セノスの怨炎 邂逅
村の方から、怒号に似た叫び声が聞こえてくる。
「なに、子供が逃げ出したのを見た者がいるだと。馬鹿が、なぜ追いかけなかった! すぐに探し出すのだ! 一人も生かしておくなという領主様のご命令だ。我々に逆らうとどうなるのか、近隣の有力者にも徹底的に示さなければならん」
放たれた非道の言葉が小さな耳を貫通し、子供の心に突き刺さる。アーシアは思わず耳を塞いだ。
──嫌だ。聞きたくない。
荒んでいる。狂っている。おかしい。こんなの、絶対におかしい。
なぜ、この兵士達はこんな惨いことを平気でやってのけるのだろう。このような残虐極まりない行いによって、一体何が得られるというのだろう。自分の領地の人間を抹殺して、どんな得があると言うのだろうか。
首を左右に振って嫌な感覚を振り払うと、アーシアは妹の手を引き、小走りで道路を進んだ。姿を見られてしまった以上、のんびりと行動することはできない。だが、身体の強くない妹には無理をさせるわけにもいかない……。
兵士たちが二人を探し回っていた。彼らは注意深く、周辺を虱潰しに捜索している。
人の気配が近づいて来たため、姉妹は樹木の陰へと身を隠した。彼女達の周辺を照らすのは、僅かな月明かりのみである。兵士は灯篭や松明を持って歩いているが、物陰や闇夜に紛れてやり過ごすこともできそうな気がした。
(このまま隠れていれば、こいつらはあきらめて帰っていくに違いない)
アーシアはまず、そう考えた。
だが、この考えは非常に甘いものだった。
近づいてくる足音が、危険を知らせる。この時、彼女達の背後から、別の兵士が迫りつつあった。やはり、この大きな道は徹底的にマークされているのだろう。
(駄目。ここにいたら、見つかってしまう)
選択の余地は無かった。最も近くにいる兵士が自分達の隠れている場所から目を逸らした隙に、二人は思い切って道に飛び出した!
「あっ、いたぞ! こっちだ!」
「!」
飛び出した瞬間に別の兵士に見つかり、姉妹は咄嗟の判断が出来ずに立ち止ってしまった。
「大人しくこっちに来るんだ。……何もしないから」
そんな甘い言葉が嘘であることくらい、子供にだってわかる。姉妹は後ずさりした。
すると、この時。兵士と視線を交わしたアーシアの瞳がほのかに発光し、本人も知らない不思議な力の、その片鱗が解き放たれた。
「うあ、熱ッ! ……何だっ!」
無意識のうちに、炎を操ったのである。アーシアの反射的防衛反応だった。
兵士の手にしていた松明の炎が燃え盛り、彼の手を焼こうとした。驚いた兵士が松明を地面に落とし、草に燃え移った炎が広がって、彼と姉妹の間にバリケードを作った。アーシアはその機を逃さず、兵士達のたむろするのとは逆方向の道を走り出した。
こうして窮地を逃れるくらいの時間は稼げたが、まともに見つかってしまった以上、全力で逃げ出す他に術はない。
だが、兵士達は四方に分散していて、道路を走り続ることが安全だとは言い難い。
しかも、道なりに進んではいずれ追いつかれるのが明白で、彼女達は否応なく、鬱蒼とした森の中へ飛び込んで行く他なかった。
隣町へ続く道を外れることは避けたかったが、もはやそんなことを言っていられる状況ではない。女子の足である上に、走る場合にはどうしても妹の手を引かねばならない。目立つ道を走っては、悪魔から逃げ切ることは極めて困難である。
アーシアのすぐ背後から、妹の荒い息遣いが聞こえてくる。
「お姉ちゃん、苦しいよ」
「お願い、今だけは頑張って。もし捕まったら、二人とも殺されちゃう」
ただ、逃げる子供が有利だったのは──。体型が小さいために、身を隠すのが容易だったことである。岩石や樹木の陰、道を逸れたところにある崖下の窪みなど、少しの空間さえあれば姿をくらますことができた。
二人は道を外れたまま、危険を感じては、隠れたり逃げたりを繰り返した。その内に、とうとう人間の声も、気配もなくなった。闇夜が彼女たちの味方をし、兵士達を振り切ることができたのだ。結局、領主の私兵団は、アーシア達を捕らえることができなかった。
身を隠すことによって兵士達の目を欺けた姉妹だったが、恐怖心からは簡単には逃れられるものではない。勇気を出して再び歩き始めたのは、夜がさらに深まってからのことである。
新たな問題が起きていた。隣町に通じる道を見失うほどに森の中へ踏み入ってしまったため、どの方角に進めばいいのか、どのように歩けばいいのか、全くわからなくなっていたのである。
姉妹はただ、歩き続けた。幸いにも湧き水が流れ出す場所を見つけることができたので、そこで喉を潤すことができた。二人はこの湧き水のそばで時を過ごし、そして眠った。
余程疲れていたのだろう、次に目を覚ました時には空は白く染まり、一面に朝靄が浮かんでいた。
「お母さんも、逃げ出せたかな」
リシュラナが、昨日よりも悪くなった顔色で姉に訊いた。
「うん。きっと……無事だよ。お父さんだって……きっと……無事だよ」
アーシアはそっと、自分の頭にある髪飾りを指でなぞった。
それにしても、この行程が子供にとってどんなに過酷なものだったか。また、どんなに侘しく、心細かったか、語るまでもない。
だが、この状況下にあっても、アーシアは決して絶望してはいなかった。
彼女はまだ子供ではあるけれども、常に生きることそのものが希望であると信じるような性格だった。彼女は何があろうと、自分の希望の部分を絶対不可侵な部分──聖域として保っていた。だから彼女は決して諦めたりはしない。
だが、そんなアーシアにも気がかりなことがある。それは儚い妹のことだ。妹はこの苦境に耐えうるだけの生命力を持っているだろうか──。
さて、いつまでも、同じ場所に留まっているわけにはいかない。誰も通らぬ森の中を、姉妹は歩き続けた。もはや元気に歩けるような状態ではなかったが、それより他には何もなかった。
やがて、雨が降り出した。それは時をおかずして、豪雨となった。まるで空が泣き出したのかのような雨は、さらに強さを増していった。この場所に嵐が近づいているのだ。
絶え間なく降り注ぐ雨粒は、その一粒一粒が透明な水であることを忘れさせるほどに激しく、鬱蒼とした木々の切れ間においては、波のように集合して押し寄せる波になって、二人の行く手を阻んだ。
足元は雨でぬかるみ、僅かな斜面でも滑り、流されてしまいそうになる。おぼつかない足取りで、二人は必死に前を向いて歩いた。
「リシュ!」
ついに、恐れていたことが起きてしまった。妹が倒れたのである。彼女の顔が驚くほど赤い。胸で大きく息をしていて、とても苦しそうに見えた。
(どこか……妹を休ませられる場所は無いの?)
妹を助け起こしてから、アーシアは周囲を見回した。大雨で視界は利かなかったが、今いる小径の先にうっすらと建物の影が見えた。近づいてみると、それが古びた木造の小屋であることがわかった。
アーシアはすがる思いで、その小屋の戸に手を掛けた。幸いなことに鍵はかかっておらず、引き戸は力まずとも簡単に開いた。
「えっと、ごめんください……」
入り口から顔を突っ込み、目を凝らして様子を窺う。首を左右に振って見回してみたが、内部は妙に薄暗くて詳しくはわかりそうにもない。
慎重な足取りで入り口の敷居をまたぎ、中に何があるのかとつぶさに調べてみると、農作業に使う道具や、木を伐るための斧やのこぎり、それに山積みにされた藁などが置かれていた。他にも、隅の方には伐られた木材が並べられている。
物置か、あるいは作業小屋か。見た目は簡素な小屋のような建物だが、外から見るよりも内部は遥かに広くて、内部の半分くらいは単なる土の地面だが、もう半分には古くなって痛んではいるものの隙間なく床板が敷かれていた。
ここは、休憩所を兼ねているのだろうか。何はともあれ、雨露を防ぐには十分すぎる建物である。
(ここなら、リシュを休ませられる。休ませている間に、人を見つてくればいいんだ)
アーシアはリシュラナの元に戻ると、ほとんど自力で歩けなくなってしまった妹を、半ば背負うな形で小屋の中に運び込み、そして板の間に静かに寝かせた。
「ごめんね。私が無理をさせちゃったから……」
リシュラナは何も言わず、苦しそうに胸を上下させている。
その様子を見て、アーシアは妹の命の灯火が弱まっていることをはっきりと感じた。
(だめだよ。お願い、死なないで……)
アーシアは妹の手を握りながら、心の底からそう願った。
今、彼女のグラついた精神を支えているのは、このかけがえのない妹ある。
もし、リシュラナという最後の砦を失えば、いくら逞しいアーシアとは言え、脆く崩れ去らないとも限らない。
「リシュ、ここで寝ていて。絶対に、私が助けを呼んで来るから」
そう約束してから、アーシアは髪も乾かぬ内に小屋を飛び出した。
だが、助けを呼ぶといっても、あてはまったくない。自分たちの居場所すら定かではない状態だ。
けれども、ここには今でも人が利用する小屋があって、脇には小道が通っている。近くを人が通る可能性があるということだ。
アーシアは一人、小屋の脇にある小道へ飛び出した。そしてその真ん中に立った。前を見れば、どこへ続いているのかわからない森の道を挟みこむ無言の木々。振り向いて後ろを見てみたが、やはり同じような風景が広がっていた。
「……う……くっ」
ここにきて、アーシアの胸の中で猛烈にこみ上げてくるものがあった。妹が倒れて初めて、アーシアは焦燥感と心細さに涙したのである。が、この雨の中ではそれも一瞬で流されていく。彼女は自分の中で逆巻く不安をかき消そうと、大声で叫んだ。
「誰かーーっ!」
それすらもかき消そうとする、無情の雨の音。
少女は既に気力も体力も限界だった。それでも声の続く限り叫び続けた。
「誰か、助け……助けてくださいっ!」
が、繰り返すうちに、次第に叫ぶ声も力を失っていった。
「誰か……」
彼女の声は届かないのだろうか。これが運命なのであろうか。
あとはもう、彼女に出来ることは、その場に立ち尽くすことだけだというのに──。
もう、アーシアは声を発することを止めてしまった。彼女は疲れ果て、この場所とこの状況で叫ぶことの無意味を悟った。希望が完膚なきまでに打ち砕かれ、無力になった少女は立ち尽くし、唇を噛み締めながら虚空を睨み続けた。
少女の悲痛な叫びは無情にも、誰かの耳に届くことはなかった。
──しかし。しかし、である。
魂の尊厳によって形作られ発せられた声なき心の叫びが、灰色のぶ厚い雨雲を貫いて天に届いたのかもしれない。
見れば。降りしきる雨の向こうから、小径を歩いて近づいてくるぼやけた影がある。雨中に霞んでおぼろげな人影は、佇立して微動だにしない少女の目前まで来て、ようやくその正体を明らかにした。
その人物は、見るからに年季の入った、フード付きの象牙色のローブを身に纏った、中背で体格のよい老翁だった。
顔の特徴は鼻が高く、眼光は鋭く、彫りの深さに厳しさを匂わせるが、造形には品があり、齢相応に刻まれた皺が手伝っていかにも博学で明敏そうな顔立ちをしている。目元には小さめの丸縁眼鏡をかけ、鼻梁の下には真っ白でボリュームたっぷりの見事な髭を蓄えている。そして、背中には荷物がたんまり詰め込まれていそうな、大きく膨らんだ嚢を背負っている。
見た目の特徴を総合すると、この男性は長く旅を続けている熟練の冒険者なのかもしれない。いずれにせよ、並の人物ではないことだけは確かだ。、
「むうっ?」
アーシアの姿に気付いた老翁は、小さな放浪者との遭遇に若干の驚きをもって立ち止まった。そして、目深にかぶったフードの奥から覗かせた、知性を湛える慧眼で、目の前の少女の童顔を凝視した。
対象の美少女もまた負けじと、小さな瞳で老翁を見つめている。
こうして交差した互いの視線は、相手に注がれたまま、一瞬たりとも外れる気配がない。
(ふーむ。見たところでは、十歳ほどの少女のようだが……。この雨の中、どうして一人でこんな森の中におるのだろう?)
雨のせいではっきりとは言えないが、娘の顔──特に目元はぐちゃぐちゃになっている。恐らく、目一杯の涙を流しているのだろう。表情に出してはいないが、よほどつらい目に遭ったに違いない。
(──だというのに、この少女は何と眩い眼をしているのだろう)
今、娘の双眸──エメラルドの瞳には悲壮感が溢れ、本来持っている輝きは陰りを見せているかもしれない。溢れる涙が輝きを覆っているかもしれない。
だが、それでもなお、彼女の虹彩は幾千億の光の欠片を集めているのだ。そして瞳の奥底にある明緑の生命の炎が、瞬く星辰の群れを率いて揺らいでいる。実に力強く、美しい。
老翁はこれほどの煌きを秘めた特別な瞳の持ち主を、いまだかつて見たことが無い。彼は思慮し、髭の中に隠された自分の顎をなで回した。
「妹が……」
先に口を開いたのは、少女の方だった。彼女は搾り出すようにして言葉を発する。
「妹が……死んじゃいそうなの……。お願い、助けて……」
老翁は事態が飲み込めぬまま、少女と共に森の小道に建てられた小屋の中へ立ち入った。
──すると、瞳の美しい少女が言う通り、そこには今にも消え入りそうな、もう一人の少女が寝かされているではないか。
咄嗟に抜き差しならぬ状況であることを把握した老翁は、急いでこの少女の容体をみた。
「む、これは……!」
寝かされた娘の体温を探ってみると、焼けるように厚い。普通では考えられないような、尋常ではない発熱である。
そして、さらに容態を調べるうち、彼女を苦しめているのが普通の病ではないことが判明した。
(この病は、急にかかる病ではない。生まれたときから体を蝕み、死に至らしめる病だ。この子はすでに寿命なのだ。恐らく、それが早まったというだけの話だ。……もはや助かるまい……)
特別な知識を持つ老翁は、さらにこうも思った。
(……なるほど。どんな医者であろうとも、この娘の病気を治すことはおろか、診断さえ下せないのは明白だ。何せ、この病の本当の原因は、体内を巡る特別な力のあまりの強さに、この娘の肉体の方が耐えられなかったことによるものなのだから──)
死が迫っているこの少女から、明らかに別次元の力が感じられる。この娘もまた、浮世離れした特別な少女だということが、この謎めいた老翁にはわかったのである。
そして、もうひとつ──この時老翁が気になったのは、姉妹の関係である。
姉の方は外面的には逞しそうだが、内面的には決して逞しくはない、それどころか危うさや脆さを感じさせる。支えを失った瞬間には崩れ落ちそうな気配がある。その証に、こうしている間にも、彼女の顔からは生気が引いていっているのだ。
これは老翁の勝手な推測だが、誰かや何かのために生きるという強い信念、悪く言えば依存や自己犠牲の強い気持ちが、子供ながらも彼女にはあるのではないか。
もしここで妹を失った時、彼女は生きる意味を失うのではないかと思うほどに、精神的な部分では他者──特に妹に頼っていると感じられた。
そして、逆に妹の方は生命力の面において姉に頼っているに違いない。
(これが、先天的メナストを持った双子の姉妹の関係性だと言うのか。ならば……いや、しかし──)
老翁は真剣な顔でしばし考え込んでいたが、やがて何かを決心したようにアーシアの方を向いて、彼女の顔をじっと見つめた。
「おぬし、名は何と言う」
「……アーシア。妹は、リシュ。本当の名前はリシュラナ……。私だけがリシュって呼ぶの」
「では、アーシアよ。どうしても妹を……リシュラナを助けたいか?」
聞かれるまでもない。アーシアの答えは決まっている。返事をする代わりに、大きく頷いた。
「そのためなら、どんなことでも我慢できるか」
少女は再び頷いた。
「……そうか」
悲壮という言葉ではまだ生温い現実、それでも確かに存在する生命、そして希望の光。それは儚くも美しく、そして何よりも逞しい。少なくとも彼女達は、その尊厳を保ち続けていた。
生きようとする気持ちだけではない。天が彼女達を生かそうとしているのだ。
だがそれを感じるには、彼女達はまだ幼かった。
(……この先、二人はどう生きてゆくかわからぬが、これは運命としかいいようがない。この出会いは、神石の導きとでも言うべきものだ)
一体この老翁は何者で、これから何をしようというのだろうか。そして、この姉妹は一体どうなってしまうのだろうか。
煌天世界の輪舞曲の新楽章が、今まさに始まろうとしている。