竜国の姫君
その頃、トラシェルム煌翼神騎士団を統括するサスファウトは、屋内の練武場で兵士達の動きを見ていた。
特定の兵士を鍛えるため、あるいは少数精鋭を育成するための訓練を行う場合に利用される、それほど広くは無い練武場。本日の訓練は日頃から兵士達に恐れられている女性将軍ウルネが行っているので、サスファウトは仕事上、視察に来ただけにすぎなかった。
「そこ、気を抜くな!」
サスファウトが見ていると思うと、ウルネの指導にも自然と熱がこもる。ただでさえ厳しい彼女がさらにヒートアップしては、訓練される側はたまったものではない。地獄の基礎体力トレーニングも、今回は本番の戦闘訓練を行う前に全員がへばってしまいそうな勢いすらあった。
「一瞬の気の緩みが全体を窮地に晒すことを、肝に銘じておけ」
その後もウルネの叱責が兵士達を咬み続けたが、サスファウトは特に何もするでもなく、その様子をじっと眺めていた。
そんなサスファウトの元に、報告を携えた兵士がやって来たのは、それから間も無くのことだった。兵士はきびきぼとした動きでサスファウトに駆け寄ると、彼の目の前で敬礼を行い、こう告げた。
「騎士団長様。練武場に、お美しい女性がお見えになっております。自分はアスト・ソレイジアの王女で、騎士団長に会いに来たと仰っているのですが」
「何だと!」
今まで言葉を発しなかったサスファウトが突然声を上げたので、訓練中の兵士達は彼の方に意識を向けてしまう。結果として、彼らの動作は完全に止まってしまった。
「こら、貴様ら! 何に気を取られているか。訓練に集中しろ!」
途端にウルネが怒鳴りつけて、ようやく兵士達はトレーニングを再開した。
サスファウトは困惑した表情を浮かべながら練武場の入り口へと向かい、そこで見覚えのある女性と対面した。
「エリミティーヌ様! ……ご来訪なさるとは、全く聞いていませんでしたが」
サスファウトの驚嘆は相当のものだ。今彼の目の前にいるのは紛れも無く、アスト・ソレイジアの姫君、エリミティーヌなのだ。
「フレイルース卿……。お久しぶりです」
恋焦がれ、待ちわびていた相手との再会に、エリミティーヌは自分の胸の鼓動が高鳴るのを感じた。彼女の視線は、サスファウトの顔に向けられたまま離れようとしない。見つめるその瞳の輝きは、彼女が彼に対して持っている、尋常ならざる好意の表れであった。
それに対し、サスファウトは王女の姿をまるで幽霊が現れたかのような眼差しで見つめている。それほどまでに意表を突かれた形なのだ。
汗臭い練武場とは余りにもかけ離れた、美麗な大輪の花──。緩やかなウェーブのかかった、まるで絹のような金髪。大きくて美しい碧眼。白いドレス調の戦衣をまとい、その上に申し訳程度の甲冑を身に着けている。それは誰が見ても場違いな華麗さだった。
「従者はどうしたのですか。このような所、貴女のようなお方が一人で来られるものではありませんよ」
まさかこの王女が、従者である飛竜騎士たちを振り切って来たとは知らないサスファウト。姫君の後方、開かれた練武場の入り口から外に目をやったが、そこにはひとつの人影もなかった。
「そんなことはどうでもよいではありませんか。……それよりも、見学をさせて下さいませんか。邪魔は致しませんので」
「いけません。いくらエリミティーヌ様といえども、我が軍の訓練をお見せするわけにはいきません」
相手が王女であるにも関わらず、応対するサスファウトの態度は、極めて事務的なものだった。彼は王女の目を見もせず、冷たく突き放す素振りすら見せたのである。
「で、では、せめてお話だけでも。……してくださいませんか?」
なおも食い下がる姫君。しかし、サスファウトは首を横に振った。
「申し訳ないのですが、私は訓練の視察中です。ご要望には答えられません」
エリミティーヌ王女の奔放さ、わがままで自己中心的な性格を良く知るサスファウトは、本人がそれを自覚してくれるように、意図的に仕向けているのだ。決して、簡単にあしらっているわけではないのだ。
そしてまた、彼は王女の自分に対する想いを、十分過ぎるほどわかっている。
──が、しかし。相手は一国の王女。いくら友好国とはいえ、エリミティーヌがトラシェルム帝国の将軍との逢瀬を愉しんだとあっては大問題。ここでサスファウトが立場をわきまえなければ、国家間の一大事へと発展する可能性がある。
だからサスファウトは自重し、例えそれが無礼な行為であったとしても、敢えて突き放すように接している。軍紀と照らし合わせてもそうだ。困り者の王女にはこうする他手立てが無いのだ。
「どうしても城にお戻りにならないのならば、無理矢理にでも連れて行きますよ?」
「ならば、貴方が私を送って下さいませ。それならば従いますわ」
王女は素早く切り返すと、そっとサスファウトに近寄った。結果、両者の距離は肌が触れ合いそうなものになった。
「フレイルース卿、私は貴方に会う為にここまでやって来たのですから」
その距離で、王女は恥らいながらも、囁くように呟いた。
「本当は、わかって……おいでなのでしょう?」
迫る王女に対して、サスファウトはすぐには反応しなかった。少し考えてから後、「ならば、用件はもう済んだはずです。使いの者を呼びましょう」と、目の前にある姫の顔を無視するが如く、毅然とした態度でそう言った。
「そんなっ。どうしてなの」
エリミティーヌは、相手への恨みと哀しみで瞳を潤ませた。
ずっと想い続けてきた、たった一人の男性。彼女の心を独占し、満足させることができるのは、サスファウトを置いて他にはいないのである。
(フレイルース卿、いいえサスファウト……どうして貴方は振り向いてくれないの)
サスファウトのどんな諌めも、エリミティーヌの心を挫くことは叶わない。彼女は依然として、そこを去ろうとはしなかった。頬を紅く滲ませながら、相変わらずの潤んだ瞳でそっけない相手を見つめている。
「……あなたの気持ちを。本当の気持ちを聞かせてください、……サスファウト」
王女は、サスファウトの本心を量りかねて尋ねた。彼の展開する理論が、あくまでも国や地位にこだわったものでしかなかったからである。
「ならば言いましょう。貴女は一国の王女として自重なさるべきです。このような行動は、両国の関係上に悪影響を及ぼしかねません」
サスファウトの側でも、姿勢を変えるつもりは無い。竜国の姫君は唇をキッと結んだ。
「国の事情が何だというのです。貴方は地位を守りたいのですか。そんなに、身の保身が重要ですか」
およそ王女とは思えない言葉を、彼女は発した。彼女は国の行く末よりも、愛する人との行く末の方が重用だと信じているらしい。
「姫君が……そのようなことを仰るものでは……」
「いいえ、私は見損ないました。貴殿の為なら、命など惜しくはなかったのです。だからここまで来れたのですから」
真実しか感じさせない、真っ直ぐな王女の言葉だった。それから彼女はサスファウトを睨み付けさえしたが、それはもちろん憎悪からくるものとは違う。一点の曇りも無い王女の視線が、容赦なくサスファウトに突き刺さった。それはわざと冷たく接していた彼の態度などよりもずっと力があった。
「……」
思わず言葉を失うサスファウト。彼にとっても、王女は特別な存在である。妹を見守る兄のような感覚ではあったが、少ないながらも逢う機会があれば彼女にほだされ、いつしかその豊かな感情に心惹かれる自分がいた。お互いに大切な人という意識を持っていた以上、それは恋人同士のような関係に近かったかもしれない。
だが、今では彼女が好意をあからさまにしているため、以前のような関係を続けることは難しい。彼女にとってのサスファウトは、愛の対象に他ならない。一線を越えようとする気持ちが彼女の言動、一挙手一投足に見て取れる。
立場上、サスファウトは王女の好意を真正面から受け取ることは出来ないのだ。自分には、一国の王女と結ばれるという大事は受け止められない。彼女を想う気持ちと、決して受け入れるわけにはいかない現実とが、彼を苦しめる。サスファウトは思わず、瞼を閉じた。
エリミティーヌは想い人が無言になった様子を見てから、「……貴方のお心がわかりました。もう、行きますわ。貴方がこの程度の人物と知ったならば、惜しくなどありませんから」と言った。そして、ここで初めて視線を外してそっぽを向いた。
「エリミティーヌ……王女」
女性にここまでさせてしまったら、一人の男として真摯に応じなければならないだろう。一途な彼女の想いは、本来ならば情思を軽んじなどしないサスファウトの心を動かすのに十分であった。
「何ですか?」
わざとふてくされたように、腕を組んだままチラリと彼の方を見る王女。先程はサスファウトに決断を迫るような言い回しをしたが、もちろん彼に愛想を尽かしたりなどしない。乙女心として、ちょっとでもいいから、嬉しい言葉を聞きたいだけなのである。小悪魔的な性格で、女性の扱いにスマートなサスファウトすら手玉に取りかねない。絶妙な男のコントロールテクニックを備えている姫君だ。
ただならぬ展開に発展しそうな二人。サスファウトは唇を動かし、何かを発しようとした。
──ところが。
このタイミングで、練武場にまた新たな人物が現れたのである。
「サスファウト将軍。ここにいらっしゃいましたか」
その人物もまた、サスファウトには見覚えのある娘だった。情熱的で華麗な姫君とは対称的な、清楚で可憐な乙女、アスト・ソレイジア飛竜騎士団の若き副団長シオンである。彼女はサスファウトの居場所をロシオウラに尋ねたのだ。彼が練武場にいると判明すれば、彼を捜し求めるエリミティーヌが一緒にいるとみて間違いなかった。
「おお、シオン殿か。……お父上は達者かな」
「はい。戦場に出ることはほとんどなくなりましたが、日々後続の訓練に精を出しております」
「そうか。それは何よりだ」
「シオンッ!」
重要な局面で会話を中断させられたエリミティーヌは怒りを露にし、シオンを睨み付けた。
「……さあ、姫様。帰りましょう。騎士団の皆が待っています」
責め言葉を軽く流し、シオンは姫を連れ出そうとする。
「あなたはいつもそう。どうして私の邪魔ばかりするの」
「邪魔をしているつもりはありません。姫様の行き過ぎた行動をお諌めしているだけです」
「無礼にも程があるわよ、一介の騎士の分際でっ!」
沈着冷静な対応を貫くシオン。対し、エリミティーヌはますます声を荒げていった。彼女は今までとは違う理由で、端正な顔を赤く染めていった。
「ですが、私は国王より直接、あなたのお目付け役を仰せつかっておりますので」
「そうやって保護者面をするのも、いい加減止めにして頂戴!」
──アスト・ソレイジア王家とシオンのネスティルダ家は深い関係があって、ネスティルダ家は代々、王国の重役を担ってきた名門である。実際にシオンの父親も南海屈指の精鋭部隊と謳われる飛竜騎士団の団長という誉れある役職に就いているし、その娘であるシオンもまた騎士団の副団長を務め、王女直属の近衛騎士という重役も担っている。
また、家系同士の繋がりを別としても、国王とシオンの父の関係は主と臣という枠を越えたものである。それは友人どころか親族と言っても差し支えないものだ。
当然、両者の子供である王女とシオンは幼馴染、幼少の頃よりお互いを知る間柄である。同性、同年齢ということもあり、身分のせいで限定的な交友しか許されない王女の良き遊び相手として共に過ごしてきた。少なくともシオンが軍人になるまでは、二人はかけがえの無い友人同士だった。
しかし、この頃ではどうしても二人の主張が食い違う。もともとの性格の違いもあるが、子供の頃と違って今は王女と配下武将という明確な主従関係が成り立っている。それが一番の原因であり、二人の確執に一役買っているのだ。
もし、両者が成長や境遇に振り回されず、元来の信頼関係を保てたならば、このような摩擦も生じなかったはずである。例えるならば、国王とシオンの父親のように──。