5−3 「竜翼の髪飾り」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
到着した宮殿の門前には、すでに宮中から出迎えの者が遣されていた。案内された宮殿の一階中央、謁見の間に続く立派な扉を開くと、そこには皇帝ミュリオンのほか、大臣格の家臣と幼帝の世話係の侍女が数名いた。その列の中には、例の宮殿官吏カルオフも混ざっている。
「アーシア、よく来てくれた」
ミュリオンは決して高慢な態度をとらなかった。
「お呼び頂きましてありがとうございます」
アーシアは御前で地に膝を突き、礼を述べた。
「それで、この度はどのようなご用件でしょうか」
「うむ。実はこの前の表彰で、お前に対しての恩賞が少なかったと思ってな」
「そのお言葉だけで充分でございます」
「いや、それでは余の気が治まらんのだ」
ミュリオンが目配せすると、侍女の一人が何かをアーシアの目前に運んできた。
「受け取ってくれ」
アーシアは静かに、箱の中に入っているそれを手に取った。
「これは……髪飾り、ですね」
白銀に輝くその髪飾りには、竜の翼をモチーフにした大きなウイングが取り付けられている。翼の部分はかなり大きくて大胆な造形だが、よく見ると精緻な細工で仕上げられており、細部に亘ってかなり精巧に作りこまれているのがわかる。そのアクセサリーは力強さと繊細さを兼ね備えた見事な一品であった。
また、これは偶然の一致だろうが、その竜翼の髪飾りが放つ美しい輝きは、同じく白銀に輝くリシュラナの装甲を思わせた。
「お前は常に髪飾りをしているから、これがよいと思った。知ってのとおり、翼はこの国のシンボル、そして繁栄と成長の象徴とされている。別にお前をトラシェルムの臣とみて作ったわけではないが、気に入らなければ言ってくれ。作り直させる」
「いえ……とても気に入りました。身に余る光栄、ありがとうございます」
「そうか。では今着けてくれるか」
「はい」
アーシアはほぼ常時、髪にアクセサリーをしているが、それは幼少時代から変わらない習慣である。彼女はそれまでしていたヘアピンを外して、貰い受けた竜翼の髪飾りを付けた。側頭部がほとんど隠れるくらいの大きさだというのに、少しも重くない。
「なるべく軽くなるように作らせた。うむ、よく似合うな」
ミュリオンは髪飾りを身につけたアーシアの姿を見つめると、満足そうにそう言った。
「法外な恩賞である。ありがたく思えよ」
見るからに狡猾そうな顔立ちをした高官カルオフが、そう付け加えた。
「アーシア、共に参れ。少し歩こう」
皇帝はおもむろに玉座から立ち上がると、そう言った。
「陛下、このような卑しき者とご並列して歩かれるなど」
諌めたのは、これまたカルオフである。彼は身分が低いアーシアの事を快く思っておらず、至極面白くなさそうな顔をしていた。
「余がそうしたいと言っている。自由にさせてもらうぞ」
謁見の間を後にした一行。ミュリオンが先頭を行き、その少し後ろをアーシアが従って歩く。さらにそのずっと後ろから、カルオフを始めとして家臣たちがぞろぞろ付いてきている。
ミュリオンがピタ、と歩くのをやめて後ろを振り向いた。
「皆のもの、なぜ付いてくるか。下がれ」
「ハッ、しかし我々は陛下の身を常に案じておりますから……」
「アーシアとおれば何も心配はない。それとも彼女が余に対し危害を加えるとでもいうのか」
「いえ、決してそのような……」
ミュリオンは再び前を向いて歩き出した。
「すまぬな、アーシア。家臣の無礼、許してくれ」
廊下の途中で、またミュリオンは足を止めた。彼は、今度はそこに飾ってある肖像画を見つめている。肖像画には雄々しい姿の男性が描かれていた。
「これは、先代……陛下のお父上、ベルギュント様ですか」
アーシアがまだ子供の頃、自分の家の店先で、名も知らない絵描きが書いたらしいベルギュントの肖像画を見たことがあるが、ここに描かれた人物はその絵の人物と良く似ていた。そのため、この国が好きではない彼女にも、これが先帝ベルギュントの肖像画だと予想できた。
今思えば、ベルギュントの肖像画などという物が田舎の村にあったことは不思議極まりないが、考えてみれば戦役当時に勇名を轟かせていた人物で多くの絵が出回っていたことだろうし、貿易商や骨董商経由で偶然に流れてきた品だったのかもしれない。
「そう、偉大なる先帝だ」
ミュリオンは大きく頷いてアーシアに言う。
「先帝……父上はとても強い人だった。父上はよく私に言っていた。人の上に立つ者は、甘すぎても厳しすぎてもいかん。そしてよく人を用い、大局を見ろ、と。父上自身はとても厳しい人だったけれども、本当は配下の者が恐れるほど怖い人ではなかった。罰せられたものは必ず裏にそれ相応の理由があって、父上はそれを見逃さなかっただけなのだ」
自分の言葉を噛み締めてから、ミュリオンはアーシアの方を向いた。
「まあ、今のはロシオウラが教えてくれたことなのだがな」
すこしはにかんで言う。
「余は力不足だ。でもいつかは父上に負けないような、強い人になりたい」
次にミュリオンとアーシア、それに取り巻きの家臣たちは階段を上って、見晴らしのいい宮殿のテラスに出た。心地よい風がアーシアたちを掠める。
ミュリオンはテラスの端に立つと、そこからずっと遠くを見つめた。
「母上は」
ミュリオンは遠い目のままで話し出した。
「戦役の途中で倒れられた。母上はとても気丈で、しかし同じくらい優しい方だった。病床にいながらも常に余と、父上と、そして国のことを気にしておられた」
アーシアはミュリオンの話をすぐ隣で聞いている。
「だが、間もなく母上は亡くなられてしまった。父上は母上がいなくなってから、ふさぎこんでしまった。逞しい父上の、始めてみる姿だった。そして、しばらくは戦争どころではなくなっていた」
(それで進攻が遅れたのね)
アーシアは納得した。
先帝ベルギュントの后、セディナは確かに戦役中に没命している。しかしそれがリ・デルテア王国の進攻を遅らせた要因のひとつだとは知る由もなかった。覇王として名高いベルギュントにも人間らしい、弱い一面があったとは意外である。
「戦争に勝利し大陸を統一すると、父上は皇帝を名乗った。広大なこの大陸の統治者となったのだ。……しかし、すでにこの時父上の体は長い戦いのせいで限界だった。間もなく動くことすらできない体になってしまった。父上は死の際、国のことはロシオウラにまかせ、お前は彼から見、聞き、学べ、と言った。私は、一人になってしまった」
ベルギュントの死因には諸説あるが、長引いた戦役による心身の疲弊という説が有力だった。
アーシアは暖かい眼差しで、憂いに満ちたミュリオンの横顔を見つめていた。
今のミュリオンくらいの時、アーシアは両親を失い、生まれ故郷を失った。妹は命だけは助かったが、もはや人間では無くなってしまった。
彼女は今、幼いころの自分の姿をミュリオンに重ねて見ていた。一体、彼はどんな思いで皇帝の座につき、どんな思いでその座にいるのだろう。
(きっと、辛いわね……)
当時、子供ながらも無力に打ちのめされた自分と同じように、ミュリオンはまだ無力で、国家の実権などはあってなきようなもの。偉大な父の影に翻弄され、余計に自分の力の無さを痛感しているに違いない。
しかし、傍にいて話を聞いてみると、この少年が決して弱い人間ではないことがよくわかる。
むしろ、この少年は自らを顧みる勇気を持っている。幼帝で頼りなしと誰もが危ぶむが、少なくても今の時点では、世に言われるような愚帝の類ではない。偉大なる父と愛情溢れた母の姿、その面影が、見えない力で彼を導いている。
そして今、アーシアも。
「陛下」
言われて、ミュリオンはアーシアの方を向いた。
「私も陛下と同じように、幼いころ両親を失っています。そしてオーファとして生きるのは想像以上に苦しいことが多かった」
「余も、皇帝の名が虚しいときが有る。名ばかりの皇帝とはまさしく余のことであろうと」
オーファはそこで、首を横に振った。
「陛下は立派です。その証拠に、あなたは国民を敵の脅威から守ったではないですか」
「しかし、余はなにもしていない……」
「……そこです。先帝もおっしゃっていたのでしょう? 摂政を頼り、人を用いよ、と。陛下はまさにその通りのことをしたのではないでしょうか。これはその結果。あなたは聡明です」
「……」
「人というのは、どのように力や権力があろうとも決して一人では生きられない。化け物扱いされるような私だって、一人では生きられません。どんなに頑張ってもやはり限界があります」
「……」
「そう言うと、余計に無力に感じてしまうかもしれません。しかし、無力でもよいのです。それだから、人は……助け合いながら生きていく」
アーシアの瞳が遠くに向けられた。その横顔は驚くほど美しかった。
(やはり、アーシアは、母上に似ている)
ミュリオンは彼女の横顔を見てそう思った。凛とした強さと優しさに、母の面影が重なった。そしてその瞬間、ミュリオンにとってアーシアは特別な存在となった。
「アーシア、余の傍にいてはくれぬか」
「申し訳ございませんが、国に仕えるつもりはありません。こればかりは」
彼女は硬く辞した。
「いや、そうではなくて……余の后にならぬか、ということなのだが」
「はわ〜〜〜〜!」
遠くで様子を見ていた家臣たちが、驚きのあまり変な声をあげた。
「ななな、なんということを!」
一同、うろたえるばかりである。
国の最高権力者でもある十代そこそこの少年が、事もあろうかアーシアに求婚しているのだ。これを国家の一大事と言わずになんと言うべきか。そも、内気そうな幼帝の口から出た言葉とはとても思えなかった。
「もちろん今すぐではなくて……いつか、余が立派な皇帝となったらの話だ」
言いながら、ミュリオンは自分の決意を示すかのごとく、拳を作って強く握りしめた。
「私など……こんな卑しい身分の者でよろしいのですか?」
「身分など関係ない。父上と母上も、身分違いであった」
「もったいないお言葉です」
しかし、子供とはいえ相手は一国の皇帝である。ここは言葉を選んで、滅多な事を言うべきではないと思ったアーシア。
「では……」
さすがに若干の間、返答に困っていたが、
「……考えておきますね」
アーシアは微笑んだ。
「うむ」
ミュリオンはその笑顔で満足したらしく、それ以上何も言わなかった。
家臣団は胸を撫で下ろしたことだろう。
清清しい風が皇帝とオーファの間を吹き抜け、トラシェリア城の国旗がはためいた。
風に乗せられた花弁が宙を舞って、宮殿のテラスまで運ばれてきた。
それはまるで、新時代の開幕を告げるかの如く。
──遥か遠方の空に浮かぶイヴェロム大陸。
果たして、そこで何が待っているのだろう。
風の行方を導き出せないように、待ち受ける未来を窺い知ることはできなかった。