セノスの怨炎 惜別
~煌天暦二百六十一年 トラシェルム大陸ギ・マ国セノスの森~
豪雨に呑まれた森の中をさ迷う、小さな二つの影──。鬱蒼たる木々の間隙から降り注ぐ痛烈な雨粒に打たれながら、十歳程度の幼い姉妹が延々と歩を運んでいる。
この二人の少女のうち前を行くのが姉であり、僅かに見出せる小径を見据え、進むべき道を自らの力で切り開こうとしている。
その後方、姉に付いて歩くのが妹だ。こちらは見るからに辛そうである。苦しげな表情を浮かべながら、それでも姉の歩みに遅れまいと懸命に歩いている。
姉が振り向き、妹の姿を心配そうに見つめる。二人の距離が開くとその場で立ち止まり、遅れがちな妹が自分の元にたどり着くのを待つ。
妹の遅れる頻度が増してきた。姉はとうとう後戻りして、妹を迎えにいった。姉妹はしっかりと手を繋ぎ、それからは歩調を合わせて道なき道を進んだ。
だが、こうして妹を気遣う姉に余裕があるわけではなかった。姉妹のどちらもが、余力を振り絞っているのだ。募る疲労と心細さ。辛苦という名の大蛇に締め上げられ、少女たちは限界寸前に追い込まれていた。
今にも崩れ落ちそうな二人の姿を例えるに、消えかけた蝋燭の炎の弱々しさである。踏み出す一歩に力は無く、足取りはおぼつかない。
そこへ、豪雨が容赦なく追い討ちが掛ける。悪天候が姉妹にもたらす影響は、体力の消耗だけに留まらない。人里離れた森の中にあって、しかもこのような空模様では、姉妹を見かねて救いの手を差し伸べる他者が現れるとは到底思われないのである。
この状況、何と過酷なことであろう。一体、何の咎があって、無垢な少女達がこのような仕打ちを受けねばならないのだろう。
だが、目をそらさずに直視すべきなのである。彼女達は確かに歩いているのだ。多くの大人が抱くような、未来についての疑問もなく、生存に必要不可欠な希望を損なったりもしない。ただ、生きること──それだけが全てだと、真実だと体現するかのように。たとえ一歩一歩が小さな足取りであろうとも着実に踏み出し続けている。それは健気なのではない。人間が保有する、生への純粋な本能的執着の逞しさである。
それにしても、彼女達の身の上に何が生じたのか。何故、このような状況に置かれてしまったのか。それらを語るためには、時を遡らねばならない。
発端の場所はトラシェルム大陸中央北部、ギ・マ国内にある辺境の村セノスだ。姉妹の一家は、その都会から距離を置いた町と呼べるほどの規模もない長閑な村で、平穏に暮らしていた。
雑貨店を営む目利きの父親に、家族思いの明朗な母親。元気で利発な姉に、病気がちだがとても心優しく聡明な妹──。
田舎の商売で贅沢はできないけれども、都会の喧噪と無縁な森の中での生活は自然と温もりに溢れ、家族は幸せそのものだった。
──その事件が起きるまでは。
ある日のこと。父親が早朝から隣町ミシリーズに仕入れに向かったまま、夜を迎えても帰ってこない。そんなことは初めてだった。どんなに遅くても、正午ごろには帰宅するはずなのだ。彼は絶対に家族に心配をかけない父親であるし、本人も出かける時、「今日は早めに帰る」と言っていた。その彼がいつまで待っても帰ってこないのだ。家族は彼の身に何かがあったのではないかと思い、その身を案じていた。そして結局、その日父親は帰ってこなかった。
翌日の夕方頃、セノスの村に武装した大勢の兵士達がやって来た。それは、この地域一帯を治める領主の私兵団であった。
余りの物々しさから不審がる村人達に向けて、兵士達はこう告げた。
「我々は、売国及び反逆の疑いがあるこの村に実地調査にやって来た」
セノスの住人達は顔を見合わせた。そんな物騒な話は、誰一人として覚えがない。村の誰もが、何のことであろうかと困惑した。また、調査が目的で私兵団をよこすとは、度を過ぎて物騒ではないかと考えた。
実際の話は、こうである。
隣町ミシリーズで仕入れ作業をしていたある商人が、領主に対する不平不満を漏らした。それが偶然その場所に居合わせていた本人の耳に入ってしまった。その商人はすぐさま捕らえられ、投獄された。
その後に行われた尋問で、彼が他国と内通しており、時機を見計らって隣国と連携することや、団結しての大規模な暴動まで画策していたことが発覚した。
語るまでもなく、その商人とは姉妹の父親だ。彼の行方不明の原因は失踪でも事故でもなく、謀反人として投獄されていたことによるもので、しかも言い渡された罪状の全ては濡れ衣もいいところ。領主がいい様にでっち上げたものという、とんでもない話だった。
このような暴挙を行なう領主の本当の目的は、権力の誇示と見せしめであり、正義なき制裁に他ならない。彼は偽りの大義名分や口実を掲げて、常日頃から自分を信用せず、また認めようとしない憎たらしい者達を屈服させるために、兵を派遣したのである。
当然、セノスの住民は今回の領主の横暴な振る舞いを許すことが出来ない。自己中心的な考えしか持たない領主への不満を、ここぞとばかりに一挙に爆発させ、皆でやってきた領主の私兵団を罵り、追い返そうとしたのである。
それに対し、兵士達は何をしたか?
あるいは、彼らは人間の面を被った悪鬼であろう。彼らは躊躇なく村人を襲い、民家を焼き払い始めたのである。信じたくはない非道によって、平和な村は一瞬のうちに地獄へと変貌を遂げた──。
* * *
無抵抗な村人を、まるで害獣を葬るかのように突き殺した後、兵士が言い放つ。
「あの男の家を探し出せ。内応の裏づけがあるかもしれんからな」
地獄の使者となった領主の手先が自分の家を探していることを知り、姉妹の母親は誰にも悟られないよう、大切な二人の娘を床下の狭い倉庫へと隠した。
「いい、二人とも。何があっても外に出てはダメよ。ここに隠れて、じっとしているの」
「でも、お母さんは。お母さんは、どうするの? ……一緒にいてくれないの?」
「ごめんね、リシュラナ。お母さんは、みんなの手伝いをしなくてはいけないから、あなたたちと一緒にはいられないの。でも、心配しなくても大丈夫よ。あとで必ず、……必ず迎えに来るから、それまでは出てきてはいけないよ」
ここで母親が口にした「みんなの手伝い」とは、村の自警団への援助であり、領主の私兵団に一丸となって抵抗することだ。また、自分が彼らを引き付けることによって、悪魔の手を大事な娘達から遠ざける目的である。それが決死の行動であることは明白だ。
「それで、もし……。もし、お母さんが戻ってこなかった時は……その時は、外の安全をよく確かめてから、隣町へ行くのよ。村のはずれを通る大きな道に沿って歩けば森の中に入ることもないし、迷わずにたどり着けるからね」
母の言葉を胸に刻み、娘達は深く頷いた。
「二人とも、そんな悲しそうな顔をしないで……」
そう言って、母親は愛娘達を強く抱きしめた。これが最後の抱擁になるかもしれないと思い、力いっぱいに抱きしめた。体温が、ちゃんと伝わるように。
しばらく抱きしめてから、母は名残惜しそうに姉妹を解き放ち、姉の方へ顔を向けた。
「……アーシア、お前はお姉さんなのだから、しっかりしなければならないよ。リシュラナの面倒をよくみてあげて」
「うん」
「約束よ。二人とも、何があっても、絶対に生きる続けることを考えて」
喧噪の音が、徐々にこの家に近づきつつあった。おそらくは隣家であろうが、豪快に窓ガラスの割れる音がした。もう別れを惜しむ時間すら残されていないことを告げている。
「これは、お守りだよ。とても大切な品物だから、何があっても、絶対に手放してはいけないよ」
そう言って母親は、手にしていた見事な装飾の髪飾りをアーシアに手渡した。嵌められた宝石が、戸の隙間から差す光を吸い込んできらりと輝いた。
「うん」
自分の手のひらに乗せられた美しい髪飾りを見つめながら、アーシアは頷いた。
「いい子。お母さんは、いつでも二人を見守っているからね」
母は娘達に笑顔を送り、床下倉庫の入り口を自身の手で閉じた。それが、娘が最後に見た母親の姿である。
姉妹は光が差し込まなくなった暗闇の中で寄り添い、うずくまりながら時を過ごした。そのうちに、頭の上から足音が聞こえてきた。木の床を踏む重量感のある靴音は、明らかに母親のものとは違う。アーシア達は身をこわばらせ、ひとつの物音も立てないように注意した。リシュラナも自分の口を手で塞いで、息の音すら洩れないようにしている。
「ここがあの男の家だな」
「雑貨商でしたから、間違いありません」
「よし、隅々まで探すのだ。計画を裏付けるような証拠があるに違いない」
兵士達の家捜しが始まると、姉妹の緊張と恐怖は極限まで高まった。地下倉庫の戸口は簡単には見つからないように出来ているが、もし存在に気付かれれば────もうどこにも逃げ場などはなく、絶対に助かりっこない。姉妹は震える手を握り合った。高鳴る心臓の鼓動さえ止めたいと思う時間が流れ、また別の足音がやって来た。
「隊長、向こうの路地で武装した村人達が抵抗を続けています。だいぶ手こずっているらしく、味方が応援を求めていますが、どうしましょう?」
「そうか。よし、ここは後回しにしても問題あるまい。まずはそちらに向かうぞ。奴ら、断固として抵抗するつもりのようだからな。徹底的にねじ伏せねばならん」
その会話を最後に、姉妹の頭上からは一切の人の気配が無くなった。しかし、二人を襲った身体の震えと心臓の高鳴りは、しばらくしても落ち着かなかった。
──そのまま、果てし無い時間が流れた気がした。だがその一方で、おかしなことだが時の流れが感じられなかった。
どれだけ待とうとも、母親が戻ってくることはなかった。
アーシアは慎重に倉庫の蓋を持ち上げ、隙間から周辺の様子を窺った。母親を含めて、そこに人の気配は感じられなかった。もう安全だと判断し、リシュラナと一緒に床下から這い出た。
目の前に広がる光景──。暮らしてきた家は、変わり果てていた。真っ赤な火の手が壁づたいに回って柱が焼け落ち、家の一部は崩れ、そこから外の景色が見える程に壊れていた。
姉妹の家だけではない。村中が同じように焼かれ、民家は例外なく全壊あるいは半壊していた。見慣れた光景はもはや存在してはいなかった。
焦げ臭さと炎の熱気、何よりも目の前の光景から逃げたくて、アーシア達は家から飛び出した。
「お母さん……!」
周囲を見回してみる。母親どころか、生きた人間の姿がどこにもなかった。無残に転がる死体は、アーシアの見覚えのあるものばかりだった。リシュラナは耐えなれなくなって目を瞑り、アーシアの服をぎゅっと掴んだ。
この時セノスで行われた惨たらしい虐殺は、「村人が逆らった場合、容赦なく皆殺しにしろ」という、救いようの無い領主の命令によるものだったが、そんな狂気の命令が下されていたことなど、村人が知る術はなかった。
不意に何者かの気配を感じ、姉妹はとっさに物陰に身を隠した。その何者かの正体は、村人ではない。いや、それどころか人間ではない。甲冑を身にまとった、人間の姿を借りた悪魔だ。
「まだいるの……」
時間が経っても、連中は村の中に居座っているのだ。領主の私兵団は執拗に村とその周辺を徘徊しているのだ。彼らは、徹底してこの村と住人を滅ぼそうとしていた。
「ねえ、お姉ちゃん。お母さんは倉庫から出てはいけないって言ってたよ?」
そう言って、妹は姉の顔を見つめた。
「リシュ、お母さんは、私が戻ってこなかったら隣町まで行けって言ったのよ」
アーシアが答えた。倉庫に戻り、怯えながら危険から身を隠すか、一刻も早く安全な隣町まで逃れ、この暴虐を外部に伝えるか。選択をしなければならない。
「お母さんはきっと戻ってくるよ」
リシュラナはそっと呟いた。
「私だって、そう信じてるわよ。……でもね、リシュ──」
この時、アーシアの頭にひとつの考えが浮かんだ。妹を地下倉庫に隠し、自分が隣町まで行って、助けを呼んでくる。この非道を外部に知らせるのだ。そうすれば──。
(……ダメ。そんなこと、できっこない)
頭を左右に振り、軽薄な考えを打ち消した。リシュラナと共に行動しなければならない。今、妹を護れるのは自分しかいないのだ。
「お姉ちゃんが決めて。私は、お姉ちゃんについていくから」
「……」
健気な妹の言葉を耳に受けながら、アーシアは物陰から村の様子を窺った。
あくまでも見える範囲での話だが、村の中にはそれほどたくさんの兵士がいるわけではなさそうだ。仕事が粗方片付いたために人員が減っているのか、それとも村の外に大勢いるのか。わからないが、逃亡するチャンスが十分にあるように思われた。
「よし。リシュ、行こう。ここにいても、怖い思いをするだけだから」
決断を下した姉妹は、居座る兵士達の目に触れないよう注意しながら、素早く村を抜け出した。
その後、村はずれの道に入ってから少女達が振り向くと、赤々とした炎に包まれた、故郷セノスの姿があった。深深とあるはずの夜の闇を明るく染め上げたのは、凄まじい憎悪の炎であった。人間の怨念、業、邪悪が渦巻き、辺りを飲み込む竜巻のように激しく暴れていた。
──姉妹の瞳と心に焼き付けられたのは、憎悪の赤い炎、怨炎だった。
握り締めていたお守りの髪飾りを自分の髪に付けると、アーシアは妹リシュラナの手をとった。この場にとどまるのは非常に危険だ。兵士達に見つかってしまうかもしれない。
「大丈夫。この道を進めば、迷わずに隣町まで行ける」
気丈な姉の口調は力強さを増していた。この娘は逞しく、滅多なことでは屈しない。子供ながらも類稀な行動力と機転の良さを持ち、自らの道を信じ切り開く勇気や意志がある。
「そうだね。行こう……」
一方、妹の声は先程よりも弱々しくなっていた。この娘は、姉とはまるっきり正反対である。生まれつき身体が弱く、具合が優れずにベッドの中で何日も過ごす時間が長かった。活発な姉と違って大人しく繊細な彼女は、読書や花々に興味を示すような心優しい少女だった。
透明感溢れる純白の肌に、鼻筋が通ってはいるが彫りの浅い顔立ち。精巧な人形かと見紛うほどに、非常に愛らしい妹リシュラナ。その容姿と存在感は、姉のように華々しく主張するものではないが、とても静謐で温和な印象を与える。それは花畑に住む妖精か、清らかな天使に例えられようものだ。
手荒に扱うと壊れてしまいそうな妹を見つめ、アーシアは決意を新たにした。
(妹は。何があってもリシュだけは、絶対に守らないといけないんだ)
守るべき対象。その身を案じ、無事を願う心。生き抜く決意をより強める要因となったものは、お互いが欠かせない人間であるという揺ぎ無い絆だった。