4−2 「未知なる世界」
以上が、ここに来る前に起こったことである。恵悟には洞窟に吸い込まれてからの記憶がないので、結局のところ光に巻き込まれ、今まで気を失っていたのだという答えしか導き出せなかった。その間に自分たちの身に何が起こったのかなど知リ得るはずもない。
恵悟はハッとした。重要なことに、ようやく気がついたのである。
(そうだ、葵! 葵はどこだ)
どうしてこんな大事なことに早く気が付かなかったのか。恵悟は頭から血の気が引く思いがした。一瞬、後悔の念を抱いたが、しかしどうやら心配はいらなかったようだ。やや離れた柱の後ろから、白い足がのぞいている。
「オイ、葵、大丈夫か」
恵悟は立ち上がり、葵の傍に駆け寄ると、彼女に声をかけた。
「うん……」
呻きにも似た声を出してから、葵はゆっくりと体を起こした。
「ケイ……君」
どうやら無事なようだ。幸い、二人とも怪我も無い。
「いったい何がどうなってるんだ」
恵悟は立ち上がって、周囲を見回した。
どうやら建物の内部らしい。石壁の一面には松明のような明かりが掛けられ、薄暗いけれども辺りを確認できるくらいの明るさはあった。
「不思議な場所」
まるで石の棺おけの中にいるようだ。窓の一つも無く、心なしか空気がひんやりとしている。
「この明かり……火じゃないよ」
持ち前の好奇心から、色々なものを見て回る葵。松明らしきものを近くで眺めて言った。
「石……? 光る宝石? どういう仕組みなんだろう」
松明だと思っていた壁の明かりは、石のようなものが発光しているのだった。切れかけの電球のように明滅し、またランプの炎のようにゆらいで見える。
「何だろう? これ」
それから葵は、部屋の中央で得体の知れない物体を発見した。緩やかな明かりに照らされ、浮かび上がる奇妙なシルエット。それは、何かの機械のようだった。
「葵、こっち来いよ」
恵悟が呼んだので、ここで葵は彼の元へと向かった。
「ここだけ壁の色が違うんだ」
彼が見つけたのは、他の部分とは明らかに色も材質も異なる、灰色の壁面だった。
「でも、行き止まりだよ?」
「あからさまに怪しいんだけどなあ」
そう言いながら、壁の周囲を見回す恵悟。
「見てみて。綺麗な石が嵌ってるよ」
その扉の中央には丸い宝石のような物が嵌められている。葵は何気なく、その美しい球体に触れてみた。
「すべすべしてるぅー。ほら、ケイ君も触ってみなよ」
「何言ってんだよ。そんなことより出口を探すほうが先だろ……」
そう言いながらも、その球体に手を伸ばす恵悟。
「わっ」
すると、大きな音をたてながら巨大な壁が中央から分裂し、目の前に新たな空間が現れた。どうやら、灰色の壁は扉だったらしい。
「ケイ君、すごーい。どうやったの?」
「わかんねーよ」
偶然とは言え、突破口は開かれた。
「何か探検みたいで楽しいね」
葵が実に楽しそうに言った。この状況下でこの度胸はどうだ。
「あんなに探検、嫌がってたくせに……」
扉を出て少し歩くと、今度は巨大な空洞に出た。そこは相当な広さと天井の高さがある部屋だった。
「……それにしてもでかい柱だな」
大人数人が手を繋いでも届かないであろう太さの石柱が、何本も立っている。そして、その柱には例の光る石の照明が掛けられ、図形のような文字がびっしりと刻まれている。
「ねぇ、私たちもしかして、誘拐されたのかな。気を失わされて」
部屋を調べながら、葵がそんなことを言った。
「そうだとしたら、色々おかしいだろ。あの防空壕で起きたことだって説明つかないじゃん」
「だから、あれはきっと……」
そこまで言って、葵は口をつぐんでしまった。結局、彼女の口からその続きは出てこなかった。
とにかく何があるかわからないので、二人は距離を置かずに歩いた。
葵の手はしっかりと恵悟の手と繋がっていた。こんな状況ではあるけども、葵はそれが嬉しくて仕方なかった。こうしてよくわからない状況に陥っているのは確かに怖いけども、恵悟と二人きりでいられること、彼がいてくれる頼もしさの方が断然勝っていた。逆に、恐怖感がこの気持ちを盛り上げていると感じるほどでさえあった。もちろんそんなことは当の恵悟には全くわからないだろうけども。
「ところで今何時かなぁ?」
ふと葵が言った一言で、恵悟は立ち止まった。
「あの洞窟にいたころは夕方頃だったけど……」
恵悟は腕時計を見た。ところがデジタル表示の数字がメチャクチャに化けてしまっていて、全く今の時間はわからなかった。
「壊れちまったのか?」
「私のはアナログだけど……」
葵は言葉を切って、腕時計の盤面を恵悟の方に差し出した。心なしか、顔が青ざめている。
時計の針は……止まっている。ピクリとも動かない。
二人は立ち止まったまま、言い知れぬ不安を感じずにはいられなかった。こんなことがあるのだろうか。
次の瞬間、恵悟は何かに気づいたらしく、声をあげた。
「そうだ、ケータイ」
「あ、ケイ君持ってるの? 私、鞄の中に置いてきちゃった」
荷物はほとんど、例の防空壕の近くに置きっぱなしである。とは言え、その置き去りの荷物から、自分たちのことを見つけてくれる人が現れるかもしれないという期待が無いわけでもなかった。
それにしても、電話にしろ時計にしろ、なぜもっと早く気づかなかったのだろう。やはり冷静な思考ではなかったのかもしれない。恵悟はポケットの中から電話を取り出した。
「ん? おかしいな」
携帯の画面が真っ暗である。電源が入っていないのだ。もう一度電源を入れる操作をしてみたが、反応はない。
「電池切れ……? まさかね。充分残っていたはず……」
恵悟は考える。一体どのくらいの間、気を失っていたのだろう。電池がなくなるほど長く気を失っていたとはさすがに考えられない。電波が届かないのは建物の中だからだとして、アナログ時計すら動いていないのはどういうことなのだろう。
恵悟も葵も口数が減って、それからはほとんど無言で歩き続けた。通路は分かれ道も無く、二人には道に迷う心配は無かった。
やがて、そんな彼らを出迎えるかのように、螺旋状に連なる上り階段が現れた。
「出口に通じてるといいんだけど」
沈んでいた葵の表情に明るさが戻った。だが、さすがに彼女にも疲労の色がある。普段のような元気はないようで、言葉にも少し力が無かった。
「とにかく、行こうぜ」
二人は階段を上り始めた。どうやら自分達のいる場所はかなり地下深くにあるらしく、中々階段の終わりが見えてこない。しかも上り終えたと思ったそこは、行き止まりになっていた。二人は落胆の色を隠せなかった。
「まじかよ……」
「もしかして、閉じ込められたのかな」
葵が不安そうに言った。
「そうだとしても、行方不明になってりゃ誰か捜索願いとか出すだろ。大丈夫、すぐに見つけてもらえるって」
恵悟は努めて明るく言った。それは彼自身の不安をかき消すため、自分に言い聞かせるためでもあった。
「違う道があるかもしれない。探してみよう」
そう言って恵悟は引き返そうとした。
「……待って、ケイ君。光が……」
階段を遮る石の天井を、じっと見ていた葵がポツリと呟いた。
よく見ると、その行き止まりと思われる天井の壁から、ごくわずかに光が差し込んでいる。どうやら隙間があるようだ。
「もしかしたら動かせるかも」
恵悟は階段の一番上の段に上って、肩で石の扉を持ち上げるように押してみた。
「動かない……隙間があるのにな」
「ねぇ、コレ」
葵がまた何か発見したらしい。見れば左手の壁に、ごく小さな紋章のような刻印がある。さらに、その紋章から青白い光が放たれてはすぐに消える。謎の紋章は明滅を絶え間なく繰り返し、その至極神秘的な光りと相まって、一種の力強さを感じさせた。
「さっきから光ってたか? こんなの」
「わからない」
二人は顔を見合わせた。
「やたらいじるのは怖いけど……」
躊躇う葵。恵悟は俺が調べる、ということを目で伝えた。
よくよく観察してみると、その紋章は壁に刻まれているのではなく、ただ光として浮き上がっているにすぎないことがわかった。つまり壁自体になにかあるわけではなく、紋章が壁で点滅しているだけなのだ。それはなんとも不思議な光景であった。
「これも、一体どういう仕組みなんだろうな……」
恵悟はしばらくそれを眺めていたが、やがて静かに伸ばした指先で、光を放つその壁に触れてみた。
「どう?」
葵は不安そうに後ろから覗き込んでいる。
「いや、何も────」
しかし、次の瞬間、恵悟の思考に何かが映りこんできた。
それはヴィジョンであった。網膜の内部から直接、脳へと流れ込んでくる意識の奔流であった。
「──!」
ノイズが混じってはっきりと見えないが、どうも見覚えのあるヴィジョンであった。
「さっきの夢……?」
鮮明で忘れることのできなかったさっきの暗闇の夢、そこで引かれた自分の右手の感触。そしてテレビの放送終了後のあの砂嵐に混じって、一瞬ではあるが、夢の中に出てきた女性の顔がハッキリと頭に浮かんだ。
「そうかあの人、学校帰りに俺を呼んでた、あの人だったのか」
夢の中で繋いだ右手の感触が甦ってくる。葵の手の感触とはまるで違う、もっと儚げだけれど優しくて温かい手だった。
恵悟は、例の暗闇のなかで繋いだ自分の右手を眺めた。すると驚いたことに、その右手の掌には壁の紋章と全く同じ形の光が浮かんでいるではないか。
「ケイ君、その手……」
葵は驚いた様子で、恵悟の右手を見つめている。
──なぜこんなものが自分の手に?
恵悟は思った。
あの女性が、恵悟を導くために、与えたのではないだろうか。
「……」
恵悟は黙って、その掌を壁の紋章に当ててみた。
キィィィーン。
すると奇妙な高音が鳴り響く。それは、まるで恵悟の掌と壁の文様が共鳴しているかのようであった。
そして。
ズズズ。
石同士が擦れ合う音と共に、石の天井が少しずつスライドしていった。そしてその先に新たな空間が現れた。やはりこの階段は上へと通じていたのである。
壁にあった紋章は役目を終えたかのように消えてしまい、もはや点滅しなくなった。同様に、恵悟の掌に現れた紋章も消えていた。
「……」
恵悟は自分の手の平を、葵はその恵悟の横顔をじっと見ていた。
とにかくも、こうして二人は地下からの脱出に成功した。果たして彼らは何か犯罪に巻き込まれ、こんなところに幽閉されていたのか。しかしそれは違うのである。事実はその方がまだ良かったと思えるものだった。
階段を上ると、そこは何かしらの建物の内部だった。
「葵、出口だぞ!」
建物の入り口から白い陽光が差し込んでいる。
「良かったぁ」
二人は安堵し、そこから外へと脱出した。
まず、彼らが一番最初にしたのは、外の空気を目一杯吸い込むことだった。
そしてその後、改めて周囲を見回す。
だが四方を高い石壁に囲まれていて、ほとんど何も見えなかった。
「ケイ君、あそこから外に出れそう」
葵が指差した先に、通路と思しき石壁の切れ目がある。二人はそこから石壁の外に出た。
そして、そこに広がっていたのは、予想だにしない光景だった。
「どこだぁ、ここは」
──自分たちは今、どこにいるのだろう。目の前に現れたのは、まるで荒れ果てた遺跡のような風景だった。崩れた石壁や横倒しになった柱、地面の無造作に転がる石の像や瓦礫……。それは古代神殿とか、古代文明の遺産とかいう、写真や映像でしか見たことの無いような建造物を彷彿とさせるものだった。二人は呆然とするほか無かった。少なくても、そこは日本の情景とは少しも思われなかった。
はるか昔は石壁で囲まれていたであろうこの廃墟は、もはや崩れ落ちた石の残骸が転がるばかりで、その姿をほとんど留めていない。植物が繁茂し緑に彩られた柱や瓦礫から、永い年月が経過していること、そして全く手入れされていない様子から、普段ここには人が訪れることも少ないことが予想できた。
そしてこの遺跡廃墟は森の中にあるのだった。遺跡と同じように年月を感じさせる巨大な木々が、天空を突き刺さんばかりに力強くそびえ立っている。巨樹の葉が見上げる空を緑のヴェールで覆い、まるで屋根のようだ。白い陽の光が帯になって、その隙間から差し込んでいる。
原生の森とかいう言葉では表せないような、神秘的な空間。澄んだ空気が支配する、神聖さすら感じさせる美しい森だった。
「外国……なの?」
葵は目の前の景色が信じられず、また恵悟も何か言おうとしたが、言葉が見つからずにいた。
ふと、なにやら周囲が騒がしくなってきたような気がした。人の話し声のようなものが、どこからか聞こえてくるのである。
「……人が来る。よくわかんないけど、助かるかもしれないぞ」
恵悟は言った。自分達の看に何が起こったのかはよくわからないが、とにかく人間がいるということが嬉しかった。
やがて幾つもの人の影が二人の目の前に現れた。
──しかし、現れたその人間の姿に、恵悟達はは恐怖し驚愕した。
それらは全身に物々しい甲冑を身にまとい、手には槍を持ち、腰に剣を携えているのだ。
しかし、もっと驚いたのは、それらの人物の顔であった。人と同じ体型をしてはいるが、その顔は人間ではなく、獣のようであった。犬に近いようだが、精悍な分、狼というのがふさわしかった。
そんな人間ではない者が次々とやってきて集団になると、あっという間に二人を取り囲んでしまった。
恵悟はとっさに葵を背にして、これらの生き物を睨みつけた。
「何なんだ! お前ら」
そう叫んだものの、声はうわずっていた。
(こいつらは何なんだろう。俺たちに危害を加えるつもりだろうか)
恵悟は身構えた。相手は大人数だし、武装している。もし襲われたら命はない。最悪の場合、彼は葵だけでも逃がすつもりだった。一方の葵はもう言葉を発することができず、ただ恵悟の背中にしがみついていた。
狼人間たちの目は、獲物を狙う野生動物そのものである。血に飢えたように、爛々と瞳を輝かせている。低いうなり声をあげ、今にも襲ってきそうな空気があった。
「……どうした」
何者かの声がして、恵悟たちを取り囲んでいる輪の一部が崩れた。そして、そこからもう一人、新たな人物が現れた。
これもまた同じ狼人間であったが、体格は他の者と比べて圧倒的に大きくて逞しかった。顔立ちも精悍で、ある種の猟犬を思わせる。身にまとった甲冑は動きやすさを重視してか、守っている部位も少ない。そして、その背中には一振りの巨大な剣を背負っている。
彼の登場で他の狼人間たちは静まり返った。どうやら、親分格の人物のようである。
「パタ、人間です」
狼人間の一人がそう告げた。
パタと呼ばれた白毛の狼人間は表情ひとつ変えずに、二人の人間の姿を眺めていた。
「ニュイの予見は正しかったのぅ」
その声の主は、パタではない。それはパタの足元にいる狼人間が発したものである。ずいぶんと小さく、また年老いて見えた。実際、その声は老婆そのものであった。
「いかにしましょうか?」
「そうじゃなぁ」
この二人の狼人間は、恵悟と葵の処分について考えているようである。
恵悟は勇気を振り絞り、怒鳴りつけた。
「おい、お前らは何なんだ! 俺たちをどうするつもりだ」
正直、恵悟本人もこの状況下で強気な語調の声が出るとは思わなかった。
「……」
パタが無言のまま、恵悟の元へと歩き始めた。近くで見れば、まるでその巨体が山のように見えてくる。そして、彼が恵悟の目の前で立ち止まったと思った次の瞬間。
「!」
パタはもう、その巨腕を伸ばして恵悟の襟首を掴んでいた。
そしてそのまま、片手で軽々と恵悟を持ち上げる。割と背の高い恵悟の足がバタバタと宙を蹴った。それは、恐ろしい程の力だった。恐らくほんの少し力を込めるだけで、この狼人間は人間の首など簡単にへし折ることができるだろう。
「ぐっ……」
「俺は人間が大嫌いだ。今ここでお前らを殺して肉を喰らってやってもいいが、故あってそれはせん。だが、死にたくなければ生意気な口を利かないことだ」
「やめて! やめて!」
葵は目に涙を溜めながら、ただ叫ぶことしかできなかった。恵悟は呼吸もままならず、だんだん体の力が失われていくのを感じた。
と、パタが手の力を緩めたので、恵悟は地面に落下した。そして激しく咳き込んだ。葵はかがみこんでその背中をさすった。
「……帰るぞ。こいつらは集落に連れて帰る」
パタはフン、と鼻を鳴らした後、周囲の狼人間達にそう告げた。
こうしてわけもわからないまま、二人の高校生は狼人間の虜となってしまった。