋭い痛みをもたらした。頭が空白になるが、目の前は真っ暗になる。心の底になにか重いものが沈みこんでいく感覚に襲われる。人との別れの際に今まで幾度も味わったあの重々しい感覚が、再びアーシアを襲ってくる。そして、それと同時に過去の記憶がフラッシュバックし次々と脳内で再生されていく。アーシアは記憶と思考の奔流に飲まれていく。


 自分とトマとの思い出はまだそんなに多くは無いが、決して薄っぺらな関係ではなかったと思う。出会った時に受けた彼の弱々しい印象は今も変わらないが、彼の心の中に自分に近いものを感じ、同じ志をもつ者として彼のことを信頼していたし、頼りにもしていた。

 実際、真面目で慎重なトマは、客観的に見るのが苦手な自分の良きパートナーと呼べる存在だった。時々やりすぎてしまうこともあるけれど、からかって遊ぶのも楽しかった──。


 友情とも、恋愛感情とも違う心の繋がりが、二人の間に芽生えていたのである。アーシアにとってトマは大切な人間であった。

 その彼が闇の底、飲み込まれたら決して助からないキャニノゥの雲に落ちようとしているのだ。今のアーシアの絶望的な気持ちをどう形容するべきだろう。


 アーシアの胸に去来するこれは、単なる哀しみだろうか。いや、そんなものではない。彼女を切り裂く感覚は、彼女の体験が生み出した恐れと直結しているものだ。彼女が何に対して恐れを抱き、もっとも苦悩してきたか。それは命というものの儚さだ。思いがけず簡単に失われるくせに、ずっと人を苦しめて、しかも失われたものは帰ってこない。その不条理さは、たとえ摂理であろうとも彼女が納得できない事柄のひとつだ。

 必要の無い命などひとつもないはずだ。願わくば哀しい別れ、大切な人との理不尽な別れのない世界になってほしい。戦争の絶えないこの世界が平和になって欲しい────。


 そんな彼女の願望は非現実的な理想論かもしれない。口に出したところで、それは甘い考えであると一蹴されることもあるだろう。だが、不可能であろうとなかろうと、それを実現させることに価値があると、彼女は本気で信じて疑わないのである。果たして、誰がそれを馬鹿げたことだと罵れるのか。

 人一人のできることなど限られている。例え今のシーレにおいては超越者であるオーファとなったアーシアでも、生と死に理を覆すことなど不可能だし、悲しみそのもを消すことなど出来はしないだろう。生じれば必ず滅するという、神によって定められたルールを超越することなど叶わないことだ。

 しかし、無力ではない。オーファである以上、彼女にしかできないこともある。彼女は幼少の時と変わらず、平和を愛し、希望を信じている。まるで、その小さな背中で悲しみの連鎖するシーレの全てを請け負うかの如く────。


 しかし今。伸びきったままのアーシアの腕は、結局トマを救えなかったのだ。まるで彼女の想い、願いの全てを否定するように──。

「あ、あ……」

 絶望を絵に描いた場面が展開される。

 トマは空高く投げ出され、完全に舞い上がっているのである。そしてそのまま、抗うこともできずに何も無い虚空の中へ吹き飛ばされていこうとしていた。彼が助かる術など、もはや何ひとつとして残されてはいない。


 ──いや違う。残されてはいない、はずだった。


 実際にはトマは暗黒の海には飲み込まれなかったのである。彼は空中で完全に静止し、そこからぴくりとも動かない。

「!」

 何が起こったのだろう。アーシアが何かをしたわけではない。彼女にはもう何もできることはなかった。どんなに得意な術を用いようが、メナスト・コントロールを利用して肉体を強化しようが、どうにもならなかったのである。それならば、一体なぜトマはシーレの深海に放り出されなかったのか。

「リ……シュ!」

 トマの身体をガッチリと抱えていたのは白銀に輝く神々しき甲冑。紛れもなく、アーシアの妹でありサウルであるリシュラナだった。彼女が舞い上がったトマの身体を受け止めたのである。

「何で……。あなた、出てこれないはずじゃあ」

 先程は姉の呼びかけに応じず姿を現さなかった彼女が、何故今になって現れたのか。もちろん彼女のおかげでトマの命が助かったのは喜ばしいことだが、腑に落ちない面もある。

 命の糸が切れなかったトマは、今さっきまでの悲壮な表情から一転してキョトンとした面持ちである。

「と、とにかく。リシュ、私達をあの扉まで運んでちょうだい」

 ほとんどの自然法則に従う必要が無いサウル・リシュラナは、風の抵抗など全く関係なく活動できる。彼女はトマを抱えたままアーシアの元へ舞い降りて、残ったもう一方の腕で姉の身体を掬うと、すぐさま二人を船内に続く扉のそばまで運んだ。

「リシュ、あなたどうやって現れたの?」

 金属の腕に抱かれた姉がそう尋ねても、リシュラナは答えなかった。妹の腕で保護されたまま、アーシアはしばらくリシュラナの紅い瞳を見つめていたが、大切なことを思い出して声を上げた。

「あ、アスト・ソレイジアの軍艦を助けないと!」

 窮地に追い込まれていたのですっかり忘れてしまっていたが、これであの軍艦を救えなかったら、甲板に飛び出した意味も無い。たが──。

「如何せん、遠ざかってしまったわね」

 アーシアは口惜しそうに言った。軍艦が交戦していた先程の空域までの距離は大きな問題である。ここから飛び立ってそこへ向かうのはリスクが大きすぎる。飛行をリシュラナに頼っても、もはや彼女の行動可能範囲外になっている可能性が高い。

「こうなってしまっては、もう諦めるより仕方がないのかしら」

 無念だが、助太刀のチャンスは失われてしまった。あとは当該空域から遠ざかるのみである。無事に空域を離脱することが出来たこの客船については安全が約束されたわけだが、真実を知る者が一件落着と締めくくれるわけがない。襲われていた軍艦のことを思えば。

(無事を祈ることしかできないなんて────)

 悔しさと憤りから、アーシアは奥歯を噛み締めた。


 ところが、ここでまた奇跡のような出来事が起きた。

「何。船が、浮上する……っ!」

 出し抜けに、船が高度を上げ始めた。それは始めはゆっくりとした速度だったが、その内に急上昇を開始し、瞬く間に眼下に広がるキャニノゥの雲が遠のいていった。

「どうして……!」

 トマ救出劇の最中に恵悟達が扉の向こう側まで来て、アーシアが気絶させてしまった船員を目覚めさせたことなど知る由もない。ブリッジへ戻った船員が、彼女達の存在を伝えてくれたのだ。

 高度が上がれば自然と風も弱くなる。ライトブルーの青空が広がる通常高度に達する頃には、荒ぶる風神はすっかり大人しくなっていた。

「お客さん!」

 そう叫んで寄ってきたのは、アーシアたちを甲板まで案内したあの船員である。気絶の後遺症もないらしく、とても元気そうだ。

「ああ、あなた。さっきはごめんね」

「ごめんでは済まされないですよ! こんな事をして、一体どういうつもりなんですか」

 見れば、船員の背後から知っている顔がぞろぞろと出てくる。トマに恵悟、葵にヘイゾーだ。

「あら、みんなまで」

「無事で良かったです」

 アーシアの無事を確認すると、恵悟は心底ほっとした様子で胸を撫で下ろした。

「部屋に戻ったら突然いなくなっていたんで、本当に心配したんですよ」

「ごめんなさい。……でも、ここにいることがよくわかったわね」

「ヘイゾーが案内してくれたんです。おかげで船員さんを助けることもできたし、今回はこの子のお手柄なんですよ」

 葵は両手で抱えているヘイゾーをグイッと前に突き出して、花がほころんだような笑顔を見せた。その後、恵悟が補足し、恵悟たちの行動や船内での動きがアーシアに知らされた。

「そうだったの……」

 結果的には、ヘイゾーがここまで二人を連れてきてくれたから船の高度が上がったわけである。そのおかげで別の展開が望めるのだから、彼のお手柄と言っても過言ではないかもしれない。

「いやー。全く、ドアを開けたら恵悟君と葵ちゃんがいたんで、びっくりしましたよ。僕は」

「何言ってるんですか、驚いたのはこっちですよ。トマさん、急に出て来るんだもん。青白い顔して、お化けかと思っちゃった」

「そ、そうだったかい?」

 生還を果たしたトマは意外な遭遇に驚いたらしいが、相手はそれ以上にびっくりしたらしい。よほど死人のような顔をしていたのだろう。

「そういや葵、トマさん出てきたとき悲鳴あげたもんな……」

 その瞬間のことを思い出し、恵悟は危うく笑ってしまいそうになった。


 *  *  *


 各々の辿った経緯を照らし合わせれば、色々な出来事が重なって現在の状況が導き出されたことがよくわかるものだ。だが、それは後でゆっくり整理するとして、今はもっと重要なことがある。

「ねえ、船員さん。船を反転させて、さっきの戦闘空域に向かって欲しいんだけど」

 高度さえ上がればもうこっちのものである。アーシアは単調直入に願い出た。

「な、何を言っているんですか。危険をようやく回避したって言うのに、引き返せるわけがないじゃないですか。大勢の乗客の命がかかっているんですよ」

 船員は目を白黒させながらそう答えた。

「なあ、船員クン」

「ま、またあなたですか。今度は何ですか」

 再びトマが偉人気取りの演技に入ったので、船員は何を言われるものかと身構えた。

「チミは今さっき言ったじゃないか、異様なメナストの反応があったって」

「確かに、ありました。船のセンサーに引っかかってましたからね。キャニノゥの影響による受信ミスだという結論でしたが、それが何か?」

「それがもし、人間の反応だったとしたら、どうする?」

「え、何を言っているんですか。そんなわけがないじゃ……」

 そう言いながら、船員はアーシアの顔をちらりと見た。すると彼女は小さく頷いた。

「チミの耳には入っていないのかな。いや、そんなはずはないだろうね。何せ、アフラニールとトラシェルムの空戦では、多くの定期船が欠航していたわけだからね」

「一体、何が言いたいんですか、あなたは?」

 船員には、トマの言わんとしていることがなかなか理解できなかった。

「まだわからないのかね。今、チミの目の前にいるのが、アフラニールの大艦隊を蹴散らしたトラシェルムのオーファだと言っているんだよ」

「へっ……ええっ!」

 船員は驚きの余り、すっとんきょうな声を上げた。

 確かにトラシェルムのオーファの噂は、トラシェルム大陸から遠く離れた空域にまで及んでいる。だがしかし、その中身については魔女だ悪魔だと騒がれるものだったので、まさか目の前にいる花のような美人がその人だとは全くもって予想外である。実物が、多くの人間が描く人物像とまるっきり違っているのだ。

「そんなわけで、彼女が交戦できる距離まで近づければ、この船だけではなくあのアスト・ソレイジアの軍艦も救えるのだよ」

 それを聞かされた船員は困り顔にはなったが、今度のトマの言葉にはかなりの説得力があった。何より、トラシェルムのオーファの凄さは船乗りの間でもはや伝説的になってきているのである。

「……じゃ、じゃあ、言うだけ言ってみます。でも、僕は新米なんで、あまり期待はしないで下さいね。あと、絶対この船に被害を及ぼすようなことだけは避けてください」

「もちろん約束するわ。ありがとう」

 船員はそのまま去ろうとしたが、何故か途中で立ち止まって振り向いた。

「それと、もう一つ!」

「何かしら?」

「あ、あとで記念の署名を下さい……」

「うふっ。お安い御用よ」

 歓喜のミーハー船員は小躍りしながら船内に消えていった。

 これでうまく話が通れば、先程の戦闘空域まで戻れる。それまでの間にできることと言えば、まだアスト・ソレイジア艦が無事であることを祈ることぐらいか。

「うーん、署名か。まさかアーシア様の署名を欲しがる人間が出てくるとは思いませんでしたよ。やっぱり始めからアーシア様の正体を明かしたほうが手間が省けて良かったかも」

「まあ立場上、自分の事をベラベラ喋りたくないからね。あと、実は帝都でも結構ねだられたんだけど、結局一枚も書かなかったのよ」

「じゃあ、彼が第一号ですか。今度からは、こういう時には給仕である僕を通して欲しいですね」

「何が給仕よ。居候のくせして」

 マネージャー気取りのトマに冷静な突込みを入れるアーシア。

「わ、わ。凄いね。何かアーシアさん、芸能人みたい……」

 葵は羨望の眼差しでアーシアを見つめた。実力とルックスのギャップがトラシェルムのオーファの人気の秘密でもある。特にホームタウンとでも言うべき帝都での人気は日本の国民的アイドルばりだ。


「──それにしても、今回ばかりは本当にだめかと思ったわ」

 窮地を凌いだことを今さらに実感して、ふぅ……と溜息をついた。

「まさに九死に一生って感じでした。僕なんてもう、一回死んだようなものですよ」

 そう言うトマの顔色はあまりよくないが、とにかく無事で何よりである。今はアーシアも心から安堵していた。

「もしあそこで妹さんが助けてくれなかったら、僕はシーレの海底にまっさかさまでした」

「それなんだけど、どうしてリシュは初め呼びかけた時には来てくれなかったのかしら」

「僕には、何となくわかる気がします」

 普通の人間であるトマにはリシュラナの姿は見えないが、アーシアが彼女を必要としたにも関わらず現れなかったことには気付いていたし、またその理由についても彼なりの予想はついていた。トマは話を続ける。

「多分、妹さんはアーシア様の行動に不満があったんですよ」

「私の?」

「つまり、いつも以上に危険で無茶な行動に対して、身をもって注意を促したんじゃないかと思うんです」

「それで、私に思い知らせるために、わざと初めは現れなかった、と?」

「ええ、おかげで僕は滅茶苦茶に翻弄されたわけですが」

 言われてみれば。確かに、アーシアも今回の勢い任せの行動は心底反省しているくらいだ。自分だけではなく、トマをも命の危険に晒してしまったことは償いきれるものではないと思っている。

「今回ほど、自分の無力を実感したことは無いわ……」

 俯き加減のアーシアからはちょっとした挫折の色が見て取れる。いつもの彼女に比べたらやはり落ち込んでいるのは間違いない。トマは彼女の沈んでいる姿はあまり見たくはなかった。

「……でも、アーシア様。さっきも言いましたけど、僕が危険な目に遭ったのは、本当に僕の責任なんで、アーシア様は悪くないです。貴女に付いて来る決断をしたのも、船外に出たのも、船の中に戻ろうとしたのも、全部僕の勝手な判断なわけですから、僕のことについては自分を責めたりしないで下さいね」

「トマ」

 アーシアは静かに顔を上げて、トマと視線を合わせた。

「それどころか、僕は本当に感動したんです。あの状況下で、望みを捨てずに、身を呈してまで僕を救おうとしてくれたアーシア様の姿に……。僕はやっぱり、ここまであなたに付いて来たのは、間違いじゃなかったって思いました」

「なっ……」

 トマからまっすぐな視線と言葉を浴びせられ、アーシアの頬にほんのりと朱色が乗った。彼女はすぐにそっぽを向いたが、照れているのがバレバレである。

「どうしてそんなこと……。ああ、もう! あなたなんて、あのまま吹き飛ばされれば良かったのよ」

「えええっ。それはあんまりですよ」

「うるさいっ。こんのばかトマ! ばかばか」

「励まそうと思っただけなのに……何故。うぅ」

 必死に照れをごまかそうとするアーシアと、なぜか責められて今にも泣き出しそうなトマのコミカルな対比である。

 そんな二人のやりとりを傍観する恵悟と葵。微笑ましいと言うか、何と言うか……。あたかもコントを見ているようである。

「ねえケイ君。トマさんもだけど、アーシアさんってば面白い人だよね。天然なのかなあ」

「かもな。天真爛漫って言葉が似合う感じだな、あの人には」

「それって、つまりジコチュウってこと?」

「おいおい。怒られっぞ、葵。せめて『周りの目を気にしない、自己主張の強い人』位にしとけよ」

「……それだとあんまり意味が変わらない気もするけど」

 あの女性はあれで相当な天然だということがわかってきたが、そう思っているのが知られると何となく怒られそうなので、決して本人の耳には入れまいと心に誓った恵悟であった。

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