5−1 「平和への願い」
ローセルム地方、カルフィノ・ファリの街に程近い草原に一隻の航空船が降下した。
全体が茶褐色でスリムな船体の尾翼には、翼を持った煌天の女神ネア・ミアを象徴化したエムブレムが描かれている。これが民間船ではなく正真正銘トラシェルム帝国空軍所属の小型艦船であることの証である。
着陸した船の側面にあるタラップが下ろされると、そこから人が現れる。帝都より帰還したアーシア一行である。
鉄の階段を下りたアーシアは、まずは澄み切った空気を味わいたくて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。呼応するように吹き抜ける草原の柔らかい風と、それが運んでくる緑の匂いも疲れを忘れさせてくれる。
「あぁ、やっと帰ってこれましたね」
大役を果たし、安堵感もひとしおであろう。トマがしみじみとそう言った。
街の教会から馴染みのある鐘の音が響いてきた。時を知らせる鐘の音だ。
「アーシア様、僕はいったん自分の家に帰って、必要なものを揃えてきます」
「それは構わないけど、本当に家に住み込みするつもりなの?」
「もっちろんです! 僕は希望の光を見つけたのですから!」
「希望の光、って何よ?」
「もちろん、この混迷の世界に救いをもたらす、アーシア様という名の希望ですよ!」
「ちょ、あのねえ…………」
全く、どう反応していいのやら。彼に返す言葉は無いが、ともあれ恥ずかしい台詞を平気で口にする彼の決心、その揺ぎ無いことだけは間違いない。
「まあ、世話を焼きたいのなら勝手にすればいいわよ。ただし、言っておくけど許可なく乙女(注:わたし)の部屋を覗いたりなんかしたら────命の保障はないわよ?」
「心配しないで下さい。僕はアーシア様のお側にいられるだけで、こう……救われるような気がしますので!」
「トマって変わってるわよね、本当に……」
街の入り口で別れを告げるなり、トマは軽やかに去っていった。その背中は以前より一回り逞しくなったように見える(と、本人だけが思っていた)。
カルフィノ・ファリに入ると、見慣れた景色が出迎えてくれた。少しの間しか離れていなかったというのに、久しぶりに帰ってきたような気がする。
帝都から遠い平和な街である。大規模な空戦の結果は、人々にどんな影響を与えたであろうか。見た限りでは、街の雰囲気は以前と何も変わりがない。焼きたてのパンの香りに、子供たちのはしゃぐ声。帝都の賑やかさに比べれば長閑な街の雰囲気である。それはアーシアの心を穏やかにした。
「のう、アーシアよ。この国に対する印象は変わったかの?」
歩きながら、クエインが訊ねた。
「まぁ……少しだけ。多少はまともな人間もいるみたいですね」
「ほっほ」
アーシアに生じたその変化は、クエインにとっても喜ばしいものだ。
幼い頃に彼女の心に刻まれた憎しみ、この国に対する恨みは、長い年月を経た今では薄らいでいるが、完全に消え去ったわけではない。
今回の一件に関わったことで頑なな彼女の心がほぐれ、さらなる成長を促すきっかけとなったに違いない。
「おかえりなさぁーーいぃっ!」
小さな女の子が物凄い勢いでアーシアに飛びついてきた。
「マリーちゃん」
「ねえね、おーふぁさま、こうていへいかにほめられたんでしょ? すごーい!」
「あれ、もう伝わっているんだ?」
「みんな知ってるよ!」
遠くからマリーの母親が見つめているが、以前のような蔑んだ視線は失われ、少々困惑気味のようである。当然といえば当然である。アーシアは今や皇帝に認められた人物なのだから──。
「本当に、これで良かったのかしら」
「それはわからん。正義などは誰にも語れないことだ。だが少なくとも、お前は自分自身を証明して見せた。その事実は変わらん」
アーシアにはまだ、自分がしたことが正しかったかどうかはわからない。だが、一つの、だがとてつもなく大きな勝利をもたらしたことにより、忌み嫌われる者だったオーファが一転して英雄として扱われることになる。歴史に名を刻むと同時に、常識をも覆したことになる。それは自己の証明ではなかろうか。
「おじい様はどう見ました? この国を」
「うむ、思っていたよりは見込みがありそうじゃ。今後、この国の行く末は見ものだ」
「うん……そうですね」
思うに、まだ生まれて間もないトラシェルム帝国が、これから先どのような未来を描いてゆくかは全くの未知数だ。
いつか、力を貸したことが誇りに思える日が訪れるか、それとも悔やむ日が訪れるか。
いずれにせよ、責務を果たした今、これ以上戦争に関わる必要はなくなった。これから先はただ傍観してさえいれば良い。アーシアはそう考えることにした。
懐かしの我が家が見えてきた。
目印の大きな木に、軒下の愛らしい花々も二人の帰宅を出迎えてくれた。
アーシアは玄関の扉を開けると、クエインより一足先に家の中へ入った。
「この家の匂いも、懐かしく思える」
家の中の空気を吸い込むと、再び平穏な日々が戻ってきたことを実感する。刺激的な冒険生活もいいけれど、帰る場所がある生活というのも安心感があってよいものだと思う。
「ところでアーシアよ。もうちっとばかり聞きたいんじゃが」
背後よりクエインが問いかける。
「なぁに? おじい様」
「うむ。帝都ではずいぶんと人気者だったようだが、めぼしい者はおったかの?」
「何のこと?」
アーシアには、クエインの質問の意味がよくわからない。
「わからんか。近寄ってくる男の中に、良い相手が見つかったか、と聞いておるんじゃよ」
「ああ、その話……」
それはクエインが時々あらわにするのだが、言われる側にとってみれはお節介でしかないハナシである。
思春期の多感な少女の時分からアーシアを我が子のように育ててきた。そのせいで娘が同年代の女性ならば誰しも持っていそうな女らしさを身につけることが出来ず、また色気のない冒険生活のせいで恋愛から遠ざけてしまったと感じ、申し訳なく思い、とても気に掛けているのだ。
例えば、別のこと──学問に関しては、優れた学識者であるクエインが師となることで、実に博識で聡明な女性に育ったわけだが、皮肉なことにそういった知的な部分が余計に彼女の直情径行を際立たせる原因になってしまっている。
時に直感的な彼女の行動は、お転婆な子供時代そのままで、全く成長していないのだ。他人にどう思われようがてんでお構いなしだ。内面が未だに子供っぽいので、男性との大人の付き合いなどは不得手もいいところだ。非常に残念な美人と言う他ない。
(そもそも、あの勝気な性格では、男も寄り付かんじゃろうな。一人の女としての幸福を知るのもいいとは思うのじゃが──)
そういった親心もある。
たとえアーシアが異端な存在オーファであっても、一人の女性であることに違いは無く、世俗的な幸せと無縁だと割り切る必要はないかもしれない。
彼女はまだ若いのだし、これから現在とは別の、幸せな人生を歩む余地は十分にある。クエインは最近では、そんな風に思うようになった。
「──で、答えはどうじゃ。帝都にいい男はいたかの?」
「……全っ然。帝都の男とか、みんな同じに見えちゃってダメよ」
無念! どうやら、彼女のお眼鏡にかなうとかかなわないとかいう以前に、今は恋愛そのものに対しての興味や関心がそれほどでもないようだ。この種のクエインのお節介は、彼女にとってはうっとおしいだけのものである。
「やれやれ、じゃのう」
クエインは深い溜息をついた。彼の願いは届かない。
娘の春は、まだまだ遠そうだ。
◆◆
カルフィノ・ファリの街では帝都のことも詳しくは伝わってはこない。戦争の準備をしているという話もあるが、今のアーシアには関係の無いことに思われる。いずれにしろトラシェルムの為に戦うつもりはもう無いのだ。
平穏無事を愛するアーシアの願い通り、彼女達の平穏な日々が続いた。陽気はだんだんと暖かくなってくる。静かなローセルムの街にも、この季節になると行商人がよく訪れる。アーシアは商人の姿を見ると父親を思い出してしまう。
今はもう、夢に見ることもなくなってしまった思い出の数々。凄惨な思い出だけではない。大切な思い出もある。いや、もしかしたらあの悪夢のような思い出すら、大切な過去なのかもしれない。大人になった彼女は今やそう思うことができるようになっていた。
そんなある日のこと。
二階にある自室の窓から外を眺めながら、アーシアは帝都での思い出に浸っていた。
「ミュリオン皇帝、ロシオウラ様、ダコワ提督、それにサスファウト……みんな元気かな」
帝都のことを自分とは無関係と思ってみても、そこで会った人々のことは気になる。
「おじい様と放浪の旅をしていた時には思いもしなかった。まさか国同士の戦争に関わるなんて」
愚かしくも、争いの絶えない世界である。
「天空世界……この世界は、滅びへと向かう世界。おじい様はそう言っているけど」
ロスト・エラ最期の時。世界は砕け、地面は鎖を断ち切って空に舞い上がった。浮かび上がった大陸は、下空を覆う魔晶飽和層キャニノゥによって地表と永遠の別れを告げている。
人はどんな過ちを冒したのか。
ロスト・エラにおける古代技術の進化発展が、天空世界を生み出したのではなかったか。
それが現在の人間たちの醜い争いの元になったのではないか。
わずかな地表と資源を巡って人間は争っているのだ。
少し考えれば、それがシーレの寿命を縮めるだけだということがわかりそうなものなのに。
アーシアは今や強大な力を得たオーファ。しかし彼女でさえ、この世界のためには何もできない、そんな無力感を感じている。
彼女は本棚から一冊の本を取り出した。
それは、この世界の歴史を考察した書籍である。
失われた時代。
それはあらゆる意味で消失した古代時代。
最早戻ってはこないシーレの真の姿だ。
古代術やそれを応用したテクノロジーが極限まで開発され人間は慢心していた。
強大な力を持ちすぎた人類がどうなったか。それはシーレを見れば明らかだ。
伝承によればロスト・エラ最後に起きた大戦で、世界は今の姿になったという。
女神と邪神の闘いなどというおとぎ話が残されているが、真意の程は定かではない。
人間たちが魔晶バランスを崩壊させた可能性も否定できない。
いずれにしろ、ロスト・エラの最後にもたらされた大破壊によって世界が壊滅したことは紛れも無い事実である。
高度に栄えた古代術の文明とテクノロジーを失い、大地すら失った。浮遊した陸地の人間だけが生き残り、新たな生命の営みを開始した。魔晶素の結晶化の技術、それによって生み出される魔晶エネルギーを利用した新たなテクノロジーを開発し、ゼロになった文明を再び復興へと導いてきた。我々は残された地表にすがって生き延びている。真の海を失ったために空を海と称し、新しい秩序の元に生きている。
それは破壊と創造の過程には違いない。また、新たな世界に適応することによって、我々は生きる術を磨いたのかもしれない。
だがその一方で、目先の利益ばかりに執着する人間の愚かさは進歩というには程遠いものだ。
──アーシアは静かにその本を閉じた。
自分の中に流れるメナストの力……。神の球体、コアがもたらした魂の契約。私とリシュはもう逃れられない運命の輪の中に入ってしまった。
彼女は目を閉じ、しばし物思いに耽る。
運命……全てをそう片付けるのは至極簡単なことだ。そこには偶然の割り込む余地は無い。全てが必然的に生じる事象。確かに、偶然ではありえないようなこともしばしば起こりうる。まさに自分たちの存在がそうだ。魔晶素の恩恵を得るなど、偶然でありえるはずがない。
──ならば。
私と妹が今こうして生きているのは、やはり運命だということにもなる。
そうかもしれない。でも、人の生きることその出来事を、運命とか偶然とかそんな言葉で片付けられていいものなのだろうか。私たちは運命に従って生きている存在でしかないのか。そんな意味を与える必要が果たしてあると言うのか。私たちの得た命と限りない自由に勝るものがあるというのかしら。
……命そのものが奇跡あり希望であり、生きるということはそれだけで価値のあること。
それは妹が教えてくれたことだった。リシュラナはまさに奇跡を具現化している。
運命であれ偶然であれ、自分たちが生きていると言う曲げられない事実がここにある。
それだけで十分だ。
アーシアは椅子から立ち上がって、本棚に本を戻した。
それから再び椅子に腰掛けて、頬杖を突いて。
また窓の外に目をやってしまう。
なんだかこのところ窓の外ばかり眺めている気がする。どこか物憂げな毎日。前はこんなじゃなかったのに。
もしかしたら、世界の実情を目の当たりにしたからかもしれない。戦争を体験して、肌で感じたリアルなシーレの姿に憂いを感じている。
ずっと向こうに教会の鐘が見える。
ネア・ミア教の教会だ。世界を救ったとされる女神を崇める教団の。
「女神様か。神様が本当にいるんなら、シーレを救って欲しいものだけど」
都合のいいときだけ神様頼みなんて、虫がよすぎるとは思うけど。
アーシアは教会の鐘をぼーっと眺めていた。
「何、リシュ。考えすぎるのはよくないって?」
心に響く妹の思い。
声はなくとも、直接心で感じる妹の思い。
妹はいつも姉に優しい。
「……ありがと。そうよね。考えても、しかたないか」
「アーシア様ー!」
一階からトマの呼ぶ声がする。
「食事ができましたよー」
「はーい、今行きます」
アーシアは椅子から立ち上がると、自室を後にした。